4.その婚約に異議あり
エヴァンはウィリアムまであと数歩という位置で立ち止まり、真横から声をかけた。
「――ファルマス伯爵。隣、失礼してもよろしいですか」
その口調はエヴァンにしては穏やかなものだった。
と言っても、いつもの社交モードに比べれば……と言うほどだが、彼はアナベルから言い付けられていたことを守り、自らの態度が失礼に当たらないよう気を遣っているようである。
その一方で、突然見知らぬエヴァンに声をかけられたウィリアムは多少なりとも驚いた様子を見せた。
彼はエヴァンを見上げほんの一瞬瞳を揺らし――けれどそこはさすがと言うべきか、すぐさまにこやかな笑みを浮かべる。
「ええ、勿論ですよ。どうぞ、そちらのお二人も」
ウィリアムはそう言って、エヴァンらに着席するように勧めた。
アナベルはそんなウィリアムの言葉に驚いた。なぜならその言葉には、ウィリアムの最大限の気遣いが現れていたからである。
アナベルは見逃さなかった。エヴァンに声をかけられ振り向いたその一瞬で、まだ離れた場所にいた自分と兄サミュエルに目を止めたウィリアムの視線を――。
つまりウィリアムは、アナベルとサミュエルがエヴァンの連れであると一瞬で判断し、二人が自分に気を遣う必要がないよう先手を打って席を勧めたのである。
もしもこれがアナベルらより身分の低い者の行動だったなら、彼女とて驚かなかっただろう。
だがウィリアムは侯爵家の人間だ。公爵家に次ぐ身分の者である。そんな彼が紹介もなしに突然話しかけて来るような無礼な相手にさえ最大限の配慮を欠かさない――それは一般的には考えられないことなのだ。
――どうやら噂は本当みたいね。
ウィリアムの行動を目の当りにしたアナベルは、彼の人柄についての事前情報を思い起こしていた。
ファルマス伯爵ウィリアム・セシル、二十二歳。髪色はブラウン、瞳はグリーン。顔立ちは凛々しいというよりは甘く、声は落ち着きのあるテノールだ。
人柄がいいと評判で、能力的にも非の打ち所がないという。清廉潔白を好み、侯爵家という高貴な生まれでありながら、老若男女、貴賎上下の区別なく全ての者に平等に接するよくできた人物だと称されている。
事実、彼はその評判の通り、街に飢えた子供たちがいると聞けば自ら足を運び食事を分け与え、自らの領地に建てた孤児院に迎え入れるという。少し前には学校まで建てたという話だ。
だがアナベルは、こうしてウィリアムに対面するまでその噂をどうにも信用できずにいた。あまりに出来すぎた噂だからだ。
けれども実際にウィリアムを目にして、アナベルの考えは変わった。
ウィリアムはエヴァンの突然の声掛けにも全く動揺する素振りを見せなかった。つまり少なくとも、彼は身分や体裁、己のプライドを気にするような人物ではないということだ。
「では、お言葉に甘えて失礼いたしますわ、ファルマス伯爵」
三人は、ウィリアムの言葉に甘えて勧められるまま椅子に腰かける。
位置はウィリアムの左側にエヴァンが、テーブルを挟んでウィリアムの正面にアナベルが、そしてその隣にサミュエルが座った。
全員が腰を下ろしたところで、ウィリアムが口を開く。
「ところで、本日はどういったお話でしょう。ただの世間話……というわけでもなさそうですし。失礼ですが、まずはお名前を伺っても?」
さすがはかの有名なウィリアムである。ある程度はお見通しと言うことだろう。
だがそれはこちらとて同じである。
エヴァンはウィリアムの問いに――アナベルとの打ち合わせ通り――ウィリアムを真っ直ぐに見据え慎重に口を開けた。
「まずは突然の非礼をお詫びする、ファルマス伯爵。私の名はエヴァン・サウスウェル――アメリアの実の兄に当たります。本日このようにお声がけしたのは、貴殿と我が愚妹アメリアとの婚約について、どうしても申し上げたいことがあったため」
エヴァンは告げる。自分はアメリアの兄である――と。
予期せぬ形で婚約者の兄と名乗る者が現れれば、冷静沈着で有名なウィリアムも流石に動揺し、素顔をさらすのではないか――そう考えたアナベルの作戦である。
そんなアナベルの予想どおり、ウィリアムは穏やかだったその表情を固まらせた。
それは今まで彼女が見てきたウィリアムの数少ない表情のうち、最も人間らしい表情だった。
だがそれは一瞬のこと。
