第十六話
【公爵領・穀倉地帯外縁】
夜明けとともに霧がほどけ、穀倉地帯の輪郭がゆっくりと現れた。
なだらかな畑。
水路に沿って並ぶ倉。
風に揺れる麦の穂。
遠くに見える農家の屋根。
人の営みが、はっきりと“続いている”土地。
それは、トレイドラン平原を越えてきた彼らにとって、初めて現れた「正常」だった。
少なくとも見た目には。
「……やっとここまで戻れたのう」
バーリンがそう言って、深く息をつく。
タルヴァスも周囲を見回し、剣から意識を離すほどではないが、張りつめていた空気をわずかに緩めた。
畑には人影があり、遠くで牛が鳴き、水路のそばには洗濯物が干されている。
争いの匂いはない。
緊急の気配もない。
本来なら、安心できる光景だった。
だが。
エドランだけは、馬上で小さく息を詰めていた。
視界に入るものすべてが、妙に“多い”。
音。
動き。
配置。
人が多いのではない。
情報が多い。
風に倒れる草の方向。
鳥の群れが旋回する高さ。
水路沿いを歩く農夫の歩調。
遠くで鳴く犬の間隔。
一つひとつは取るに足らないはずなのに、それらが勝手に頭に入ってくる。
(……静かすぎる、わけじゃない)
(……騒がしいわけでもない)
ただ、“整理されすぎている”という感覚だけが残った。
彼がそう感じた、その時だった。
畑の向こうから、短い悲鳴が上がった。
子供の声だ。
反射的に、三人は声のする方に向かった。
畝の間を抜けると、そこにいたのは、地面に崩れた少年と、取り乱す農夫だった。
少年は痙攣し、喉からひきつった音を漏らしている。
「急に倒れたんだ……! さっきまで走り回って……!」
エドランは、すぐに脈を取る。
速い。乱れている。
バーリンが状況を見てすぐに判断した。
「毒草じゃな。たまにある。……まだ間に合う」
腰袋から薬草を取り出し、手早く処置をする。
砕き、水で溶き、口元へ。
数瞬の沈黙の後、少年の痙攣は徐々に弱まり、荒かった呼吸が落ち着いていった。
「……あ……」
かすれた声。
農夫が膝をつき、何度も頭を下げる。
「ありがとうございます……本当に……!」
周囲に人が集まり始める。
水を持つ者。
布を差し出す者。
心配そうに覗き込む者。
小さな善意の輪ができていく。
その中心で、エドランは立ったまま、動かなかった。
胸の奥に、はっきりしない違和感が残っている。
(……何だ、これ)
助けた。
正しい行動だった。
後悔はない。
それなのに、周囲の人の動きが、妙に“目に入りすぎる”。
誰がどこから来たか。
誰がどこに立ったか。
誰がどの方向を見たか。
意識して見ているわけではないのに、勝手に並ぶ。
(……人が、多いな)
そう思った瞬間、自分でも理由が分からず、半歩後ろに下がっていた。
「エドラン?」
タルヴァスが振り向く。
「どうした」
「……いや」
言葉が出てこない。
少年の周りに集まる人々が、ただの集団ではなく、“配置”に見えた。
人の輪が、“囲い”に見えてしまった。
自分の感覚がおかしいのか。
疲れのせいか。
「ここは、離れよう」
「え?」とバーリンが顔を上げる。
「子供は落ち着いてきた。俺たちがいる理由はもうない」
農夫が戸惑う。
「もう少し、せめてお礼としてウチで休んでいったらどうでしょうか…」
「人を集めすぎると良くない」
エドランはそれだけ言ってその場を後にした。
仲間も、それ以上は問わず従った。
その時。
畑の向こうで犬が吠えた。
一匹。
少し遅れて、別の方向からもう一匹。
さらに水路沿いで。
低く。点々と。
エドランの背中に、ぞわりとした感覚が走る。
背後で、誰かが農夫に話しかけている声が聞こえる。
「さっきの旅人は?」
「どこへ行った?」
「名は?」
それ自体は善意の声だった。
だが。
見えない場所で。
音のしないところで。
何かが、確実に進んでいた。
追跡は続いている。
足音ではなく。
戦闘ではなく。
選択肢の履歴として。




