18.憤り
「……ふざけるな」
中を読み終えたエヴァンは、怒りのあまり手紙をぐしゃりと握り締めた。
アメリアが社交界を避けていた理由――それについては、昨夜アメリアから直接聞き出した内容と相違なかった。
だが、二人の間で交わされた契約については到底受け入れられるものではなかった。
なぜならそれは〝仮面夫婦の提案〟だったのだから。
確かにアメリアは昨夜こう言っていた。〝彼は私を愛さないと誓ってくれた〟――と。
そのときは意味がわからなかったが、アナベルからの手紙によればその具体的な内容は、〝プライベートでの愛情表現の一切の禁止〟、〝性交渉は月に一度。跡取りが産まれた後はそれもなし〟、〝浮気したければどうぞご自由になさって〟というようなことだった。
「馬鹿な……こんな条件、到底納得できるものか!」
条件を提示したのはアメリアの方らしいが、受け入れる方もどうかしている。
エヴァンは怒りに肩を震わせ、ベッドから立ち上がった。シワだらけになった手紙をハロルドに押し付け悪態をつく。
「それにサムの奴……この件から降りると言ってきた。そもそも、あいつがもっと早くアメリアのことを知らせていればこの様なことにはならなかった筈なのに……っ、ああ――クソッ!」
フラフラと数歩よろけるように進み、両の拳を壁に向かって叩きつける。
一方のハロルドはそんなエヴァンを尻目に、シワだらけの手紙を丁寧に伸ばし、頭から目を通していった。
――手紙には、サミュエルが三年程前に何度かアメリアを市井で見かけたと書かれていた。夜会への行きかえりに、男と歩くアメリアの姿を馬車の中から見た、と。
その時のアメリアは、およそ貴族の娘とは思えない恰好をしていたらしい。それは隣を歩く男も同じだった。
加えて手紙には、上記のことをエヴァンに伝えなかった理由も記されていた。
サミュエル曰く、市井で見かけたアメリアはいつもとは別人のように明るい顔をしていたので、その笑顔を壊すようなことはしたくなかったと。
それに、隣の男とは恋人のような雰囲気ではなかったし、ある時からぱったり姿を見かけなくなったから、お遊びには飽きたのだろうと思っていた――とのことだった。
そしてまた、こうも書かれていた。
――昨夜ファルマス伯爵と言葉を交わし、敵に回してはならないと判断した。よって俺はこの件から一切の手を引かせてもらう、と。
そのような内容が、アナベルの文字で率直に書かれていた。
だが、ハロルドの読む限り悪い話ばかりではない。
サミュエルは手を引くと言っているが、アナベルはそうではないようなのだ。
アナベルは、表立って協力できることは少ないができるだけのことはすると言ってくれていた。エヴァンの気が済むまで付き合う、と。
ただそれも、公式な場での非常識な行動を慎むと約束するなら――という条件付きではあったが。
しかしそれだって、今朝のクレアとの会話で判明した“エヴァンのアナベルへの仕打ち”を考えれば、譲歩に譲歩を重ねた結果であるのは明らかだ。
アナベルを夜会に一人置き去りにし、単独で帰ってしまったエヴァンの行いは決して許されることではないのだから。
だがそのことをなぜハロルドが知っているのかと言えば、今朝クレアから、昨夜のエヴァンの様子を直接尋ねられたからだった。
――クレアは昨夜、アナベルが帰ってきたときの状況そのものに疑問を抱いた。
予定より早すぎる時間の帰宅。いつもなら玄関の前で止まる筈のサウスウェル家の馬車は現れず、アナベルは一人で門をくぐってきた。
クレアが理由を尋ねると、アナベルは〝エヴァンに急ぎの用ができたので、門の外で馬車を降りた〟と言いはった。
だが、それが嘘であることは明白だった。
崩れた化粧に赤く腫れあがったまぶた、けれどドレスはほとんど濡れていない。
つまり、彼女は雨に打たれたのではなく、〝泣いた〟のだ。
そもそも、急いでいたなどと言う理由で、深夜に令嬢を敷地外で馬車から降ろすなど考えられない。
だからクレアは、アナベルとエヴァンの間にただならぬトラブルが起きたことを悟った。
そういう訳でクレアは今朝がた早く、アナベルのエヴァンへ宛てた手紙を届けることを口実に、直接ハロルドの元を訪れたのである。
そして判明した。
エヴァンの帰宅した時間とアナベルが帰宅した時間を突き合わせると、どうしても矛盾が生じてしまうことに。
アナベルがオールストン伯爵家の屋敷に着いた頃、エヴァンはアメリアから部屋を追い出され自分の寝室にいた――それが意味するものは、エヴァンはアナベルを屋敷に送り届けていないという事実。
つまりアナベルは、エヴァンでもサミュエルでもない他の誰かの馬車か、あるいは辻馬車で屋敷に戻ったということを意味する。
その事実に、ハロルドは酷く憤った。
アナベルが涙を流した理由に合点がいった。
婚約者に置き去りにされた令嬢の辛さはいかほどのものだったのか、想像に難くなかった。
けれどそれでも、アナベルはエヴァンに協力すると言っている。
自分の辛い心は閉じ込めて、エヴァンの事情も秘密も知らないままで、それでもエヴァンに最後まで付き合うと申し出てくれている。
それはきっと、アナベルが本気でエヴァンを愛しているからなのだろう。
だからハロルドは、エヴァンが今以上にアナベルに心を開いてくれればと願った。
二人の仲が深まることを、心から祈っていた。
そうであるから彼は、エヴァンが悪夢にうなされるほど心を悩ませていることを理解しながらも、昨夜のアナベルの様子を伝えようと決意する。
「話は変わりますが――エヴァン様」
壁に寄りかかった体勢のままのエヴァンの背中に、ハロルドは問いかける。
「昨夜、アナベル嬢を夜会に残し、お一人で帰っていらっしゃたと言うのは事実でしょうか」
自分を責めるその声に、エヴァンは眉をひそめる。
「事実だ。だがアナとて承知の上でのこと。後日詫びるとも伝えてある。お前に責められるいわれはない」
「まさか本気でそう考えていらっしゃるのですか? アナベル嬢が少しも傷ついていないと?」
「そうは言ってない。だが手紙には一言もそんなこと書かれていないんだ。気にしていない証拠だろう」
そこまで言って、エヴァンはハッとした。
彼は再びハロルドを睨みつける。
「――お前、どうしてそのことを知っている? クレアから聞いたのか? アナの奴……文句の一つもないのはおかしいと思ったが、俺への恨み節を侍女に向かって唱えていたとはな」
「――ッ」
ハロルドは憤る。エヴァンが事実とは全く逆の思い込みをしていることに。
そして同時に絶望した。エヴァンのあまりにも身勝手な考えに、そしてその物言いに。
アナベルはクレアにエヴァンへの恨み言など告げていない。
それどころか彼女はエヴァンを庇っていたと言うのに……どうしてエヴァンは自分を棚に上げてアナベルを貶めるようなことを言うのだろうか。
「……あなたと言う人は」
――本当に、救いようのないほどの大馬鹿者だ。
思わず手が出てしまいそうな程の怒りが、彼の心を黒く染めた。
けれど彼は、その衝動を理性で押しとどめる。
エヴァンはまだ子供なのだ、と。身体ばかりが大きくなっただけの子供なのだと、そう心に言い聞かせて。




