5.天秤
「父上、参りました」
エヴァンが応接間の扉を開けると、父親であるサウスウェル伯爵リチャードと、妹アメリアの婚約者ウィリアムがローテーブルを挟んだソファに向かい合って座っていた。
アメリアが川に落ちて行方不明――そういう事情のためか。部屋の空気は当然のごとく重く、ピリついていた。
「遅いぞ。どこへ行っていた。ハロルドは?」
「ハロルドはじきに参ります」
使用人用の宿舎に行っていたなどと言えるわけがない。
エヴァンは父親の質問の前半には答えずに、ウィリアムへと視線を向ける。
「そんなことより、アメリアが行方不明というのは本当なのですか」
問いかけると同時に、ウィリアムと視線がぶつかった。
だがエヴァンの予想に反し、ウィリアムは少しも動揺した素振りを見せない。ウィリアムの表情には、罪の意識も責任も映っていないのだ。
――この男には良心というものがないのか?
仮にも自分の婚約者が行方不明だというのに、この落ち着き払った態度はいったい何だ。まともな神経をしていれば、嘘でも申し訳なさそうな態度を取るものだろう。
それに……だ。
――黒いモヤが、以前より濃くなっている。
ウィリアムの全身から漂う黒い霧のようなものが、夜会のときに比べ濃度を増しているのだ。
これほど濃い色はかつて一度も見たことがない。普通はここまで黒くなる前に命を落とすもの。
だがウィリアムは生きている。
――いったい何なんだ? この男……。
エヴァンはウィリアムを睨みつける。
すると父親リチャードが口を開いた。
「座りなさい。お前に確認せねばならないことがある」
その口調はまるでウィリアムを庇うかのようだった。と同時に、エヴァンを責めているような声だった。
エヴァンは訝しく思いながら、リチャードの隣に腰を下ろす。
「いったい何を確認なさりたいのかわかりませんが、私はまずこの者からの謝罪を求めます」
言いながら、エヴァンは再びウィリアムを睨みつけた。
たとえアメリアが川に落ちた直接的な原因がウィリアムではなかったとしても、アメリアを連れ出したウィリアムには少なからず責任がある。
けれど、そんなエヴァンの態度をリチャードは戒める。
「エヴァン、止めなさい。アメリアが川に落ちたのは事故だ。あの子はスペンサー侯爵家のご息女を庇ったのだ。ファルマス伯には何の責任もない」
「ですが……」
「私たちが今すべきことは彼を責めることではない。アメリアを一刻も早く見つけ出すことだ」
「……っ」
父親の低い声。――それ以上は口を慎めと、自分を見据える冷えた眼差し。
そんな父親の姿に、エヴァンは憤る。
実の娘が行方不明だと言うのに、流石にその態度はないのではないか、と。
「お言葉ですが、父上。そのような危険な場所に立ち入りを許したのはこの男でしょう。婚約者ならアメリアのそばについているべきだった。自分を犠牲にしようともアメリアを守るべきだった。たとえそれが婚約者でなかろうと、女性を守るのは紳士の務め……つまりこの男は当然の義務を怠ったのです! そんな最低限の責任も果たせない、謝罪の姿勢すら見せない……そんな者を庇うのですか、父上は!」
「――黙れエヴァン!!」
「……ッ」
リチャードの重い一声に、エヴァンは肩を震わせる。
これまで幾度となく父親に叱られてきたエヴァンだったが、ここまで怒りを露わにした姿を見るのは初めてだった。
それでも、目の前のウィリアムの態度は到底納得できるものではない。
「父上、私は何一つ間違ったことは申しておりません。たとえ事故であろうと、この者の平然とした態度に、私は怒りを感じずにはいられないのです」
「…………」
エヴァンはリチャードにそう告げて、再びウィリアムを見据える。
するとようやくウィリアムが口を開いた。
「確かにあなたの仰ることはもっともです。彼女が川に落ちたのは、彼女についていなかった私の責任。落ち度があったことは認めます。本当に申し訳なかったと思っております」
「…………」
「ですが、この件は謝罪して済むことではない。伯爵が仰ったように、今は彼女の捜索について建設的な意見を交わすべきではありませんか?」
「建設的だと?」
「ええ。私は既に彼女の居所についておおよその予測をつけております。おそらく彼女はアルデバランに。今私の従者に彼女の目撃情報を当たらせております。何日かかろうと必ず居場所を突き止めます。お約束します。――ですから、どうかあなたの話を聞かせていただきたい」
「……話?」
エヴァンは眉をひそめる。
いったい自分から何を聞くというのか、と。
そもそも、なぜこの場に自分のみならずハロルドまで呼び出されたのか――その理由がいまだにわからなかった。
「いったい私から何を聞くというんだ」
