太宰が嫌いな文学少女(否好き、嘘ヤッパリ嫌い)
前回の投稿から随分と日が経ちました。
私はきれいなビーズやリボンを買っては眺めて終わり、読みかけの本があるのに違う本を読んで読破に時間がかかるタイプです。
でも、数ヶ月後、一年後くらいにちゃんとビーズ・リボンは活用されているし、遅々乍らにでも本を読破しています。
つまり、何が言いたいかと言うと、この『令和乙女抒情雑記』は廃墟ではなく、盆も正月も帰っていない実家のような場所なのです。
実家なのでずっとゴロゴロ居座る事もあれば、まるで居つかない事もあります。
この作品でなろうエッセイ上位を目指すぞ〜!とか、文学賞を獲るぞ〜!とは思っていないので、読者諸君も気紛れに読めばよろし、読まなくてもよいです。
──先述したように、私は読書を嗜む人間だ。文芸小説、ラノベ、エッセイ、詩集、評論……ジャンルは様々。
高校時代は司馬遼太郎、北方謙三、赤川次郎などの時代小説に夢中で、大学時代にはフィクションに留まらず学術書や論文を読み歴史研究なんかに明け暮れていた。ラノベも、細々と読んだ。
社会に出てから読書をする時間は格段に減ったが、それでも文字の海に潜る事をやめられないでいる。
そんな中で、太宰に出会ったのは高校の授業(中学だったかもしれない)『走れメロス』だ。この時は面白い面白くない、好きだ嫌いだ、という事は分からなかった。授業で勉強だから仕方なく読んだだけだ。
その後なんとなく手にした『女生徒』『人間失格』の単行本。そちらは如何にも身体中が痒くなるような、目を覆いたくなるような内容が綴られていた。
この感情は、創作をする人間になら分かってもらえると思う。登場人物、主人公に作者の投影がされている事に気がついてしまうのだ。これ、自分に酔って書いてるだろ。……なーんて思ってしまうともう読めない。太宰は肌に合わん。ポーイ!という具合である。
そんな訳で俺ツエーものも苦手です。
私は歴史は好きだが文学作品の研究はした事がない。趣味の範囲で読み、歴史館文学館に行き、人物業書や回顧録をボケーッとした顔で読む程度である。ただの近代文学が好きな素人だ。
だから、詳しい事は知らないが、文字書きの黒歴史を煮詰めたような人、というイメージがある。
しかし、私は太宰の言説にひどく納得してしまう事がある。
『本を読まないという事は、その人は孤独では無いという証拠である』
全く、その通りである。
パリピ、やりらふぃー、一軍、陽キャ。そう呼ばれる人達の中に、読書好きが居た試しがない。居るとは思えない。あれ、拙作にそういう登場人物が居ますね。居て欲しいという私の願望なのでしょうか。
兎に角、太宰のこの言葉には『お前達は本なんか読まなくても幸せで、きっと他に楽しい事が沢山あるんだね。馬鹿っていいねー』と妬み嫉みと自虐が込められているように感じます。確かに、常に周りに人が居たら本なんて読めませんよね……。羨ましいやら可哀想やら、という訳です。
不幸な人は宗教に縋ろうとするが、幸福な人は先人の教えを学ばない。という人間心理とも符合していませんか。面白い話です。
『下妻物語』で有名な嶽本野ばら先生も『健康な人は僕の本なんて読まない』と仰っていました。Twitterだったか、ブログでだったか、だと思います。
太宰の言葉の引用だったのかもしれませんね。
そういえば嶽本先生の作品も自己投影型の作品が幾つかあるようです。それなのに好ましく感じる事が出来たのは何故なんでしょう……?
似た二人、されどやはり違う二人。
人間の感情なんてアテになりません。
私の中で太宰は反面教師で尊敬すべき師、両方の存在であるようです。認めたくないけど、認められないけど、好きです。嫌いです。
矛盾してこその人間味。太宰は人間味に溢れた作家だと思います。きっと私も、なんてね。随分陳腐な結論ですね。
また気の向くままに、徒然に。