5 酒の師
アセウスとエルドフィンがカルホフディのところへ出掛けて行った午後、ジトレフは一人部屋にいた。
夕食までには戻るから、そう告げられてから、ずっと片手腕立て伏せを繰り返している。
伝承のことをより詳しく教わる、という話だった。
興味がないといえば嘘になる。
だが、自分にはオッダ部隊からの任務がある。
無闇に足を踏み入れ関わるべきではない、と判断した。
……ベルゲン滞在が終わるまでに、決断しなければならないのだ。
見知った全てを報告して、監視の任務を続けるか。
虚偽の報告をして任務を終え、オッダに帰るか。
アセウス殿の言う通り、情報が少ない現状では、任務を続けてもいたずらに危険と無駄に身を投じるだけだろう。エルドフィン殿の危惧する通り、世界はいたずらに困惑し、彼らは自由を失う。
私に話したのは失策だ。
徐々に身体に負荷がかかってくる。
じっとりと汗をかき始める。
ジトレフは速度を変えずに腕立て伏せを続ける。
『ぶぁっかだなーっなぁんも知らねぇでよぉ! でもいっかー、俺やっさしぃーしー? 気分ょくなってきたから、教えてやんょー』
鍛練中に他のことを考えるなど、あの人の時以来だ。
意識を身体に集中させない鍛練は、望ましいものではない。
身体を痛めないよう細心の注意を払いながら、ジトレフは昨夜のことを思い出していた。
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「優しぃーやっさすぃーい俺様が、酒の飲み方についておせぇてゃるっっ」
エルドフィンは両手の力を抜くと、握りしめていた角杯を離した。
そのまま、揺れる自分の頭を支え、テーブルに両肘をつく。
それを横目に、ジトレフは角杯の中身を飲み干し、エルドフィンから離れた側のテーブルに置いた。
「酔っぱらいはー、めんどくせぇ。騒ぐしー、たちわりぃー。でもぉ俺は、酔っぱらおーっつぅんじゃなくて、酔い潰れてぇの。わかる? ハイペースで飲んでんのはぁ、どー見たって、酔い潰れてぇの! まぁ経験値低ぃんじゃぁ、知らねぇんもしょーがねぇわなぁ」
酔うと気分が高揚するのか大きな声になりがちだ。
だが同時に抑揚が激しい、とジトレフは思った。
ガヤガヤと騒がしい広間では、気を抜くと隣の声も聞き逃しそうだった。
「何が違うんだ」
「酔い潰れはぁ、騒がねぇし静かだぉー。だから俺みてぇのぁー、止めねぇーでさっさと潰せばぃいーのっ」
「過度の飲酒は身体に良くないと聞く」
「知らねぇー! ぃんだよ、酔い潰れてぇーと思ってたら、ちょぉーどよく酒飲みほーだぃ出来たんだ。潰れねぇばかぃねぇーだろ」
「渡りに船だったのか」
「ぃえーす!」
エルドフィンの様子に気づいたアセウスが、カルホフディたちを連れて、心配げに席に戻ってきた。
落ち着いたようだから大丈夫だ、とジトレフが伝えると、寝てしまうようなら部屋へ、とカルホフディが勧める。
どうする? 部屋へ戻るか、とアセウスに声をかけられて、エルドフィンは、まだ飲むーっと叫ぶ。
酔っ払いは目が離せないから厄介なのだな、とジトレフは知った。
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ポタリ、ポタリと身体から汗が落ち始めた。
やはり考え事をしながらだと、鍛練の効率が悪い。
仕上げに向けて、呼吸を整える。
ハァッ、ハァッ、ハァッ
自分の呼吸の音だけが室内に響く。
目が離せなかったのは酔いのせいだけではなかった。
夕食前、アセウス殿に起こされた時から、エルドフィン殿はおかしかったのだ。
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声をかけても反応がない、とアセウスが部屋に入ったのと同じ時、念のため振動をめぐらせたジトレフは愕然としていた。
何事か?! と緊張が走った。
声をかけるアセウスのそばに感じられる人物の反応。
身体の震え、過剰な脳波、異常な動悸。
魔物との戦闘中に極限の恐怖を感じている戦士のそれと同じだった。
静かに部屋から現れて、アセウスと普通に会話をする間中ずっと、
晩餐会の広間への移動の間に、少しずつ収まるまでずっと、
外見からは想像も出来ない、極度の緊張状態。
彼に何が起こったのだ。
それとも、いつもこうなのか?
