4.消えたアメリア
「……遅い」
すっかり日の暮れた頃、エヴァンは自室の窓から外を睨みつけていた。
とうに帰る予定時刻を過ぎたにもかかわらず、アメリアとハロルドが戻らないからである。
「いったいどうなっている」
アメリアはともかくとして、ハロルドには日の落ちる前に戻るように指示を出した。もともとアメリアは夕暮れまでには戻る予定になっていたから、それで充分なはずだった。
それなのに日が暮れて一時間が過ぎても戻らないとは、ただ事ではない。
――何か問題があったのか? だが、だとしても使いの一人くらい出すはずだ。今日は殿下もお見えになると言っていたし、万が一などあり得ない……。
エヴァンは苛立ちを募らせる。
すると、そのときだった。
部屋の扉がノックされ、「急ぎ申し伝えたいことが」と声がする。
ハロルドの声ではない――。そう思ったエヴァンが扉を開けると、そこにいたのは顔色を悪くした、玄関付きの従僕デリックだった。
「……デリック?」
エヴァンは眉をひそめる。
普段デリックがエヴァンの部屋を訪ねることはない。
主人に何か用事を伝えるのはデリックのような下級使用人ではなく、上級使用人である執事や従者の役目だからだ。
それなのにデリックが来たということは、彼が来なければならない理由があったということ。
「いったいどうした。何かあったのか?」
エヴァンが尋ねると、デリックは言いにくそうに口を開く。
「その……ハロルド卿がお呼びです」
「あいつ、戻っていたのか? なぜ俺を呼び出す。あいつが来ればいいだろう」
「それが……卿は先ほど戻られたばかりなのですが、全身水に濡れておられて……部屋を汚すわけにはいかないから、来られないと」
「全身水に? どういうことだ」
「理由まではわかりかねますが……その……」
「なんだ。まだ何かあるのか」
「どうも、お怪我をされているご様子で。手当てを申し出ましたが、断られてしまって……」
「――っ」
デリックの言葉に、エヴァンの顔が蒼くなる。
「――どこだ」
「……は」
「あいつはどこにいる。すぐに案内しろ」
「は、――はい!」
こうして、エヴァンは急ぎハロルドの元へ向かった。
*
デリック曰く、ハロルドは使用人用の宿舎の二階、デリックの部屋にいるということだった。
ハロルドはこの屋敷に自室を持っていないため、部屋を貸してくれと頼まれた、と。
「――ハロルド!」
エヴァンが扉を開けると、ハロルドは上半身裸の状態でベッドに腰かけ自身の左腕を消毒していた。
そこには剣で切り付けられたかのような大きな傷があった。
他にも頭部に血を拭き取った跡があり、濡れた下の衣服はところどころ擦り切れている。
これはただ事ではない。――エヴァンはそう感じた。
「エヴァン様……このようなお姿を晒し、申し訳ありません」
「――っ」
部屋の入り口で立ち尽くすエヴァンを、ハロルドはベッドに腰かけたまま見上げる。
それはひどく思いつめた顔だった。
このようなハロルドの顔を、エヴァンは今だかつて見たことがなかった。
「お前……いったい……、いったい……何、が……」
エヴァンの顔から血の気が引く。
怪我をしたハロルドの姿に――彼のその表情に、嫌な予感で一杯になる。
アメリアを尾行していたハロルドが怪我をするとしたら、アメリアを守ろうとした以外に思いつかなかったからだ。
「デリック……お前は外に出ていろ。この部屋には……誰も近づけるな」
「は――はいッ!」
エヴァンの低い声に、デリックは肩をびくりと震わせて部屋を出ていく。
扉が閉じるのと同時に、エヴァンは問いかけた。
「話せ……いったい何があった? その傷は誰にやられた? アメリアは……無事なんだろうな」
無事だと言ってほしかった。けれど、きっとそうではないのだとエヴァンは心のどこかで感じていた。
そうでなければハロルドはこんな顔をしない。――それでも……。
「この傷は川に落ちたお嬢様を引き上げた際、何者かに襲われできたもの。私はそこで気を失い、目が覚めたときにはお嬢様は連れ去られた後でした。本当に……お詫びのしようもございません」
「……ッ!」
瞬間、エヴァンは目の前が真っ暗になった。
気付いたときには床に両膝をついていた。
そんな自分の身体を、ハロルドが支えてくれていた。
「……どうしてだ」
エヴァンにはハロルドの言葉が理解できなかった。
なぜアメリアが川に落ちたのか、いったい誰がハロルドを襲いアメリアを連れ去ったのか、アメリアは生きているのか……言い表せない憤りで心が壊れてしまいそうだった。
けれど、どうあがいても起きてしまった事実は変わらない。ハロルドを責めたところで何かが変わるわけではない。
今できることは、連れ去られたアメリアの無事を信じ、探し出すことだけ――。
「……手掛かりは」
「……は」
「お前を襲いアメリアを攫った者に心当たりはないのか。お前は姿を見たはずだ」
