19.そしてエヴァンは
冷静であらねばと、彼はゆっくりと言葉を選ぶ。
「いいですか、エヴァン様。よくお聞きください。確かに昨夜のことは、彼女も承知の上だったのでしょう。ですがたとえそうであっても、レディを一人にするなど決してしてはならなかった。そうではありませんか?」
「わかっている。だから詫びはすると言い残してきたんだ。それにアナの方から言ったんだぞ。サムの馬車に乗って帰るから心配ないと」
「ですが実際、彼女はお一人で帰られたそうですよ。散会よりもずっと早い時刻に。それも、ミス・キャンベルの言葉を借りるならば、“泣きはらした顔で”です」
「――何だと」
「ですが、ミス・キャンベルがその理由を尋ねても、彼女はただ雨に濡れたと言い張るばかりだったと。その上彼女は、あなたに屋敷の前まで送り届けて貰ったと嘘までついて。……彼女はどのようにして一人で屋敷に戻られたのでしょうね」
「……っ」
語られた内容に、さすがのエヴァンも顔を蒼くする。
なぜなら彼は、アナベルはサミュエルの馬車で帰ったと思っていたのだから。
まさかアナベルが泣く程辛い思いをいていたとは、思ってもみなかったのだから。
「ここまで申せば、いくら鈍感なあなたでもわかるでしょう。夜会であなたを見送った彼女は、その辛さに涙を流さずにはいられなかった。化粧の崩れてしまった顔で会場に戻ることもできない。だから彼女は兄君の馬車ではなく、お一人で帰らざるを得なかったのです」
「……そんな、――そんなこと、ただのお前の推測に過ぎないだろう!」
「推測ですって? ええ、そうかもしれません。けれど事実でないのなら、彼女があなたを庇うことはなかったでしょう。涙を流した理由が別にあるのなら、それを隠す必要はなかった。ですが、彼女はミス・キャンベルにも――もちろんご家族や他の使用人らにも、あなたに送り届けてもらったと嘘をついたのです。それは彼女があなたの立場を案じてしたことに他ならない……そうでなければ、いったいどんな理由があると言うのです?」
「――ッ」
今度こそエヴァンは言葉を失くした。
クレアもハロルドも、嘘をつくような人間ではないことを、エヴァンはよく知っているのだから。
だがまさか、置いていかれた程度のことでアナベルが泣くとは思っていなかった。そんなことで、あの気丈なアナベルが涙を流すとは到底信じられなかった。
「……アナは、本当に泣いたのか? クレアは確かにそう言ったのか?」
エヴァンは恐るおそる尋ね返す。すると頷き返すハロルド。
ショックを隠せないエヴァンに、ハロルドは諭すように問いかける。
「エヴァン様、答えてください。あなたはアナベル嬢に何かご不満がおありなのですか? 彼女はあなたの婚約者として、他の誰よりも申し分ない方だとお見受けしますが」
それは意地の悪い質問だった。
けれど、後ろめたい気持ちのある今のエヴァンに、無視することはできなかった。
「……彼女は大切な幼馴染。不満などある筈がない」
「幼馴染……まぁそれもいいでしょう。ですが彼女はただのご友人ではない。名実共にれっきとしたあなたの婚約者なのですよ」
「……何が言いたい」
エヴァンの訝し気な声に、ハロルドは短く息を吐く。
「つまり――あなたはアナベル嬢を優先すべきだったのです。自分の都合ではなく、お嬢様でもなく、アナベル嬢を優先すべきだった」
「…………」
「今回のことばかりではありません。お嬢様のことを抜きにしたって、あなたが優先するのはいつだって自分の都合ばかり。お嬢様のことにしたって、いくら事情があろうとも一度決まった婚約を白紙にするのは並大抵のことではありません。それでもあなたは婚約を撤回しようとなさるのか。それは自らの婚約者を無碍にしてまで、成し遂げなければならないことなのか――」
「――だが、あの男は……!」
ハロルドのキツイ物言いに、エヴァンは顔を赤く染める。先ほどまで青ざめていた顔が、今度は怒りに染まっていく。
だがそれでも、ハロルドは言葉を止めない。
「わかっております。ですが、その命の危険がお嬢様にまで降りかかるとは、あなたは一言も仰られないではありませんか」
「――!」
「不敬罪と取られかねない発言になりますが――一個人としては、お嬢様ご自身が無事であるなら相手の方がどうなろうと知ったことではありません。……いいではありませんか。跡継ぎのないまま未亡人となられれば、お嬢様はこの屋敷に戻ってこられる。上手く事が運べば、一生手元に置いておくことも可能なのですよ」
「ハロルド貴様、正気か!?」
「どうでしょうね。ですがエヴァン様のなさろうとしていることも、正気の沙汰とは思えません」
「……っ」
ハロルドの冷たい視線に、エヴァンは今度こそ黙り込む。
言い返す言葉もなく、彼は悔し気に顔を歪めた。
「アナベル嬢の何ともいじらしいこと。自分を見もしない婚約者に最後まで協力するなどと……私ならとてもじゃないが言えません。アナベル嬢はあなたのいったいどこが良くて、婚約関係を維持しておられるのか」
「……お前、さすがに言葉が過ぎるぞ」
「おや、そうでしょうか。もしも旦那様が今の私の言葉をお聞きになられたら、全面的に同意くださると思いますがね」
ハロルドは冷たく言い放ち、部屋の掛け時計へと視線を向ける。
丁度十時を指している時計の針を見つめ、長い長い息を吐いた。
「少々話し過ぎてしまったようです。私は退室させていただきますので、エヴァン様は急ぎ、朝のお支度をなさいますよう」
こうして、ハロルドはあっさりと部屋を出て行った。
後悔と焦燥感に立ち尽くす、エヴァンを一人その場に残して――。