平静の装いの中に、極限の緊張が紛れ込み、隠されている。
故意的なのか? 無自覚なのか? どちらにしろ尋常ではない。
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身体が熱い。
汗が腕を伝い滴り落ちて、床に触れる手の周りに広がっていく。
筋肉が震え始めた。
汗で滑らないように意識を腕に集中させる。
けれど、それは頭から離れない。
あの驚きもそうだった。
だから、一挙手一投足、わずかな表情の動きまで、観察したかったのだ。
幸いにも席は隣だったし、酔って項垂れるまでエルドフィン殿は席を動かなかった。
アセウス殿たちは、まだしばらく宴を楽しみたがっているのが見てとれたし、
隣に居ながら飲ませてしまった責任がある、と後の面倒を引き受けた。
頬杖をついて気持ち良さそうに頭を揺らすエルドフィン殿の横で、
いつでも退席出来るように、一人食事を進めていた。
観察しながら時を待っていた。それこそ渡りに船だった。
いや、違う。
あの驚きに囚われて、振り払うことができなくて、
何か知れないかと探りを入れただろう? 私は。
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「エルドフィン殿のお陰で理解が深まった。さらに教えて貰えるか? エルドフィン殿は、何故酔い潰れたい」
「はぁあ?」
「酔い潰れたいと思っていたと……」
「んんなことゆぅーぁけねーだろ! 聞ぃてんじゃねぇーよっぶぁーかっ」
ジトレフは魚の切り身を口に運んだ。
ゆっくりと噛みながら、かって師に教わった対話手法の記憶を探る。
「分かった……。では後どのくらい飲めば酔い潰れる?」
「んんー? けっこー効ぃてきたから、二、三杯でいけんかなー? ぉまぇが邪魔しなきゃ今ごろ落ちてたんだょもぉ」
「それは済まない。様子を見ながらにはなるが、追加を貰おう。……酔い潰れると、どうなる? 何か良いことがあるのか?」
「ぉおぉおっ! きょーみあるぅ? じとぇふも飲んじゃうーっ!? すげぇよぉー」
エルドフィンが急にハイテンション気味になり、上体を起こした。
その勢いに驚いて、ジトレフが思わず身を反らした程だ。
そんなに「すげぇ」のか、と心身ともに身構えたジトレフの目には、とても嬉しそうに笑うエルドフィンの姿が映っていた。
「嫌なこと、ずぇえーんぶっ忘られれるっっ」
「…………そうか」
「あとぁ、寝るっっ爆睡っっ」
「それは、良いことだな」
「あとぉ、吐く……」
「それは、良くないことだな」
「きょーわだぃじょぶ」
「……忘れたい嫌なこと、は聞いてもいいだろうか……もしかして何か恐」
「知らねぇー……」
再び頬杖に頭を沈めたエルドフィンは、以降「びーるぅ」「さけぇ」の他は、訳の分からないことを一方的に言うだけで会話にはならなかった。
晩餐を一通り堪能しきったジトレフは、まだまだ酒席が終わりそうにないと悟り、最後の追加の酒を二杯頼んだ。
エルドフィンの予測は外れた。
一杯飲んだところで酔い潰れて、静かな寝息とともに寝落ちた。
最後の一杯はジトレフが飲み干した。
その日、三杯目のビールだった。
三杯では酔う気配は全く感じないな、ジトレフはそう学んだのだった。