エヴァンが問うと、ゆっくりと唇を開くウィリアム。
「単刀直入に聞きます。あなたは今日、ハロルド卿に私たちの後をつけさせていましたか?」
「――っ」
「彼女が川に落ちた崖から訳五十メートル下ったところに、この家の家紋が彫られた剣と防具が落ちているのを私の従者が見つけたのです。彼女の捜索へ向かう途中だったために持ち帰ることはできませんでしたが、あれはハロルド卿のものですよね?」
「…………」
まるで詰問に近いウィリアムの口調に、エヴァンは沈黙する。
なるほど、自分とハロルドがここに呼ばれた理由はこれだったのか、と。
アメリアを救えなかったウィリアムの罪と、王太子を尾行したエヴァンの罪――その重さを天秤にかけられている。
「エヴァン、私はお前に何度も注意したはずだ。ハロルドを私的に利用するな、と。それなのにまさか殿下の後をつけ、私有地に無断で侵入させるなど……」
「お言葉ですが、父上。ハロルドがつけていたのは殿下ではなく、アメリアです」
「――つまり、つけていたことは認めるのだな?」
「ええ、認めます。ですが尾行自体は何の問題にもならないはずでしょう。殿下を襲ったわけではないのですから。それにあの森は私有地といえど人の往来を禁じていない。木を切り倒しでもしない限り罪には問われないでしょう」
「馬鹿なことを……! ハロルドは一般人ではないのだぞ! 武装した騎士が証文なしに他家の敷地に侵入することは騎士法で禁じられている! それなのに剣を置いてくるなどと……どんな言い訳も認められん!」
「…………」
エヴァンは再び沈黙する。全てがリチャードの言うとおりだったからだ。
けれどそんなとき、二人の間に割って入る冷静な声。
「旦那様、どうかエヴァン様をお責めにならないでください。全ての責任はこの私にあるのですから」
「――!」
三人がその声に振り向くと、入り口にハロルドが立っていた。
彼は扉を閉めると、リチャードの側に歩み寄り床に片膝をつく。
「大変ご迷惑をおかけし申し訳ございません。確かに私がお嬢様を尾行したのはエヴァン様の命でした。けれど剣を所持して向かったのも、許されないと知りながら私有地に足を踏み入れたのも私自身の判断。――お嬢様が川に落ちるのを目撃し、助けなければと咄嗟に剣を捨て置いたのも私です。そこにエヴァン様のご意思はありませんでした」
「…………」
「ですからどうかエヴァン様をお許しください。責任は全て私が取ります。騎士法に則り、私は騎士の称号を返還させていただきます」
そう申し出て、頭を垂れるハロルド。
その姿にエヴァンは言葉を失くし、リチャードはううむと低く唸った。
確かにハロルドの言う通りにすればエヴァンの責任は免れるだろう。けれど今それを決められるのはリチャードではない。
この場の主導権を握るのは、あくまでウィリアムである。
だがリチャードがそう思ったのも束の間、ウィリアムが強い口調で言い放った。
「その必要はありません」――と。
「ハロルド卿、私はあなたを責めるつもりで呼び出したわけではない。騎士を辞めさせるつもりも毛頭ありません。――サウスウェル伯、私は先ほどお伝えしましたよね。建設的な話がしたい、と」
「え……、ええ。確かに」
「私はハロルド卿のものであろう剣が捨て置かれていたことを聞いたとき、すぐに思い当たりました。きっとハロルド卿は彼女を助けるために川に飛び込んだのだろうと」
ウィリアムはハロルドを見つめ、言葉を続ける。
「つまり、あなたは彼女が川に落ちる瞬間を見ていた。そしてその後あの場から連れ去られた、彼女に何があったのか……その行方の手掛かりを握っている可能性がある。だからこうしてお呼び立てしたのです」
「…………」
ウィリアムの言葉に、三人は顔を見合わせる。
そういうことなら――とリチャードが口を開いた。
「ハロルド、立ちなさい。有り難いことにファルマス伯はお前を不問にしてくださるそうだ。その代わり、昼間にあったことを全て残らず説明して差し上げろ。エヴァン、お前もだ」
「かしこまりました、旦那様」
「……はい、父上」
リチャードの命令を受け、エヴァンはハロルドに視線を向ける。
全て残らず――となると、アルデバラン公爵家の騎士に襲われたことまで話さなければならなくるが、それをウィリアムに伝えてしまっていいものか。
エヴァンには政治的な判断がつかなかった。
どちらにせよ、その場にいたのはハロルドだけだ。自分が話せることは何もないと言って等しい。
――ここまで来たら、なるようにしかならないか。
結局エヴァンは、ウィリアムに強い警戒心を抱きながらも、〝全てはお前の判断に任せる〟と、ハロルドに合図を送ることしかできなかった。




