17.ささやかな幸せ
時間帯のせいだろうか、湖に浮かぶボートは二、三艘程度だった。
「空いてるな」
「ふふっ、いいじゃない。これだけ空いてれば選び放題だわ」
「ボートなんてどれも同じだろう」
「あら、違うわよ。ボートの側面の模様、みんな色が違うんだから」
「……色……」
アナベルは桟橋に立ち、左右に並ぶボートを品定めする。
その間に、エヴァンは係員にチップを払いオールを受け取った。
「――それで、決めたのか」
「そうねぇ。あの青いのか、こっちの黄色いので迷ってるんだけど」
「…………」
「どうしようかしら。どっちも捨てがたいのよね……」
「…………」
「決めた、青い方にするわ!」
熟考の末、アナベルはようやく決断したようだ。
エヴァンはやれやれといった様子で、目当てのボートのロープを桟橋のビットから外し先に乗り込む。そしてアナベルをボートの上へエスコートした……のだが。
「……?」
どういうわけだろうか。アナベルはエヴァンの横を通り過ぎ、奥側に腰を下ろしたのだ。
そんなアナベルの不可解な行動に、エヴァンは眉をひそめる。
「君が座るのはそこじゃない」
そう。奥に座るのは漕ぐ者の役目――つまりエヴァンの席である。
だがはアナベルは動かなかった。それどころか「あら、あってるわ」と言って微笑む。
当然、エヴァンは困惑した。
「まさか乗り方を忘れたわけじゃないだろう? そこに座るのは俺だ」
「あら、わたしがこっちであってるわよ。オール、わたしに貸してちょうだい」
「何だと?」
「だから、わたしが漕ぐって言ってるの」
そう言い切って、当たり前とでもいった様子でエヴァンの前に両手を差し出すアナベル。
するとエヴァンは顔を硬直させた。
「……君が? 漕いだことがあるのか?」
「ないに決まってるでしょ。お兄様が許さないもの。でもわたし本当は、ずっと漕いでみたいと思ってたのよね」
「……ハッ」
アナベルの突然すぎるカミングアウトに、エヴァンは何とも言えない声を上げた。――そんなこと今まで一度だって言わなかったじゃないか、そう言いたげに。
するとそんなエヴァンの態度が気に入らなかったのか、アナベルは兄サミュエルへの不満を口にする。
「何よ。エヴァンは知ってるでしょう? お兄様って紳士の意味をどこか履き違えているのよ。女性は扇子より重いものを持てないって本気で信じてるんじゃないかしら。何もさせてくれないんだから」
「……扇子? それはさすがにないだろう」
「あるわよ。それにお兄様ってああ見えて頑固でしつこいの。お兄様の淑女の基準を満たさないと食事中だろうと構わずお説教なんだから。お母様より厳しいの」
「…………」
「この前なんてドレスのデザインに口を出してきたのよ? 色が飾りがって、まるで小姑みたいだわ。エヴァンもそう思わない?」
「…………」
「ちょっと……ねえ聞いてるの、エヴァン?」
「――ふっ」
「……! 何よ、もしかして今笑ったの?」
「……いや、何でもない。続けてくれ」
――だが次の瞬間、エヴァンはアナベルから顔を背け右手で口元を覆い隠す。そして堪えるようにプルプルと肩を震わせた。
その横顔に、アナベルは目を見張る。
「――ちょ、どうしたのよエヴァン」
「……い、いや……」
「まさか本当に笑ってるの?」
「そんな……ことは……」
否定しつつも、決してこちらを見ようとしないエヴァン。
その隠れた横顔に、アナベルは驚きを隠せなかった。だって、あのエヴァンが笑っているのだから。
笑いを必死に堪えようと唇を結び肩を震わせるその姿は、子供のころのエヴァンの姿そのままだ。いつも優しい笑顔で笑いかけてくれていた、あの頃のエヴァンそのもの――。
「エヴァン……」
そんなエヴァンの姿に、懐かしさがこみ上げる。十年来のエヴァンの飾らない笑顔に、愛しさが溢れてくる。
――ああ、今ならば聞いてしまえるかもしれない。エヴァンの本音を聞けるかもしれない。
そんな風に考える。
彼が自分をどう思っているのか。本当は多少なりとも愛してくれているのではないか――そんな希望が沸き上がる。
あなたは私のことをどう思っているの? そう尋ねてしまいたくなる。
「エヴァン……わたし……」
「――ん?」
その呼びかけに、笑いを堪えながらアナベルを見下ろす、いつもより柔らかいエヴァンの眼差し。
その瞳にアナベルは決意した。――予定より少し早いが、今日の目的を達成してしまおう、と。
「わたし……エヴァンにどうしても聞きたいことが……」
そう言いながら、アナベルは感極まってその場に立ち上がる。
――だがそれは、水上では決してしてはいけない行動だった。
「……きゃっ」
立ち上がったはずみで、ボートが左右に大きく揺れる。予期していなかったその揺れに、アナベルの身体がぐらりと傾いた。
落ちる――彼女はそう確信した。……だが。
「――アナ!」
彼女の身体はエヴァンの叫び声と共に、水に落ちる寸前で見事に静止したのだ。
「……え?」
――どうして私、落ちてないの……?
