第十二話
【トレイドラン平原・真夜中】
月は雲間に滲み、淡い光が果てのない草原を青白く照らしていた。
風に波打つ草の海を裂くように、三頭の馬が全力で駆けている。
エドランは手綱を強く握り、前方を睨んでいた。頬を打つ夜気は冷たく、肺の奥にまで染み込んでくる。背後には何も見えない。それでも――胸の奥に、拭いきれない不快な感覚がまとわりついていた。
(……近い。何かが、近い)
理由はない。音もない。
だが、背筋を撫でるような悪寒が消えない。
「嫌な感じが続いておるのう」
バーリンが低く唸るように言う。
タルヴァスも耳を伏せ、周囲の闇を鋭く窺っていた。獣人の感覚が、夜の草原に満ちる“異物”を探している。
三人は言葉少なに、さらに馬を走らせた。
目指すは穀倉都市ハーヴェンスロウ。公爵と会うために。
その時だった。
――――高空から、かすかな羽音。
タルヴァスが顔を上げた瞬間、何かが夜空を横切った。
「……鷹だ」
だがそれは一瞬で見えなくなる。
不思議なほど、嫌な予感だけを残して。
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【使徒】
交易都市ベルカストを抜ける街道を、一団の黒が疾走していた。
先頭に立つのは、黒いローブに全身を包んだ異形。
月光を受けても、その姿は闇の塊のように輪郭を歪める。
仮面に刻まれた“怒りの表情”だけが、不気味に白く浮かび上がっていた。
エドランを追う目は二つあった。
一つは、自らの仮面の奥。
もう一つは、夜空を翔ける鷹の眼。
そして鷹の視界の中で、草原の一角に散らばる死体が映る。倒れた哨戒兵。踏み荒らされた草。戦闘の痕跡。
さらに鷹は視野を広げ――
北へ疾走する、三つの小さな影を捉えた。
その瞬間、鷹は旋回し、街道へ引き返す。
使徒の脳裏に、言葉も感情もなく情報だけが落ちる。
“発見。”
鷹が肩に舞い戻る。
使徒は、わずかに首を傾けただけだった。
命令はすでに完了している。
追跡対象、捕捉。
次の瞬間。
黒馬の進路が、唐突に変わった。
街道を外れ、草原へ。
躊躇も、確認も、号令もない。
ただ、闇へ突っ込む。
それに従うように、五人の配下も無言で続いた。
馬の蹄が大地を打つ。
だが、その音さえ草に吸われていく。
異様なほど静かな突撃だった。
夜の草原を裂く六つの影。
まるで、闇そのものが獲物を追い始めたかのように。
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【トレイドラン平原】
その頃。
理由もなく、エドランの背筋を冷たいものが走った。
「……来る」
思わず、声が漏れる。
「何がじゃ」
バーリンが問うより早く、タルヴァスが振り返った。
金色の瞳が、はるか後方の闇を射抜く。
「……いる。遠いが……はっきりと」
そこには何も見えない。
だが、確実に“何か”があった。
空気が重い。
草原が沈黙している。
生き物の気配が、逃げるように遠ざかっていく。
「……」
タルヴァスの発する呼吸音に、獣の本能が混じった。
エドランは奥歯を噛みしめ、手綱を引く。
「全速だ。もう一段上げるぞ」
三頭の馬が悲鳴を上げるように駆け出す。
だが――
なぜか、エドランの直感は告げ続けていた。
(……追いつかれる)
音もなく。
気配もなく。
ただ“確実に”。
夜の草原の彼方で、何かが彼らを狩ろうとしている。
それが人であるのか、
それとも――人の形をした何かであるのか。
まだ、誰にも分からなかった。
だが一つだけ確かなのは。
今まで彼らが相手にしてきた“敵”とは、質が違うということだった。




