18.素直な気持ち(前編)
午前十一時半を回ったころ、係員から新しいオールを借りた二人は仕切り直して現在ボートの上にいた。
漕いでいるのはエヴァンである。
漕ぎだす前にエヴァンはアナベルにオールを渡そうとしたのだが、アナベルはそれを断ったためだった。おそらく、オールを落としてしまったエヴァンに気を遣ったのだろう。
ボートの上でしばらく当たり障りのない会話が続く。基本的にアナベルが話題を振り、エヴァンがそれに答える形だ。
けれど湖のちょうど真ん中あたり、他のボートと十分に距離を取った辺りで、エヴァンがボートを止める。そして真剣な顔でこう言った。
「やっぱり、漕いでみたらどうだ」
「――!」
その申し出に、アナベルはとても驚いた。
エヴァンが自分に気を遣っている……そんなこと、ここ十年以上一度だってなかったことである。
アナベルは、本心ではボートを漕いでみたいと思っていた。
けれどエヴァンは新しいオールを借りる際、係員から嫌味を言われていたのだ。
謝罪は当然のこと、落としたオール代も弁償したにも関わらず、「これだから貴族様は。ボートにもまともに乗れやしない」と無礼な態度を取られた。
だがそれでもエヴァンは、気分を害する様子も見せず素直に謝ったのである。
アナベルはそんなエヴァンを誇らしく思った。けれど同時に、とても申し訳ないことをしてしまったと罪悪感を覚えた。
自分がバランスを崩さなければ、エヴァンがオールを落とすことはなかったはずなのだから。
だから彼女は最初、エヴァンの「漕ぐか?」という言葉を断った。自分が何かへまをしたら、またエヴァンが謝らなればならなくなる。それを避けたかったからだ。
けれど、エヴァンはもう一度聞いてくれた。
「ボートを漕ぎたい」などというほんの些細な願いを、エヴァンは叶えてくれようとしている。それは今までのエヴァンからは決して考えられないことだ。
「……え、いいの?」
「もちろんだ。――考えてみたんだが、確かにサムは女性をやや侮っている節がある。だが何事も決めつけはよくない。最初は上手くいかなくとも、ボートくらいなら女性にも漕げるだろう」
「でも、もしオールを壊したりしたら……。わたし、実はお兄様がオールを折るのをこの目で何度も見てるのよ」
「それはオールが痛んでいたか、よほど無理な漕ぎ方をしたんだろう。だがこれは大丈夫だ。それに、そもそも君の力で折れるようならここに来るまでにとっくに折れてる。だから心配するな。やってみろ」
「……エヴァン」
ここまで言われたらやらない理由はない。――アナベルは覚悟を決める。
「わかった。わたし、漕ぐわ!」
「ああ。それでこそ君だ」
こうしてアナベルは、初めてのボート漕ぎに挑戦することになった。
*
ボートを漕ぐのは難しかった。最初はなかなか前に進まず、ようやく動いたと思ったら旋回を繰り返す。
だがエヴァンのスパルタかつ丁寧な教えのかいあって、三十分ほどでまっすぐ進むほどに上達した。
「凄いぞ、君は筋がいい。俺は前に進むまで半日かかったぞ」
「ありがとう。でもエヴァンの半日って子供のころの話でしょう?」
「十一のときだ。だが短時間でこれだけ漕げたら上出来だ。今度サムを乗せてやろう、きっと驚くぞ!」
「お兄様を? それはちょっと……」
「叱られるからか? 俺が無理やり漕がせたことにすればいい。君だって、あいつの驚いた顔を見たいだろう?」
「それは確かに、少し見てみたい気もするわ」
二人はそう言って笑い合う。
そうしてしばらくの間、漕ぐのを交代しながらボート乗りを楽しんだ。
だがそろそろ岸に戻ると言うときになって、アナベルがふと「そう言えば」と呟く。
「ねえエヴァン、覚えてる? わたし、幼いころにもさっきみたいにエヴァンに助けてもらったことがあるみたいなの」
するとエヴァンは心当たりがないと言った顔をした。
「君が水に落ちそうになった……ということか?」
「水じゃなくて、テラスから落ちたのよ。ほら、お兄様と三人で入った幽霊屋敷で。確か、あなたとはぐれてお兄様と一緒にあなたを探していたら……理由は忘れちゃったけど、わたし、一人でテラスに出てしまって……そしたら、手すりが傷んでいて……」
――そう、それは一週間前に訪問したアルバートの屋敷から帰る途中、馬車の中で見た幼い頃の夢。兄とエヴァンと三人で訪れた幽霊屋敷での、おぼろげな記憶。
けれど手すりが崩れたその瞬間の恐怖心は間違いなく本物で、アナベルは夢から目覚めたとき、テラスから落ちた瞬間の恐ろしさと、その後に起きたことを鮮明に思い出したのだ。
