プロローグ(後編)
確かにエヴァンの言葉はもっともだ。紳士と名高いファルマス伯爵と、悪女とうたわれるアメリアとの婚約……これは裏にきっと何かある。
けれど、だからと言って一度結ばれた婚約を無かったことにするのは簡単ではない。それに最も大切なのは本人たちの意志である。どんな理由があろうと、二人が望んで婚約を結んだと言うならそこにエヴァンが口出しをする余地はないではないか。
だからアナベルは、諭すような口調でエヴァンに問う。
「ねぇ、エヴァン。一つ確認するけど、アメリア様は何と言っているの? 結婚の申し込みをその場で受けたってことは、当然のことながら婚約を破棄するなんてこと考えていないんじゃないかしら。あなたはさっき、アメリア様は誰とも結婚するつもりはないと言ったと証言したけれど、それはいったいいつのことなの?」
「――ッ」
するとエヴァンは、痛いところを突かれたと言うように大きく目を見開いた。
その姿にアナベルは確信する。この婚約を破断にしたいのは、他の誰でもなくエヴァンただ一人なのだ、と。
「エヴァン、ちゃんと教えて。あなたのことだからここに来る前、アメリア様に聞いたわよね。彼女はこの婚約について何と言っていたの?」
「……それは」
エヴァンの目が左右上下に彷徨う。そんなエヴァンにアナベルが睨むような視線を向ければ、エヴァンはようやく観念したように呟いた。
「……気が変わった……とだけ」
「…………」
瞬間、アナベルは脱力した。
やはりアメリアは望んで婚約したのだ。
そりゃあ冷静に考えればそうである。相手はあの結婚したい男ナンバーワンのウィリアムだ。相手にとって不足なし。実際に会ったら思っていたより好みだった、とか……きっとそういうことなのだろう。
それに、今のエヴァンの態度が何よりもそれを証明しているではないか。
アメリアはこの婚約を望んで結んだ。けれどエヴァンはそれを認めたくなくて、こんなに後ろめたそうな顔をしているのだろう。
――こうなると私のやるべきことは、どうにかしてエヴァンを諫めることだけど……。さて、どうしたものかしら。
アナベルが悩んでいると、部屋の扉がノックされた。
相手はもちろん侍女のクレアだ。朝食を運んできたのだろう。
「入っていいわ」――アナベルはそう声をかける。するとクレアは扉を少しだけ開きながら、ためらいがちにこう言った。
「あの……ハロルド卿がお見えになっておりますが……」
「ハロルドですって?」
ハロルド――姓はハードウィック。先々代のときからエヴァンの家門――サウスウェル家に仕える騎士家系出身の者だ。
彼は産まれながらにしてサウスウェル家に仕え、主にエヴァンの護衛役を務めてきた。
クレアからその名を聞いたアナベルは、まさか――と急いでエヴァンの方を振り向いた。するとやはり、そこにいた筈のエヴァンの姿はない。
彼女は次に窓際を見やった。――すると、いた。
エヴァンはいつの間にやら窓を大きく開け放ち、今にもそこから飛び降りてしまいそうな勢いで身を乗り出しているではないか。
「エヴァン、ここは二階よ! 忘れたの!?」
「構うものか! ハロルドには俺は来ていないと伝えてくれ!」
「いい加減にして! あなたって本当に馬鹿なんだから!」
アナベルは慌てて窓際へ駆け寄ろうとする。
けれどそれより速く、彼女の横を疾風が駆け抜けた。そして目にも止まらぬ速さでエヴァンを窓から引きずり下ろすと、次の瞬間にはうつ伏せの状態で拘束していた。
それをしてみせたのはまさに――ハロルド・ハードウィックその人であった。
「くそっ、退けハロルド! 主人を下敷きにするなど無礼だぞ!」
エヴァンは必死に抵抗を試みる。けれど騎士であるハロルドに敵う筈がない。
そんなエヴァンをハロルドはじっと見下ろして、心底迷惑だと言わんばかりの冷たい笑みを浮かべた。
「まったくあなたと言う方は……救いようがない」そう言って、端正な顔を歪ませる。
