19.素直な気持ち(後編)
――アナベルはエヴァンを問い詰める。
すると、エヴァンは困惑気に眉をひそめた。
「どうしてそんな話になる。アメリアは妹だ。家族としての情はあるが、それ以上でも以下でもない」
「そんなはず……だって、ならどうしてあなたはファルマス伯との婚約を反対するの? 確かに二人の間で結ばれた契約内容は酷いものかもしれないわ。でもわたしには、あなたがアメリア様をこの先も自分の側に置いておきたいから反対しているようにしか見えないのよ。周りもそう思っているはずだわ」
「――っ、それは断じて違う! 俺はただ、あいつに不幸になってもらいたくないだけで……」
「愛のない結婚だから? でも、わたしたちは貴族なのよ。顔も知らない相手と婚約することだって珍しくない。歳が二回りも離れていることだって、政敵が相手のことだってある。それに、あなたは二人がおかしな契約を結ぶ前から反対していたじゃない」
「……それは」
アナベルの鋭い質問に言葉を濁すエヴァン。
しどろもどろなその態度に、アナベルは不信感を募らせる。――けれど。
「本当に違うんだ。確かに俺は周りに誤解を与えるような言動をしていたかもしれない。今回のことを抜きにしたって、アメリアに対し過保護だったことは認める。だが俺は本当に、アメリアを女として見たことは一度もないんだ。……信じてくれ」
「……っ」
――あまりに真剣な顔で見つめられ、それ以上何も言えなくなる。
彼は嘘はついていない……本当にアメリア様のことは何とも思っていないのだ、そう信じてしまいたくなる。
「……ずるい」
「……?」
「そんな風に言われたら、もう何も言えないじゃない」
「……アナ」
安堵と不安に泣きそうになる。エヴァンのことを信じたい気持ちはあるのに、どうしても信じきることができない自分に嫌気が差す。
エヴァンはアメリアとの関係を否定しているのに、それでも沸き上がるモヤモヤした感情に、どうしようもない居心地の悪さを感じた。
アナベルはエヴァンから顔を反らし、澄んだ水面へと視線を落とす。
「……エヴァン。わたし、本当はね、相手がアメリア様なら仕方ないって心のどこかで思っていたの。彼女はあなたの妹だから、負けても仕方ないって……」
「…………」
「でも、彼女がわたしの恋敵じゃないのなら、わたしはわたし自身に負けたってことになるのかしら……」
「……? それはいったい、どういう――」
エヴァンはアメリアを愛していない。それはきっと事実なのだろう。
だがアメリアを愛していないからといって、自分を愛しているということにはならない。
そのことをアナベルは理解していた。と同時に、エヴァンがそんな複雑な乙女心を理解できないこともわかっていた。
つまり、現時点でこれ以上の議論は時間の無駄だ。それに今日の目的は既に果たした。今はこれで十分だと思うことにしよう。――彼女はゆっくりと顔を上げる。
「ごめんなさい、何でもないの。あなたの今までの身勝手な行動を思い出して、呆れていただけよ」
アナベルが憎まれ口を叩きつつも微笑めば、ほっと安堵の息を漏らすエヴァン。
「それは本当に悪いと思ってる。これからは何か気に障ることがあれば遠慮なく言ってほしい。君の望む男になるとは言えないが……努力するつもりでいるから」
「まあ! エヴァンの口からそんな言葉が出るなんて、空から槍が降ってきそうね」
「それほどのことか?」
「それほどのことよ。でも別に無理しなくていいのよ。わたしはあなたと昔みたいにこうやっておしゃべりしたり出かけたりできれば、それだけで嬉しいんだから」
そんなアナベルの素直な言葉に、エヴァンの顔が心なしか赤く染まる。
「そうか……。ならばこれからは社交以外でももっと時間を取るとしよう」
「本当? ならわたし、次は馬に乗りたいわ。森を抜け野原を駆け抜けて……きっと気持ちがいいと思うの」
「馬か。悪くない提案だ」
「でしょう?」
――それからは終始和やかな雰囲気だった。
温室を回ったり、街で買い物やお茶をしたり――太陽が沈みだすまで、アナベルは時間を忘れて二人きりの外出を楽しんだ。
*
もうすっかり日が暮れたころ、ようやく屋敷に戻ったアナベルは着替えもせぬまま自室のベッドに飛び込んだ。
「今日……楽しかった」
一日のことを思いだし、独り頬を緩ませる。
ボートのオールを落とすハプニングはあったものの、とても素敵な一日だった。完璧な時間だった。
エヴァンはアナベルを紳士らしくエスコートしてくれたし、食事の店もアナベルの好みを把握した上で選んでくれた。
まさか自分の好き嫌いを把握してくれているとは思っていなかった彼女にとって、それはとても嬉しいことだった。
――それに……。
「……本当に、わたしの勘違いだったのね」
エヴァンはアメリアを女性として愛しているわけではない。あくまで妹として大切に思っているだけ。
そのことが今日はっきりした。ウィリアムとの婚約を反対する決定的な理由はわからないままだったが、一番の懸念が払拭されただけで十分だ。
「次は遠乗りね。……楽しみ」
アナベルはベッドに寝転んだまま、窓の向こうの夜空を見上げる。
そこには先ほどエヴァンにエスコートされ馬車から降りたときに見えた丸い月が、美しく佇んでいた。
その煌めく金色は、エヴァンの髪と同じ色。
「……綺麗」――そう呟いて、彼女はそっと目を閉じる。
エヴァンはアメリアとウィリアムの婚約を認めていない。その事実は変わらないし、決定的な理由もわからないまま。
けれど今だけはそんなこと全て忘れてしまって、エヴァンと過ごした一日の余韻に浸っていよう。そう思った。
――が、そんなときだ。
突然部屋の扉がノックされ、「入るぞ」というどこか不機嫌な声と同時に開くドア。
そこに立っていたのは兄のサミュエルだった。
「お兄様、急に開けないで……!」
せっかくの余韻が台無しだ。そう思いつつ、アナベルは急いで身体を起こす――が、時すでに遅し。
ドレス姿のままベッドに寝転がっている瞬間を見たサミュエルは、あからさまに顔をしかめた。
「やっぱりな。クレアが食堂の手伝いしてるなんておかしいと思ったんだよ。着替えくらい済ませたらどうだ。もう夕食の時間だぞ」
言いながら、サミュエルはアナベルのすぐ側まで歩み寄ってくる。
「そもそも帰りが遅すぎる。淑女がこんなに遅くまで出歩くものじゃない」
――それはまるで小言だった。
心配してくれているのは理解できるし、基本的には優しく物分かりのいい兄なのだが、彼はどういうわけか女性らしさに固執するところがある。
アナベルは兄のそういうところが苦手だった。
――わたし、もう成人してるのよ?
