2.湖のほとりで
「――はぁ。まったく、あの方ときたら……」
エヴァンからアメリアの尾行命令を受けたハロルドは、アメリアの乗る馬車を一キロ後方から馬で追っていた。
尾行対象の馬車は二台ある。事前の連絡では一台のはずだったのだが、急遽ウィリアムのいとこであるスペンサー侯爵家の兄弟二人が同行することになったためだ。
一台にはアメリアとウィリアム、それからもともと参加予定だったスペンサー侯爵家の末っ子のカーラが乗り、もう一台には王太子アーサーとスペンサー侯爵家の次男、三男であるエドワードとブライアンが乗っている。あとはそれぞれの馬車に御者がいるだけだ。
馬車が向かう先はスペンサー侯爵家の所有する湖で、王都から片道一時間ほどの場所だ。道中障害物のない街道を通るため、ハロルドは怪しまれぬようにと距離を取って馬車を見守った。――が、彼はその最中、終始怪訝な顔を浮かべていた。
「……なぜ護衛が一人もいない?」
ハロルドは二台の馬車を遠目に見つめ、眉間の皺を深くする。
なぜなら王太子が外出するにも関わらず、護衛の気配がまったく感じられないからだ。初めは離れた場所に配置されているのかと思ったが、どうもそうではないようで。周辺一帯に、護衛らしき騎士の姿がまったくないのである。
「無防備すぎる……」
――目的地が王都内ならいざ知らず、王都から一時間もかかる距離だというのに、これはいったいどういうことだ。いくら平和な国と言えど、王子の乗る馬車に警備がゼロというのはいかがなものか。
もしや、御者と見せかけて実は余程腕のたつ騎士なのか……?
ハロルドはそんなことを考えながら、馬車との距離を一定に保ちつつ、無事に湖までたどり着いた。
*
そこは真っ青な野原と豊かな森が広がる湖のほとりであった。
水面は澄んだ空のように美しく、気持ちの良い風が木々の香りと小鳥のさえずりを運んでくる。
ハロルドは二台の馬車が停まるのを確認すると、馬車からも街道からも死角になる大木の幹に馬の手綱を結び付けた。
アメリアたちより一足先に森へと入り身を隠す。馬車から降りてくる彼女らを、瞬き一つせず見守った。
最初は王太子に護衛がいることを疑わなかったハロルドも、護衛がゼロと分かった今、気を抜くわけにはいかない。アメリアらに尾行を気付かれてはならないが、けれど騎士の本分として彼らを守らなければと、不本意ながらも覚悟を決めていた。
アメリアらは自己紹介らしきものを済ませ森に入ると、どういうわけか二手に分かれてしまった。
湖の入り江へと続く道の先頭をウィリアムとカーラが進み、少し遅れて森に入ったアメリアが別の小道に入る。その後ろを時間差で王太子アーサーが追いかけ、残ったエドワードとブライアンはウィリアムと妹の後を追う。
その一部始終を見ていたハロルドは、彼らの行動を不信に思った。
「なぜお嬢様はファルマス伯と行動を共にしない? それにお嬢様を追ったのが、まさか殿下とは……」
王太子アーサーは無類の女好きで有名なのだ。眉目秀麗で頭も切れると評判だが、その一方で夜の悪い噂が絶えない。手癖が悪く、泣かされた女性は数え切れぬほどと言われている。
「……お嬢様」
ハロルドは嫌な予感を覚えつつ、決して二人を見失わぬようにと急ぎ後を追いかけた。
*
二人にはすぐに追いついた。
ハロルドは自分の存在に気付かれぬようにと細心の注意を払いながら、それでもなるべく距離を詰めて茂みの中へと身を潜める。
一見すると、二人の間の空気は和やかだった。詳細までは聞き取れないが、時折ウィリアムの名が聞こえてくる。どうやら学生時代の話で盛り上がっているようだ。
そう言えばアーサーとウィリアムは同学年の同じ寮、しかも監督生だったと噂で耳にした。
――なるほど。潔癖ぎみのウィリアムとアーサーにどんな接点があるのかと思っていたが、学生時代同じ釜の飯を食べていたというなら納得のしようもある。とは言え……。
「それでウィリアムの奴、ボールを追いかけてそのまま川に落っこちて」
「まあ……! あの方にもそんな一面があるのね」
それは事情を知らない者が聞けば微笑ましく感じる会話だろうが、ハロルドからすればおかしい以外の何物でもない。
アーサーの方はともかくとして、アメリアがあのように微笑む姿などここ数年見たことがないのだから。
――お嬢様が猫を被っていらっしゃる……。
流石のアメリアも王太子相手に不愛想な態度は取れないと考えたのか。あるいは、アーサーがウィリアムの友人であるから気を遣っているのか。
どちらにせよ、このまま何事も起こらず過ぎてくれればいいのだが――。
ハロルドはそんなことを考えながら、二人の様子を注意深く見守った。――が、そんなとき。
突然背後から突き刺さる何者かの視線。そしてその者から発せられたであろう鋭い殺気に、彼は打たれたように背後を振り返った。
「――っ」
けれどそこには誰もいない。右から左へ180度ゆっくりと視線を動かしても、何の気配も感じない。耳を澄ませてみても、聞こえるのは風に揺れる木々のざわめきと鳥たちのさえずりのみ。
――気のせいか? ……いや、確かに今のは殺気だった。
そう考えて、彼はハッとする。
まさか今の殺気は自分の気を王太子から反らせるためのものだったのではないか? だとしたら、二人が危ない。――そう思い、アメリアとアーサーの方に急ぎ視線を戻した。
するとそこにあったのは、王太子アーサーに抱きしめられているアメリアの姿。
「――なッ」
それはハロルドの予想したものとは違う光景だった。
けれど、彼が止めに入る理由としては十分すぎた。
――やはり殿下の噂は本当だったか……!