エヴァンは顔を上げ問いただす。
すると、ハロルドは一瞬動揺を見せた。――エヴァンの顔が怒りに染まる。
「あるんだな? ウィンチェスターの家の者か? それとももっと別の誰かか?」
「…………」
「言え! お前はこの状況がわからないのか!? アメリアが殺されるかもしれないんだぞ!」
「……っ」
エヴァンにはわからなかった。
どうしてハロルドが犯人を庇うような態度を取るのか、少しも理解できなかった。
けれど、とうとう観念したように呟いたハロルドの答えに、彼は戦慄することになる。
「その者の顔はフードに隠れて見えませんでした。けれど剣の柄に彫られていた家紋は、アルデバラン公爵家のもので間違いありません」
「――なッ」
「おそらくお嬢様が連れ去られた先は、アルデバランだと思われます」
「馬鹿な……!」
この国で長剣を所持できるのは騎士だけだ。
騎士は国あるいは貴族に仕えており、例外なく主人から剣を賜る。剣の柄には国旗あるいは貴族の家紋とシリアルナンバーが彫られており、同じ剣は二つとして存在しない。であるから、剣の柄を見ればその剣の持ち主が誰であるか、仕える家はどこであるかわかるのである。
加えて、剣は騎士の命と同等の重さがあり、万一にも失くすようなことがあってはならない。もし第三者に悪用されようものなら、騎士本人のみならず主人も罰せられることになるからだ。
つまり、相手の剣の柄の家紋がアルデバラン公爵家のものだったというのなら、それはその者がアルデバラン公爵家に仕える騎士であるこということ。
「あり得ない! 我が家と公爵家には何の因縁もないんだぞ! それにアルデバラン公爵は治世者として有名だ! 騎士団の統率もよく取れている……お前は以前そう言っていたではないか!」
「はい……確かにそう申し上げました」
「それなのになぜこのようなことを……! そもそもどうしてアメリアが川に落ちるんだ!? ファルマス伯は……他の者は側にいなかったのか!? 全て残らず説明しろ!」
エヴァンは声を荒げる。
その瞳からは既に恐れは消えていた。エヴァンの瞳に映るのは、ひたすらに強い怒りのみ――。
ハロルドはそんな主人の怒りを正面から受け止め、口を開く。
「お嬢様が川に落ちたのは事故でした。スペンサー侯爵家のカーラ様と二人きりでお話されていたところ、カーラ様が崖から落ちそうになったのを庇い、川に落ちてしまったのです。私はすぐに川に飛び込み、お嬢様を抱えて川岸に上がりました。ですが……」
「お前がアメリアを引き上げたとき、襲われたと? それではまるで待ち伏せではないか!」
「ええ、そうなのです。あの者はまるで私があの川岸に上がることを知っていた様子でした。私は川に飛び込む際、剣を捨ててしまったので……咄嗟に短刀で応戦はしたのですが……」
「――剣? お前、剣を捨てたのか!? 回収は!?」
「日が暮れかけていたため回収は諦め戻って参りました。明日朝日が昇ったら回収に。……大丈夫。夜の森に入る者などおりませんから、第三者の手に渡ることはないでしょう」
「…………」
エヴァンは顔を歪める。
いくら川に飛び込むためとはいえ、騎士が剣を捨てるのはとても難しいことだ。
けれどハロルドは咄嗟の判断でアメリアを選んだ。自分よりも家門の責任よりも、何よりも第一にアメリアの命を優先した。
そのことが、エヴァンの怒りを鎮めていく。
アメリアを大切に思っているのは自分だけではない。
ハロルドも自分と同じかそれ以上に、アメリアを大切に思ってくれている。そう思うと、少しだけ冷静になれる自分がいた。
エヴァンは肺から息を吐きだすと、ゆっくりと立ち上がる。
「とにかく、まずは父上にお伝えしなければ。アメリアのことと、お前の剣のことを。――お前、動けるか?」
「はい、問題ありません。着替えだけさせていただければ」
「ああ、そうだな。デリックに取ってこさせよう」
――エヴァンはデリックを呼ぼうと扉を開ける。
するとそこには、先ほど以上に顔面を蒼白にしたデリックが立っていた。
「――デリック。お前、まさか話を聞いていたのか?」
「い……いえ、聞いておりません! そうではなく……先ほどファルマス伯がお見えになられて……」
「――!」
「お嬢様が川に転落し行方不明だと……。それで旦那様が、エヴァン様とハロルド卿を呼ぶよう執事に仰ったらしく……ですがエヴァン様が部屋におられないため、本館は騒ぎになっております。私は、それをお伝えに……」
「……ファルマス伯はまだおられるのか?」
「はい。応接間にいらっしゃいます。旦那様もそちらに……」
「わかった、すぐに向かう。お前はハロルドの着替えを用意しろ。――ハロルド、俺は先に行く」
「承知しました」
こうして、エヴァンはデリックの部屋を出て応接間に向かった。
この呼び出しに対し、言いようのないざわつきを心に宿して――。