アナベルは内心ため息をつく。いつもなら「お兄様の言うとおりだわ。これからは気をつけるわね」とでも答えるところなのだが……。
「おい、聞いてるのか? まったく、エヴァンの奴もこんな時間まで連れまわすとは……次会ったら抗議してやる」
――エヴァンの名前を出されては、反論しないわけにはいかない。
「やめて」
アナベルはベッドから立ち上がり、兄を睨むように見据えた。
「まだ八時前よ、遅くないわ。夕食にだって間に合ってるんだからいいじゃない」
すると、驚いたように見開くサミュエルの瞳。まさか言い返されるとは思っていなかったのだろう、彼はまるで鳩が豆鉄砲を食ったかのように数秒固まったのち、心配そうな顔で尋ねる。
「……なんだ、どうした、アナ。何かあったのか? まさか、エヴァンがまた何か……」
「どうしてそうなるのよ! 逆よ、逆! エヴァンとのデートすごく楽しかったのよ! わたしは余韻に浸っていたの! なのにお兄様ったら、急に部屋に入ってきてグチグチ言うんだもの! 台無しだわ!」
「なっ……」
「わたしたち、今日やっと恋人らしくなれたのよ。社交場でのエヴァンはいつも不愛想だけど、今日の彼は優しかった。ボートだって漕がせてくれたんだから……!」
「――!? ボート!? ボートを漕いだのか!? お前が!?」
「そうよ。お兄様には言わないつもりだったけど、もういいわ。わたし、今日勇気を出してエヴァンと話し合ってみてわかったの。気持ちは言葉にしないと伝わらないって」
「…………」
アナベルの強い口調に、サミュエルの顔からスッと血の気が引く。いったい何を言われるんだ……? そんな心の声が聞こえるようだ。
「お兄様、わたし、今までずっとお兄様の言葉を受け入れてきたけど……もうやめる。お兄様のことはずっと変わらず尊敬しているけれど、一番愛しているのはエヴァンなの。彼とは飾らないわたしの方が上手くいきそうな気がするから……。だから……ごめんなさい。わたし、もういい妹ではいられないかもしれないわ」
「…………」
あまりにも突然の告白に、その場に立ち尽くすサミュエル。彼はどう言葉を返せばいいのかわからずに、妹の名を呟くだけ――。
「それに、エヴァンは言ってくれたわ。アメリア様とは何もないって、妹としか思っていないって、はっきりそう言ってくれた。だからファルマス伯との婚約を反対するのにはきっと別の理由があるはずなの。――お兄様は手を引くと言ったけれど、わたしだけはエヴァンの味方でいたい。だから、もうお兄様の言うことは聞けないわ。わたしはわたしのやりたいようにやる。エヴァンとの関係も、自分で築いていくつもり」
「…………」
「……言いたいことはそれだけだから、そろそろ出ていってもらえる? 夕食の前に着替えなくちゃ」
「――あ……ああ」
「それからボートのこと。エヴァンを責めたりしないでね。わたしが我が儘言ったのよ。エヴァンはそれを聞いてくれただけ。嘘じゃないわ」
アナベルが微笑むと、サミュエルはやはり驚いた様に瞼を震わせた。そして二、三度ゆっくりと瞬きをし、ようやく頷く。
「……お前がそう言うなら」
「ありがとう、お兄様」
「いや、俺の方こそ……。あまりに急で驚いたが……そうか。俺も、ちょっと過保護になりすぎていたのかもしれない。エヴァンのことを言えた義理じゃなかったな」
「そんなことないわ。お兄様のことを尊敬してるのは本当だもの」
アナベルはそう言って笑みを深くする。するとようやくサミュエルは胸を撫でおろし、静かに部屋を出て行った。
その背中を見送って、アナベルは再び窓から夜空を見上げる。
そしてそこに輝く美しい月の色にエヴァンを重ね、この先の未来に思いを馳せた。