嫌がる素振りを見せるアメリアを目の当たりにし、ハロルドは茂みから飛び出そうとする。
けれどそれより速く、背後から首筋に据えられるヒヤリとした鋭い切っ先。――それがナイフだと気付くのに、コンマ一秒もかからなかった。
「動いてはなりません」
「……ッ」
あまりにも突然のことに、ハロルドは硬直した。
だがすぐにその声の主が誰であるかに気付き、冷静さを取り戻す。
――この声、ファルマス伯の御者……いや、付き人だったか? 黒目黒髪の……確か名をルイスといったはず……。
「貴様、ファルマス伯の使用人だな。これはいったい何の真似だ」
低い声で威嚇するハロルド。
彼は、よもや自分がこうも簡単に背後を取られるとは、この男ただの使用人ではない――そう猜疑心を募らせる。
するとその男――ルイスは、平然とした様子で答えた。
「せっかくのお楽しみを止めては、無粋というものでしょう?」
「な……ッ」
その物言いに、ハロルドは憤る。
まさかこの男は自身の主人の婚約者を辱めようというのか? そんなことがあり得るのか? それともこれはウィリアムの指示なのか? ――そんな嫌な考えが脳裏をよぎった。怒りで頭に血が上り、思わず剣を抜いてしまいそうになる。
だが、首筋に添えられたナイフの先が、ハロルドの衝動を押し留めた。
ハロルドは吐き捨てる。
「ファルマス伯の指示か。恥を知れ」
それは時間稼ぎのつもりの言葉だった。よもや反応など期待していなかった。
だが、予想に反しルイスは答える。
「我が主人を侮辱しないでいただきたい。私はただ、何もせず黙って見ていろ――と申しているだけ。殿下があのような行動に出るのは殿下自身のご意思でしょう。私や主人とは何の関係もありません」
「ふざけたことを……。私には騎士としてお嬢様を守らねばならない道理がある。それがたとえ王太子相手であってもだ」
「もちろんそれは承知の上。ですからこうして強引にお止めしているのです」
「……っ」
「ハロルド卿――これは忠告です。あなたはこの件に足を踏み入れるべきではない。十五年前の二の舞になりたくなければ」
「――何だと?」
十五年前……突然告げられたその言葉に、ハロルドはただ困惑した。
当時の記憶を思い出すと同時に、全身から血の気が引いていく。
――ああ。いったいこの男は……ルイスは何を知っているというのか。あの事件を知っているとでもいうのだろうか。
だがそうは思っても、ここで頷くわけにはいかない。
「貴様が何と言おうと、私はお嬢様をお守りする。それが私に与えられた命だからな」
ルイスが何を知っていようが今は目の前のアメリアを助けるのが先決だ。エヴァンがここにいればそう命じるだろうし、自分の意思もそうしろと言っている。
「だからこのナイフを退けろ。でなければ貴様ごと叩き切る」
ハロルドは右手を腰の剣に掛け殺気立つ。
だが、それでもルイスはナイフを納めなかった。それどころか彼は感嘆の声を漏らすのだ。
「なるほど、あなたの主人への忠誠心はあの頃とまったく変わっていないようだ。私は確かに十五年前、あなたに免じてエヴァン・サウスウェル卿をお助けしました。ですが今回はこちらも譲れぬのです」
「――は」
「あなたは覚えておいでになりませんか? 私たちは十五年前に一度会っている。日の光の届かぬ暗い牢獄で――。私はあのときの子供です」
「なんだと……? だが、貴様のような黒い瞳と髪の者は一人も……」
「色を変えていましたから記憶に残らなかったのでしょう。ですが、私はあなたのことをよく覚えております。瀕死のエヴァン・サウスウェル卿を抱え、泣きながら命乞いをしていたあなたの姿を」
「……ッ」
遂に絶句してしまったハロルドの耳元に、背後から唇を寄せるルイス。
「私の言うことを聞いた方が身のためですよ。――エヴァン・サウスウェル卿の秘密を守りたければ……」
「……っ」
ハロルドは顔色を悪くしたまま立ち尽くす。
いつの間にか首筋からナイフの感触が消えていた。けれど、彼はそこから動くことができなかった。
茫然とするハロルドに、再び囁きかけるルイスの冷静な声音。
「――おや、ご覧ください。終わったようですよ。思ったより早かったですね」
その言葉に視線を上げると、アーサーの腕から逃げ出したアメリアが走り去っていくところだった。
「……お嬢様」
「さて、ハロルド卿。あなたはどうします? 私としてはこのまま逃げ帰ってほしいところですが……決めるのはあなたです。今あなたがアメリア様を追えば、エヴァン・サウスウェル卿の未来は保証できません。彼は私やウィリアム様……そしてそれに関わる者たちの歪んだ運命の一部として、その身を捧げることになでしょう」
「だが……それではお嬢様は……」
「諦めていただくほかありません」
「……ッ!」
あまりにも非道なルイスの言葉に、ハロルドは奥歯を噛みしめる。
もしルイスの言葉の通り避けられない運命があるとするなら……エヴァンか、アメリアか、どちらかしか選べないとしたら……。
「……私は――」




