第十四話
【トレイドラン平原 地下洞窟】
土と岩に囲まれた洞の奥で、三人は身を潜めていた。
地上の風は遮断され、代わりに聞こえるのは水の滴る音と、遠くで地鳴りのように反響する空洞音だけだった。
「……動くぞ」
最初に声を落としたのはエドランだった。
自分でも驚くほど、はっきりと分かった。
音ではない。
匂いでもない。
視界にも入っていない。
それでも――「来ている」と確信できた。
胸の奥に、冷たい針を差し込まれるような感覚。
さっきまで“危険を予感する”だけだった直感が、今はもっと輪郭を持っていた。
距離。
数。
動く方向。
ぼんやりとした“配置”が、頭の中に浮かび上がってくる。
「……二つ。いや、三つ。洞口側から……広がって入ってくる」
タルヴァスがわずかに目を見開いた。
「分かるのか」
「……分からない。でも、いる」
それは推測ではなかった。
理解でもなかった。
“知覚”だった。
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やがて、微かな音がした。
靴底が、湿った石を踏む音。
金属が岩に触れる、かすかな擦過音。
松明の光が、洞の壁に揺れた。
追跡者たちだ。
使徒の部下たちは、無駄口を一切叩かない。
散開し、距離を保ち、洞の枝道を一つずつ潰すように進んでくる。
その動きは、人間の索敵というより、狩猟動物のそれに近かった。
エドランは、喉の奥で息を殺したまま、目を閉じた。
すると、闇の中に“歪み”のような感覚が浮かぶ。
右手の通路。
二つの足音。
左手奥。
一つ、立ち止まり、何かを見ている。
(……そこだ)
「……右から二人。左奥に一人」
自分の口から出た言葉に、エドラン自身が僅かに息を詰めた。
タルヴァスは一瞬も疑わず、影のように動いた。
獣人の身体能力が、湿った岩場でも狂いなく機能する。
音もなく、壁を伝い、天井近くの突起に指をかける。
右側の二人が角を曲がった瞬間。
タルヴァスは動いた。
一人の口が開く前に喉を断ち、もう一人が剣を抜くより早く、背骨の隙間に刃を滑り込ませる。
短い、濁った音。
エドランの胸の奥の“配置”が、二つ消えた。
「……次は、左だ」
言い切るより早く、エドランは動いていた。
自分でも分からない感覚に導かれるまま、枝道へ滑り込む。
松明を持った兵士が、背を向けて何かを覗き込んでいた。
――洞窟の生物だ。
岩陰に潜む小動物。
水辺を這う両生類。
兵士はそれらを追っていた。
いや、“それらを通して見ている何か”に操られているようだった。
エドランの剣が、横薙ぎに走る。
声を上げる暇もなく、兵士は崩れ落ちる。
その瞬間。
エドランの視界の端で、小さな影が一斉に散った。
ネズミ。
トカゲ。
虫。
それらが、同時に、異様なまでに統一された動きで逃げた。
(……見られている)
背筋が凍る。
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洞の奥で、水音が変わった。
ちゃぷ、と何かが水面に触れる音。
エドランは振り返る。
地下水の溜まった窪地。
その縁に、数匹の洞窟蛇がとぐろを巻いていた。
こちらを見ている。
一斉に。
生物として不自然なほど、同じ角度で。
その瞬間、エドランは理解した。
――使徒は、ここにいる。
いや、正確には。
「……ここを、“見ている”」
洞窟全体が、ひとつの視界になっている。
蛇の目。
ネズミの目。
水辺の小魚の目。
天井にとまる虫の目。
それらが、すべて――一つの意識に繋がっている。
「……バーリン、タルヴァス。こいつらは……洞の中そのものだ」
言い終わる前に、足音がした。
今までの兵とは違う。
一定。
迷いがない。
重心がぶれない。
そして――異様に静かだ。
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松明の光が、一つだけ現れた。
いや、正確には。
暗闇の中から、仮面だけが“浮かび上がった”。
人の表情を刻んだ、怒りの仮面。
黒馬はいない。
ローブの裾が、水に濡れても音を立てない。
使徒だった。
距離は十数歩。
それだけで、洞の空気が変わった。
圧迫感ではない。
殺気でもない。
“狩猟が完了した”という、事務的な感覚。
バーリンが、一歩下がった。
タルヴァスが、明確に息を呑んだ。
――勝てない。
理由もなく、そう分かった。
エドランの直感が、初めて“警告”ではなく“断定”を返してきた。
「……こいつは、違う」
部下とは。
今までの敵とは。
“同じ戦場に立っていい存在”ではない。
使徒は、剣に触れもしない。
ただ、こちらを向いている。
仮面の奥で、視線が無数に分裂している感覚。
洞窟中の生物が、一斉に“こちらを向いた”気配。
逃走経路。
心拍。
呼吸。
筋肉の緊張。
すべてを、測られている。
「……今だ!」
エドランは叫び、地面の石を蹴りつけた。
バーリンが煙玉代わりに粉塵を撒き、タルヴァスが天井に向かって刃を投げる。
岩が砕け、粉塵が舞い、視界が一瞬白濁する。
三人は、事前に目をつけていた地下水路へ飛び込んだ。
冷水。
衝撃。
流れに身体を預ける。
背後で、何かが動く音。
だが、追撃は来ない。
来ないのではない。
――“今は追わない”。
それが分かってしまう。
水流に押し流されながら、エドランは最後に振り返った。
粉塵の奥。
そこに、仮面だけがあった。
一歩も動かず。
ただ、見ている。
洞窟の生物の目を通して。
水の揺れを通して。
闇そのものを通して。
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【トレイドラン平原 地上】
三人は、数百メートル先の別の裂け目から、かろうじて地上へ這い出た。
夜風が、肺に刺さるほど冷たい。
誰も追ってきていない。
それでも。
「……終わっていない」
タルヴァスが、低く言った。
エドランは、無意識に胸を押さえていた。
まだ、分かる。
遠い。
だが、消えていない。
狩人の“視界”の縁に、自分たちが残っている感覚。
「……俺の直感は、もう“予感”じゃない」
エドランは、乾いた声で言った。
「……あいつを、感じている。見られている側の感覚ごと、覚えた」
バーリンが苦く笑う。
「それは、祝福じゃなく呪いじゃのう」
エドランは否定しなかった。
彼らは生き延びた。
だがそれは、勝ったからではない。
――“まだ殺す段階ではない”と判断されたからだ。
草原の彼方で、どこかの生物が鳴いた。
その音が、なぜか。
ひどく近くに感じられた。




