第十七話
【公爵都市ハーヴェンスロウ 穀倉地帯外縁】
顔色が悪い。
眠っていない者のそれではない。
バーリンは、エドランを見て言った。
「止まるぞ」
「……まだ行ける」
「行けるかどうかではない」
道を外れ、畑の外縁に寄る。
使われていない古い馬小屋があり、屋根と壁だけが残っていた。
「休む。半刻でいい」
タルヴァスもすぐに従った。
周囲を警戒し、安全を確保する。
馬小屋の中は薄暗く、干し草と土の匂いが混じっている。
外では農夫が通り、遠くで子供の声がした。
三人は腰を下ろした。
しばらく、沈黙が続く。
バーリンが、横目でエドランを見る。
「……おぬし、そろそろ気になる事があるなら打ち明けたらどうじゃ」
「何をだ?」
「隠してもしょうがないぞ、わしらが気付かぬはずもなかろう。何か感じているものがあるんじゃろう?」
エドランは、ゆっくり息を吐いた。
「…ああそうだ。…正直に言おう」
顔を上げないまま、言葉を探す。
「追われている感じが、消えない」
「使徒か?」とタルヴァス。
「…そうだが、そうじゃない」
首を振る。
「来ていない。気配もない。だが……」
床の藁を指先で押す。
「選択肢が減っている感覚だけが、残ってる」
二人が黙って聞く。
「村を通れば、人が増える。
人が増えれば、目が増える。
目が増えれば、噂が増える」
「街に入れば、壁が増える。
道が決まる。逃げ方が減る」
「畑にいれば、視界は開ける。
だが、隠れられない」
顔を上げる。
「どこにいても、“安全”が増える感じがしない。ただ、形が変わるだけだ」
バーリンは腕を組んだ。
「敵は見えん。だが、不利になっていくと」
「……ああ」
エドランははっきり頷いた。
「戦闘じゃない。追跡でもない。“楽な手”が、消えていく」
タルヴァスが低く言う。
「洞での後からか」
「多分な」
「俺たちが動けば動くほど、盤面が埋まっていく気がする」
少し間を置いて、エドランは続けた。
「さっきの子供を助けたのは、間違ってない。
だが、あれで“人に知られた”。
それだけで、一手進んだ気がした」
「……」
「……俺たちは、動かされている。
追われているんじゃない。“使われている”気がするんだ」
沈黙。
外で、馬が草を噛む音がする。
バーリンが、ふうと息を吐いた。
「なるほどのう。つまり今は、敵と戦っているわけではない。“状況”と戦っておる」
「……そうだ」
バーリンは立ち上がり、エドランの肩を軽く叩いた。
「なら、なおさら休む。
判断が削られていく時ほど、止まらねばならん」
タルヴァスも頷く。
「焦りは、相手の武器になる」
エドランは、ようやく小さく息を抜いた。
「……ありがとう」
「礼を言う場面ではない」
バーリンは笑うでもなく言った。
「まだ、選べておる。
なら、まだ負けとらん」
三人は並んで腰を下ろす。
光が馬小屋の隙間から差し込む。
外の世界は平穏だった。
だからこそ、エドランの言葉は、重く共有された。
追跡は見えない。
敵もいない。
だが、“楽な道”だけが、確実に消えていく。
それを、三人は同じ場所に座って知った。
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馬小屋を出た三人は、畑沿いの農道を北へ進んだ。
穀倉地帯の外縁には小さな集落が点在し、荷運び用の馬を扱う農家や牧場が必ずある。
ほどなく、低い柵と納屋の並ぶ一角に辿り着いた。
囲いの中では数頭の馬が鼻を鳴らし、干し草の匂いが朝の空気に混じっている。
「……ここで補給しよう。あの逃走で、三頭失った。このままじゃ速度が落ちる」
すると、近くで水桶を運んでいた村人が三人を見て声をかけてきた。
「旅の方かい。……この頃、よく見るな」
何気ない調子だった。
だがその視線は一瞬だけ、三人の武器と装いをなぞってから戻る。
「馬を探してるなら、ここの牧場主に言うといい。
……今は皆、街道を避ける」
「なぜじゃか教えてくれるかのう」とバーリンが問う。
村人は一拍だけ迷い、声を落とした。
「……噂だよ。
公爵様のご兄弟が、反旗を翻したって話が出てる」
タルヴァスの金色の目が、わずかに細くなる。
「本当か?」
「分からん」村人は首を振る。
「だがな、“南の方で兵が動いている”とか、“公爵様の命令じゃない兵が巡っている”とか……
似た話が、あちこちから来る。
ここら辺も物騒になってきたもんだよ」
それだけ言って、村人は水桶を抱え直し、足早に去っていった。
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牧場から出てきたのは、日に焼けた顔の男だった。
事情を話すと、男は一瞬だけ三人を見てから、囲いの中へ案内する。
「馬は出せる。
……だが最近は、急ぎの客が多い」
馬の綱を外しながら、牧場主は低く続けた。
「公爵様の兄君が兵を集めている、だの、
領内にどこのとも知れぬ私兵が出始めた、だの……
この頃はな……“反旗”って言葉まで出始めた。物騒になってきたもんだよ」
「それで街道を避ける者が増えたと」
「ああ。誰が味方か分からん時、人の多い場所を避けた方がいいだろう」
バーリンが、低く唸る。
エドランは黙ったまま馬の脚を確かめ、呼吸を見て、静かに三頭を選ぶ。
代金を支払い、鞍を付ける時、バーリンの手が一瞬止まった。
あの夜、矢と悲鳴の中で倒れた馬の感触が、三人の間を過る。
「……すまんの」
誰にともなく、バーリンが呟く。
新しい馬たちは鼻を鳴らし、地を踏みしめた。
まだ何も知らない生き物の体温が、手綱越しに伝わる。
エドランは鞍に乗りながら、低く言った。
「次は……無駄に死なせない」
それは馬に向けた言葉のようでいて、
自分たち自身に言い聞かせる声だった。
三人は再び進路を北へ向けた。




