第十五話
【トレイドラン平原】
使徒は、洞の出口に立っていた。
逃げた三人の背は、もう肉眼では見えない。
だが、それで十分だった。
彼は追わない。
いや――追う必要がない。
洞窟の水辺に残る微細な波紋。
逃走時に落とされた血液。
散った小動物の視線の動き。
それらすべてが、“位置”と“状態”を語っていた。
使徒は剣に触れない。
歩みもしない。
ただ、立ったまま、内部で段階を切り替える。
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追跡の初動で、彼はすでに結論を出している。
・対象は三名
・一名は索敵能力に長ける
・一名は近接戦闘に優れる
・一名――エドラン・ハーグレン
この一名だけが、異質だった。
視線を向けていないのに、配置を読む。
接触していないのに、危険を選り分ける。
逃走の際も、“最も死ににくい選択肢”を連続で踏んでいる。
偶然ではない。
訓練でもない。
――性質だ。
使徒は、その事実を“感情”ではなく“記録”として認識する。
そして、確信する。
――この個体は、“天啓”に辿り着き得る。
使徒の目的は、エドランではない。
正確には、エドラン単体ではない。
彼らは「天啓」を追っている。
ならば、その行動は必ず――
・加護を持つ者に近づく
・異変に首を突っ込む
・隠された存在を掘り起こす
つまり、彼ら自身が索敵装置になる。
殺せば終わる。
だが、泳がせれば――
“天啓”を持つ者が、自ら浮かび上がる。
使徒はそれを待つ。
探さない。
炙り出す。
そして、天啓を持つ個体が特定された段階で、
導線ごと処理する。
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部下を先行させた理由は単純だった。
殺すためではない。
測るためだ。
・罠を張るか
・正面で当たるか
・分断するか
・逃走経路を優先するか
結果、エドランは「未来の損失が最も少ない手」を選び続けた。
しかも、洞内では一段階上に進んだ。
――“敵が来る”ではない。
――“どこに、何が、どう配置されているか”を知覚している。
まだ不完全。
だが、成長速度が異常。
この対象のスキルは成長している。早めに始末をしたいが、天啓のスキルを持つものに辿り着くまでは泳がせたい。
使徒は理解した。
ならば狩りの構造を変える。
殺さない。
追い詰める。
選択肢を潰す。
行動を管理する。
安全圏を疑わせる。
仲間を守る判断を“弱点”に変える。
そして――
疲弊をさせて始末をする。
使徒は踵を返した。
地上に出ていた鷹が、無音で降りる。
彼は目を上げない。
だが、視界はすでに“北”にある。
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数刻後。
エドランたちは、公爵領の境標を越えた。
石柱に刻まれた紋章。
巡回兵の灯り。
遠くに見える農村の火。
本来なら、安堵する光景だった。
「……なんとか、ここまで来れたのう」
バーリンが呟く。
タルヴァスもわずかに肩の力を抜く。
だが――
エドランだけは、息が詰まっていた。
消えていない。
使徒との距離は広がった。
あの鷹の姿も見えない。
それでも、胸の奥の“狩りの最中の感覚”が、霧のように残っている。
(……いない。でも、消えていない)
それは「危険がある」ではなく、
エドランの中で「狩りの工程に入っている」という感覚だった。
自分が、何かの進行表の中に置かれている。
「……宿は使わない方がいい」
エドランは、理由を言わなかった。
言えなかった。
「どうしたんじゃ?」とバーリンが見る。
「……分からない。ただ、壁が多い場所は、良くない」
それは論理ではなかった。
だが、彼の直感はもう「当たる・外れる」の段階にいない。
「予感」ではなく「前提」になり始めている。
彼には、街が“逃げにくい構造物”として見えていた。
路地。
家屋。
橋。
倉庫。
安全の象徴だったものが、すべて閉塞の候補に見える。
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その夜。
野営地で、仲間が眠りについた後。
エドランは、独りで座っていた。
風の流れ。
草の倒れ方。
虫の鳴く方向。
それらが、意味を持って流れ込んでくる。
(……近くに兵はいない)
(……馬は北西)
(……水場に、小動物が多い)
それは“分かろうとしている”のではない。
勝手に入ってくる。
しかも、さっき洞で感じた“多視点”の名残がある。
彼は、ふと、思った。
――もし、あの使徒が見ていたものが“これ”なら。
――あれは、戦って倒す相手ではない。
――世界の使い方が、違う。
背筋に、冷たいものが落ちた。
エドランは、仲間を見た。
二人は何も知らない。
まだ、「逃げ切った」と思っている。
(……俺だけが、まだ中にいる)
狩りの中に。
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夜明け前。
遠くの農村で、犬が吠えた。
一匹ではない。
時間差で。
方向を変えて。
まるで命令が渡っていくように。
エドランの胸の奥で、“距離”が、微かに更新された。
まだ遠い。
だが――
工程が進んだ。
彼は静かに立ち上がり、剣を握った。
バーリンも、タルヴァスも、まだ知らない。
だがもう。
安全圏という選択肢は消えた。
追跡は続いている。
足音ではなく。
戦闘ではなく。
環境として。




