第九話
【トレイドラン平原 さびれた村】
港町マリッセルを出発し数日後、エドラン達は交易都市ベルカストへと続く街道からわずかに外れた村に到着した。
交易都市への道中で見過ごされがちなこの小さな村には、旅人の姿もまばらだ。村の中心にぽつんと建つ宿屋は、年季の入った外壁が風雨にさらされ、ところどころに苔が生えている。看板に描かれた麦の穂の絵はかすれ、宿屋の名前すら判別が難しい。
エドランたちが宿に到着した時、玄関扉の蝶番が軋む音が冷たい風に混じって響いた。木造の玄関をくぐると、内部は薄暗く、古びた木の香りと微かに混じる湿気が鼻を突いた。客は少なく、広くないロビーには小さなカウンターといくつかの椅子が置かれているだけだった。
「ここしかなさそうだな。」エドランが低く呟き、カウンターの奥から現れた初老の宿主に声をかける。彼は無愛想ながらも、疲れた顔にどこか親しみを感じさせた。
宿屋の二階に通された三人が目にしたのは、簡素で質素な部屋だった。
木の床はところどころに傷がつき、踏むと小さな軋む音がした。窓際には薄いカーテンが掛けられ、風が吹くたびにかすかに揺れている。ベッドは狭く、毛布も年季が入ったものだったが、冷え込む外気を遮るには十分だった。
「贅沢は言えんが……少なくとも雨露をしのげるのう。」バーリンが床を見下ろしながら言う。
「それに、ここなら目立たない。」エドランが窓を少し開け、外の様子を確かめながら呟いた。村は静かで、遠くで犬が吠える声と風の音だけが響いていた。
エドラン達は旅の支度を解き、食事のために1階階へと降りていく。
宿屋の共有スペースには、小さな炉があり、薪が燃える音が心地よく響いている。その暖かな炎が冷えた体をわずかに癒してくれる。木のテーブルがいくつか並べられ、宿泊客のために簡単な食事が用意されていた。炉の上には鍋が吊るされ、宿主が煮込み料理を作っている様子が見える。
「この村に来る旅人は少ないだろうな。」エドランが周囲を見渡しながら言った。
「だろうのう。」バーリンが椅子に腰掛けながら目を細める。「これだけ静かじゃ、わしらが目立たないのは都合がいいが、逆に怪しまれる可能性もある。」
エドランもバーリンに同意した。「あまり長居はしない方がいいな。情報収集ができ次第、ここを立とう。」
夜が更け、宿全体が深い静けさに包まれる。窓から漏れる月明かりが、粗末なカーテン越しに部屋を薄白く照らしている。
エドランとバーリンは宿の一室で待機し、タルヴァスが斥候としてベルカストへ向かう準備を進めていた。
「準備はいいか?」エドランが低く尋ねる。
「問題ない。」タルヴァスは静かに答え、腰の剣を確かめる。彼の金色の瞳が暗闇に鋭く光った。「夜風に紛れて行動する。見つかったら戻らない可能性も考えておけ。」
「無理はするな。」エドランが手を伸ばし、タルヴァスの肩を軽く叩く。「お前なら、どんな状況でも抜けられると信じてる。」
タルヴァスはわずかに頷くと、音もなく部屋を出て行った。
扉が静かに閉まる音が響き、二人はしばらく言葉を交わさず、窓に当たる風の音だけが部屋に響いていた。
「頼もしいが、無茶をせんといいがのう。」バーリンがつぶやく。
「タルヴァスなら大丈夫だ。」エドランが窓越しに月を見上げながら言った。「俺たちは、彼が戻るまでに出発の準備を整えておく。」
宿屋の老朽化した木の梁に月明かりが差し込む中、エドランたちは迫りくる危機の中で静かに待ち続けた。
【交易都市ベルカスト】
夜風が冷たく肌を刺す中、タルヴァスはベルカストの石畳を滑るように進んでいた。
月明かりが曇り空に遮られ、街は深い闇に包まれている。彼の敏感な耳は、遠くで猫の鳴き声や風のざわめきを捉えるが、それ以外にはほとんど音がない。不自然な静けさに、彼の背筋に冷たい感覚が走る。
「静かすぎる……。」
タルヴァスは心の中でつぶやき、建物の影に身を潜めた。
街は人々の営みが続いているはずの時間帯だが、歩く人々は皆、無気力で俯き加減だ。声を上げる者もなく、ただ機械のように歩を進めるだけ。夜はお酒を飲む客で賑わっているはずの店の扉はほとんど閉ざされ、明かりのついた家々もどこか薄暗い。
「活気が抜け落ちたような街だ……。」
タルヴァスは注意深く周囲を観察しながら進む。
かつて賑わっていたはずの通りには、商人や旅人たちの賑やかな声も、子供たちの笑い声も聞こえない。街中を警戒するように歩く私兵団の鎧がこすれる音だけが、妙に耳障りだ。
彼の視界に、教会へ向かう列を作る人々の姿が映った。男女問わず、誰もが俯き怯え、まるで捕虜の様に連行されている。列の周りには、鎧をまとった私兵が表情のない顔で見張り、列を整えていた。時折、私兵が列を外れる者に短く命令を発するが、彼らの声には感情の起伏がない。
タルヴァスは教会の高い窓枠に飛び乗り、身を潜めたまま中を覗き込んだ。広々とした教会の内部には、祈りの声が響くどころか、不気味な静寂が支配していた。奥には祭壇があり、その上に明らかに異質な光を放つ黒い油壺が置かれている。