「お兄様はすぐにわたしの手を掴んでくれたけど、でも全然持ちあがらなくて。わたし、本当に怖くて、声も出なくて……。このまま落ちて死ぬのかしらって、誰か助けてって……そう、思って。そしたら……あなたが……」
アナベルはじっとエヴァンを見つめる。
いまだ腑に落ちない表情でいるエヴァンに、それでも伝えなければ、と。
「あなたが、わたしの名前を呼んでくれたの。下の階のテラスで、両手を広げて、絶対に受け止めるから手を離せって叫んでいたわ。今思うと、あれはお兄様へ向けた言葉だったんでしょうけど、でも、わたしその言葉を聞いて、とても安心したのを覚えているの。――実際、その言葉どおりあなたはわたしをちゃんと受け止めてくれた。その後も、泣きやまないでいるわたしを、ずっと慰め続けてくれた」
「…………」
「でも、覚えてないわよね?」
「……すまない」
そのときのことを、エヴァンが覚えていないだろうことは最初から覚悟していた。
自分だってずっと忘れていたのだ。夢を見てようやく思い出した、それほど昔の出来事なのだから。
「謝らないで。わたしもつい最近まで忘れていたの。でもこれだけは伝えたくて。……わたし、きっと、あのときエヴァンを好きになったんだわ。あの日まではあなたのこと、もう一人の兄みたいに思っていただけだったけど……それが変わったのは、きっと、あの事故があったから……」
「……アナ」
「わたし、あなたのこと好きよ。今まで面と向かって伝えたことはなかったけど……お父さまに勧められた相手だからってだけじゃない。わたしは、あなたとずっと一緒にいたいと思って婚約したの。五年も経って今さらこんなこと言われてもって……思うかもしれないけど……」
「…………」
「だから……その……。もし、あなたが同じ気持ちなら……、わたしと……同じ気持ちだったら……嬉しいなって……」
「…………」
アナベルの声が不安に震える。
今だ何一つ答えないエヴァンに、恐怖と後悔の念が押し寄せてくる。張り裂けんばかりに心臓が音を立て、今にも泣き出してしまいそうになる。
けれど、アナベルは必死に耐えた。
きっとエヴァンは驚いているだけなのだ。そう考えて、エヴァンの言葉を待ち続けた。
数秒が数時間にも感じる。
風一つない、波一つない静けさの中、二人はただ見つめ合う。
そうしてついに、エヴァンの唇が動いた。
「君のことは、大切に思っている」
――大切……。
それは酷く曖昧な言葉だった。
「好き」でも「愛している」でもなく、「大切に思っている」――そのどちらかと言えば消極的な内容に、アナベルは正直なところ、とても強いショックを覚えた。
エヴァンは自分とは違う気持ちなのだ。彼は私を愛してはいないのだ――そう確信し、今にも涙が零れそうになる。
けれどそれより早く、エヴァンの口から告げられた言葉。それが、溢れ出しそうになるアナベルの涙を止めた。
「ありがとう、アナ。俺は今日、君に責められると覚悟していた。まして君がこんな風に好意を示してくれるとは思ってもみなかった」
エヴァンはそう言って、真っすぐにアナベルを見つめる。
「俺はいつだって自分の都合を優先し、君をおざなりにしてきた。傷付けている自覚もなかった。君にとって、俺は最低な婚約者だっただろう」
「…………」
「自分の行いについては反省している。二度と繰り返さないように努力するつもりでいる。……だが、正直どうしたらいいかわからないんだ。君が昔の俺を好いてくれていたのはわかった。けれど、今の俺は昔とは違う。あの頃の自分に戻れるとは到底思えない。……君は昔と変わらず、明るく、聡明で……こんな俺を好きだと言ってくれている。だが……俺は……」
「……エヴァン」
――ああ、これはいったいどういうことだろう。
まさかエヴァンは、自分では私に相応しくないとでも思っていたのだろうか。……いや、きっとそうではない。
エヴァンはただこの婚約について、私との関係について、今まであまり深く考えてこなかったのだ。
だが、もしそうだとするなら……。
「……アメリア様は?」
「――?」
「わたし、あなたはアメリア様を愛しているのだと思っていたの。だからわたしに冷たくするのだと……ずっとそう思っていたのよ」
そうだ。そもそもエヴァンはアメリア様を愛しているのではなかったのか。だから私に素っ気ない態度を取っていたのはではなかったのか。
それともルイスやアルバートの言ったように、本当に私の勘違いだったのか――。