――ムラのない美しい灰色の髪と瞳。今年で三十三になる彼は三人の子供を持つ立派な父親だが、年齢を感じさせない精悍な顔だちをしている。顔が凛々しいだけに、睨んだときの圧は凄まじいものがあった。
だがそんなハロルドの態度に慣れきっているエヴァンは、この程度もろともしない。
「退けと言っている! 俺の命令が聞けないのか!」
「その愚かな口を今すぐ閉じた方が身のためですよ。私の主人はあなたではなく旦那様ですから」
「何だと!? ハロルド貴様、俺を裏切るつもりか! お前だってアメリアの婚約には反対していたではないか!」
「それとこれとは話が別でしょう。あなたは今朝方旦那様より謹慎を命じられたばかり。にもかかわらず屋敷を抜け出し、あまつさえこんな朝っぱらから婚約者の屋敷に逃げ込むなど、紳士以前に人としてどうかと思いますが」
「〜〜っ」
流石にここまで言われてしまっては反論の余地もない。エヴァンは今度こそ観念するしかなかった。
アナベルはそんなエヴァンを見つめ、ようやく静かになったか――と安堵の溜息をつく。
それにしたって、今までもエヴァンが取り乱す様子は何度も見てきたが、ここまで重症なのは初めてだ。普段はエヴァンだって――多少横柄なことを除けば――上流階級のマナーをわきまえた立派な紳士だと言うのに、どうしてアメリアが関わるとこれほどポンコツになってしまうのか。
「……クレア。あなたは下がっていいわよ。あとはわたくしがどうにかするわ」
アナベルは入り口で茫然とする侍女クレアに部屋から出て行くように指示し、自分は再びソファへと腰を落ち着けた。
そうして今度はハロルドに尋ねる。
「それで、ハロルド卿。エヴァンが謹慎ってどういうことかしら」
するとハロルドはようやくエヴァンから腕を放し、申し訳なさそうに両目を伏せた。
「それが、エヴァン様は今朝方アメリア様の婚約成立の件を聞きつけるなり激高されまして。アメリア様の寝室に押し入ったかと思うと、屋敷中に響き渡るほどの声で罵声を浴びせ、それを止めようとした使用人ら数名に怪我を負わせたのです。幸い怪我は擦り傷程度だったのですが、事を重く見た旦那様が一週間の謹慎処分を命じられたのでございます」
「…………」
――なんてことなの。
さすがのアナベルもこれにはドン引きした。そうして、拘束を解かれたにも関わらず床に臥せったままのエヴァンを冷たく見下ろす。
「エヴァン……全面的にあなたが悪いわよ」
いくら許せないことだったとしても礼儀を欠いてはいけないし、人を怪我させるなどもっての他だ。
アナベルがそう諭すと、エヴァンはようやく上半身を起こし――呟く。「わかっている」――と。
「俺にだってわかっている。……だが、どうしても自分では止められなかったんだ」
「そんなにアメリア様の婚約が許せない? それがご本人の幸せであっても?」
アナベルが尋ねれば、エヴァンは勢いよく立ち上がる。
「理屈じゃないんだ。俺だってあいつには幸せになってもらいたいと思ってる! だが、この婚約はどうしても受け入れられないんだ……!」
そしてこう叫んだかと思うと、終いにはシクシクと声も上げずに泣き出してしまった。
そんなエヴァンの姿に、アナベルだけでなくハロルドも困惑を隠せない。
「……え、エヴァン? ちょっと、まさか泣かなくても」
「エヴァン様、あなたには男のプライドというものがないのですか……」
「黙れハロルド! お前に俺の何がわかる!」
「わかりたくもありませんが――とにかく、今日はもう帰りましょう。あまり女性を困らせるものではありません。アナベル嬢、大変失礼ですが……私は今直ぐエヴァン様を屋敷に連れ帰らねばなりませんので、正式な謝罪はまた後日ということで」
「……ええ、それで構いませんわ」
こうしてエヴァンはハロルドに引きずられ、アナベルのもとを騒々しく去っていったのだった。