「次。」
低い声が響き、列の先頭にいた一人の男が怯えながら祭壇へと導かれた。司祭と呼ばれる男は、油壺から黒い液体を尺で掬うと、男の口に流し込んだ。その動作は儀式のように緩慢でありながら、不気味なまでに正確だった。
黒い液体を飲んだ男は感情が抜け落ちた人形の様になり、別室に連れていかれた。
その後もその作業が延々と繰り返されていた。
機械の様に同じ作業を繰り返す司祭の隣には、漆黒の仮面をつけた男が無表情で立っていた。彼の存在は、周囲の空気をさらに凍らせているかのようだった。タルヴァスは金色の瞳を細め、その男を注視する。彼の直感が、危険を告げていた。
教会を離れ、次は私兵団の様子を探るために影から影へと移動する。街の各所に点在する私兵たちは、規則正しく巡回していた。
タルヴァスは息を殺して近づき、会話が交わされるのを待った。しかし、彼らはほとんど言葉を発しない。時折、短い指示が交わされるのみだった。
その内容から、タルヴァスは気になる特徴を見つけた。「北国南部の訛り……。」言葉の端々から、公爵領にゆかりのある者たちである可能性が浮かぶ。
必要な情報を集め終えたタルヴァスは、闇の中に溶け込むようにして街を後にした。
【トレイドラン平原 さびれた村 宿屋】
夜の静寂が部屋に広がる中、エドランとバーリンはタルヴァスの帰還を待っていた。ランタンの炎が揺れるたび、二人分の影が薄暗い部屋に映り込む。
朝日が昇ってきた頃、廊下から軽い足音が近づいてきた。タルヴァスが戻ってきたのだ。
「戻った。」タルヴァスは短く言うと、立てかけてある椅子に腰を下ろした。顔には疲労の色が浮かんでいるが、その金色の瞳は冷静さを保っていた。
「どうだった?」エドランが慎重に問いかける。
タルヴァスは一息つき、静かに話し始めた。
「ベルカストは、もう以前の街ではない。活気が完全に抜け落ちている。街にいる人間は動いているが、魂が抜けたような状態だ。無気力で、目に生気がない。」
「原因はなんじゃ?」バーリンが眉をひそめる。
「教会だ。」タルヴァスの声が低くなる。「私兵団が住民を教会に連れて行き、何かの儀式を行っている。黒い液体を飲ませ、その後、人々は抜け殻のようになって別室に運ばれていた。」
エドランの表情が険しくなる。「黒い液体……?」
「ああ、それだけじゃない。」タルヴァスは続けた。「その儀式を漆黒の仮面をつけた者が監督をしていた。表情を模した仮面だが、不気味で目を背けたくなるような代物だった。奴がただ立っているだけで、空気が張り詰めるような感覚を覚えた。奴は司祭から使徒と呼ばれていた。」
「漆黒の仮面……。」エドランが低く呟いた。「それで、他はどうだ?」
「街は私兵団で溢れている。それも驚くほど統率が取れている。」タルヴァスの声に警戒が混じる。「だが、それは訓練の結果というよりも、人間らしさが消え失せた結果だ。彼らの会話は最低限の事務連絡だけで、私語は一切なかった。抜け殻のような兵士だが、彼らの訛りから北国南部公爵領に繋がりがあると推測できる。」
タルヴァスの報告を聞き終えた後、3人の間に重い沈黙が訪れた。風の音が妙に大きく感じられる中、エドランは腕を組み、視線をランタンに落としたまま考え込む。
バーリンは金槌の柄を叩きながら低く唸るような声を上げた。
「つまり、奴らは公爵領に関係しているかもしれん、ということじゃな。というか、十中八九公爵の兄君が関係しているじゃろう。」
「その可能性は高い。」タルヴァスが頷く。「北国南部公爵領の訛りは特徴的だ。偶然ではあり得ない。」
「となると、公爵に報告する必要がある。」エドランが静かに言う。「ただ、ベルカストを放置するわけにもいかない。あの行為が、どれだけ広がっているのか……。」
「無理に潜り込むのは危険じゃ。」バーリンが警告する。「奴らの兵の数を考えれば、力ずくで突破するのも不可能。正面から挑むのは愚策じゃ。」
「ベルカストを迂回し聖都に向かうのも手だが……」エドランは腕を組んで考える。「この状況を見る限り、ベルカスト以降の地域も同様の状態にある可能性が高い。そうなれば補給が不可能になり、我々の旅そのものが途絶えてしまう。」
「ならば、どうする?」タルヴァスが問いかける。
エドランは目を閉じ、一度深く息を吐いた。「公爵に助力を求めるしかないだろう。ただ、公爵の兄が絡んでいるとなれば、簡単な話にはならないかもしれない。」
タルヴァスは再び口を開いた。「今の状況で最善の策は、まず公爵に会うことだと思う。ただし、時間が経てば経つほど、状況は悪化する可能性がある。」
「わしも賛成じゃ。」バーリンも頷く。「全てをわしらだけで対応するのは無理じゃ。必要な助力は乞うべきじゃろう。」
エドランは焚火の炎を見つめながら頷いた。「決まりだな。今は休んで、明日早朝に出発する。まずは公爵領に向かう。」
3人の決意が固まる中、ランタンの火がひときわ高く揺れた。それは、嵐の前触れのようにも思えた。