空を見上げる体勢でそう思った次の瞬間、ぐぐっと腰を引き寄せられる。そして気づけば、彼女の身体はエヴァンの腕の中にすっぽりと納まっていた。
「……まったく。急に立ち上がる奴がいるか」
はあ――と大きく息を吐きながら、アナベルの身体を抱きしめるエヴァン。その安堵した声に、アナベルはようやく自分の置かれた状況を悟った。
自分はエヴァンに助けられたのだ。
「……あっ……あ、……の……わたし……」
「どうした」
「…………ご……ごめん、なさい」
エヴァンに抱きしめられていることを自覚した途端、ぶわっと全身が熱くなる。頭の中が真っ白になって、エヴァンの胸に顔をうずめた体勢のまま、顔を上げることすらできなくなった。
「そんなに驚いたのか? 声が震えてる」
「……っ」
「安心しろ。落ちてもちゃんと引き上げてやるから」
「~~ッ」
本気か冗談かわからないことを口走るエヴァン。
いつもなら間違いなく突っ込むところだが、今の彼女にはそれができなかった。
そんな彼女の態度を不審に思ったのか、エヴァンがアナベルの顔を覗き込む。
「まさかどこか痛むのか? 腕か? それとも足を捻ったか?」
「……っ、違う……」
「ならいったいどうした。さっきのサムへの不満といい、今日の君は少しおかしいぞ」
「……お……おかしい、かしら」
「ああ。そう言えば俺に何か言おうとしていたな? そのせいか?」
「――ッ」
真面目な顔で、じっとアナベルを見つめるエヴァン。
その透き通る碧い色に、アナベルは無意識に喉を鳴らした。――今ならきっとエヴァンは答えてくれる。そんな予感がした。
けれど、いざとなると中々言葉が出てこない。
心臓の鼓動が大きくなって、それだけしか聞こえなくなる。風が水面を撫でる音も、木々のざまめきも、すべてが胸の音にかき消される。
それでもどうにか尋ねようと、「あのね」と呟けば、その声は酷く掠れていて自分が自分で情けなくなった。
けれどそんなアナベルの気持ちを知りもしないエヴァンは、どこまでも冷静だった。
彼はいつになく自然な笑みを覗かせて、アナベルを見つめ返す。
――ああ、言わなきゃ。
自分をまっすぐに見据えるエヴァンの瞳に、アナベルは今度こそ心を決める。だが――。
アナベルが言うより早く、エヴァンが「――あ」と呆けた声を上げたのだ。
彼は何か大事なことを思い出したようにアナベルの身体を一瞬にして引き離し、ボートの左右……水面の上をじっと見つめる。
同時に、「しまった」と顔を歪めた。
その横顔に、アナベルは冷静さを取り戻す。
「えっ……どうしたのよ、エヴァン」
そう問うと、エヴァンは茫然と呟いた。「落とした」――と。
だがアナベルにはその意味がわからない。
「何を?」
「オールを落とした」
「えっ」
「オールを落としたんだ!」
「…………」
「だから、オールを水に――」
「何度も言わないで! ちゃんと聞こえてるわよ!」
「――ッ! あ……ああ……すまない。つい気が動転して……」
アナベルの声に反応しつつも、再び水面をじっと見つめるエヴァンの横顔。
そのなんとも頼りない姿に、アナベルはさっきまでの緊張をすっかり忘れてしまった。
「……だが沖に出る前でよかった。もしこれが水の上だったら大声で人を呼ぶ羽目になってただろうから……」
まるで言い訳のようにブツブツと呟くエヴァン。それがあまりにおかしくて、アナベルは思わず吹き出した。
「フフッ」
「なんだ、何がおかしい」
「だって、エヴァンのそんな顔久しぶりに見るんだもの!」
「笑いごとじゃない! 一歩間違えたら遭難するんだぞ!」
「そうだけど、だからってそんなに必死にならなくても」
エヴァンは私よりオールの方が大事なの? そう怒るべきなのか。それとも、そんなに大事なオールより私を助けてくれてありがとうと感謝するべきなのか。
そんな複雑な感情を覚えつつも、やっぱりエヴァンの言動がおかしすぎて、どうしても笑いを堪えきれない。
「……笑うな。周りに見られる」
「あら、わたしたち以外に誰もいないわよ」
「……さ……魚が見ているかもしれないだろう」
「ふふっ、そうね。きっと魚も鳥もわたしたちのことを噂するわね!」
「…………。今のは……ほんの冗談だ」
「わかってるわよ! エヴァンの下手な冗談に付き合ってあげるのはわたしくらいなんだから、感謝してほしいわ!」
「……それはさすがに酷くないか」
「あら、本当のことじゃない!」
こんなどうしようもないやり取りが楽しくて仕方ない。まるで子供の頃に戻ったようで、本当に嬉しくてたまらない。
ささやかな幸せとは、こういう時間のことを言うのだろう。
どことなく朱く染まったエヴァンの横顔を見つめながら、アナベルはそんな風に思うのだった。