ウィリアムはすぐにその感情を顔から消し去り、心底申し訳なさそうに微笑む。そしてその場に立ち上がると、エヴァンの前にゆっくりと右手を差し出したのだ。
「これはとんだご無礼を……。まさか彼女の兄君とは存じ上げず……」
ウィリアムは心の底からエヴァンに敬意を表していると言うような口ぶりで、礼儀正しく続ける。
「改めまして、グレイ子爵エヴァン・サウスウェル卿。ウィリアム・セシルと申します。私のことは気軽に、ウィリアム……とお呼びください」
それは完璧かつ好印象な対応だった。
ウィリアムは目の前の相手がアメリアの兄だと理解するなり、瞬時にへりくだったのである。
そんなウィリアムの対応に、アナベルはただ感嘆するほかない。
――何ていうか、本当に完璧ね。これじゃあどう考えたってエヴァンに勝ち目はないじゃない。
アナベルが隣に座る兄サミュエルを横目で見やれば、彼も同じように感じたらしくエヴァンを不憫そうに見つめていた。
一方当のエヴァンは、差し出された右手をにこりともせず握り返している。
「こちらこそよろしく――ファルマス伯爵」などと言いながら。
――エヴァンったら……それはないわよ。
アナベルはあからさまなエヴァンの態度に内心呆れ果てる。
ウィリアムと呼んでくれ――そう言われたにも関わらず、敢えて爵位名で呼ぶ。それが意味するものは即ち、相手への拒絶。
つまりエヴァンはウィリアムに対し、よろしくするつもりはない、と言ったのだ。
「…………」
このことに、勘のいいウィリアムが気付かない筈がない。
握手を終えたウィリアムは、どうにも気まずそうな笑顔のまま椅子に腰を下ろすしかなかった。
その後、アナベルとサミュエルの挨拶も終えたところでようやく本題に入る。
「それで、婚約についてのお話と言うのは……」
ウィリアムはエヴァンに尋ねる。
するとエヴァンは、今まで溜め込んでいた何かを急に溢れさせたかのように、途端に表情を険しくさせた。
「ファルマス伯爵。最初にお断りしておきますが、私は婉曲的表現を好まない。よって、この場でも単刀直入に言わせていただくつもりでいるが――かまわないか」
「ええ、勿論ですよ」
ウィリアムは微笑む。
エヴァンはそんなウィリアムの笑みを不愉快そうに受け流しながら、強い口調でこう告げた。
「では――申し上げる。貴殿とアメリアとの婚約だが……率直に言って私は反対だ。どう考えたってあの妹に侯爵家の夫人が務まるとは思えないし、双方にとって不幸な結果になることは目に見えている。そもそも、貴殿は一体どういう理由があって妹に縁談を申し込まれたのか。妹の悪評はご存じの筈。貴殿ほどの人間なら、もっと他に相応しい令嬢がいくらでもいらっしゃるだろう。にも関わらず、どうしてよりにもよってアメリアなのか」
「……は」
――瞬間、ウィリアムは眉根を寄せて放心した。
彼とて、先程のエヴァンの反応から自分が好ましく思われていないことは承知していた筈だった。けれどまさかこんな初っ端から――しかも既に成立した婚約に異議を唱えられようとは、どうして予想できようか。
そう感じたのはウィリアムだけではない。アナベルもサミュエルも、事前の打ち合わせと全く違うエヴァンの話の切り出しに、思わず顔を青ざめた。
だが当のエヴァンは、その場の凍り付いた空気を読むことなく続ける。
「アメリアからは、茶会にてこの縁談は断ったと聞いていた。それなのに貴殿はそれを無視し、挙げ句夜会などという公衆の面前で求婚なさったと……。これが事実なら、それは我が妹アメリアへの侮辱ではないのか」
エヴァンは強い口調で問いかける。いや、問いただすと言った方が正しいかもしれない。
「アメリアは婚約など望んでいなかった。まさかとは思うが貴殿はそれを知りながら、この婚約を強行されたわけではあるまいな」
エヴァンの全身から発せられるウィリアムへの敵意。隠す気さえないと言うように、エヴァンは鋭い眼光でウィリアムを見据える。
――エヴァン、それはさすがに言いすぎよ……! 相手は侯爵家の人間なのよ!?
アナベルは今すぐエヴァンを連れ出したい気持ちに襲われた。
けれど実際はそういう訳にもいかず、黙って様子を見守るしかない。
兄サミュエルも目に余るエヴァンの態度に開いた口が塞がらない――と茫然としていた。
エヴァンの瞳が細められる。
「さあ、お答え願おうか。ファルマス伯」
エヴァンは吐き捨てるように言うと、強い敵意を込めた瞳でウィリアムを睨み付けた。