15.告げ口
――少し時間をさかのぼる。
エヴァンより十五分の待機を命じられたデリックは、その言いつけをさっそく破り、使用人らの宿舎に駆けこんでいた。
本邸の裏にある三階建ての宿舎。屋敷の使用人およそ五十名が毎日寝起きするその宿舎はそれなりに広い。一階は共有部分、二階は男性用、三階は女性用と区分されている。
デリックはその一階にある談話室の扉を勢いよく開け放ち、こう叫んだ。
「ハロルド、まだいるか!?」
デリックは騎士のハロルドを探していた。
エヴァンからは、時間を過ぎたら執事を呼べと言われたデリックだったが、彼はそれより先にハロルドに事情を説明しておこうと考えたのだ。
談話室では、仕事を終えた使用人仲間十数名が各々酒を飲んだりボードゲームをして楽しんでいた。
そんな彼らは、急に駆け込んできたデリックのいつもと違う様子に手を止めた。
「何だデリック、この時間はまだ仕事中の筈だろ?」
「向こうで何かあったのか?」
仲のいい同僚二人は、チェスの駒を持ち上げたまま怪訝そうな顔をする。
するとデリックは、二人の座るテーブルに近づき先の言葉を繰り返した。
「何もねーよ! それよりハロルドは? もう帰っちゃった!?」
ハロルドには家族がいる。そのため夜は家族の待つ家へ帰るのだ。
それにそもそも、騎士である彼はたとえ独身であろうと使用人用の宿舎で寝泊まりはしない。身分が異なるからである。
にも関わらず、彼は毎日勤務が終わると必ずこの談話室で使用人らと交流した。
それは一般的にはあり得ないことだったが、ハロルドは身分など気にしないと、勤務時間外であれば相手が誰であろうと気軽な態度で接することを許した。
そんなわけで、ハロルドは皆に慕われている。
加えて、使用人の枠組みから外れた騎士という立場の彼はある意味治外法権だ。
彼は一見この屋敷の当主リチャードに従っているように見えるが、それは彼が騎士としての役割を期待されている場面のみである。それ以外のことにはついては、彼は彼の裁量によって自由に振舞うことを許されていた。
そういう理由もあり、何か問題が起こりそうになったら真っ先にハロルドに相談すると言うのが、この屋敷の使用人らの暗黙のルールになっている。
「ハロルドならついさっきまで向こうでポーカーしてたぞ。――なあ?」
「ああ、ボロ負けして酒おごる約束させられてたな」
「見かけによらず弱いからなぁ」
「まだ厩舎にいるんじゃないか?」
「ありがとう!」
――デリックはそう言い残し、今度は厩舎へと向かった。
すると同僚の言葉通り、ハロルドはまだそこに居た。
こうしてデリックより事情を説明されたハロルドは、急いでアメリアの部屋に駆け付けた次第である。
*
そして今現在、ハロルドはエヴァンを見下ろしていた。
自分を茫然と見上げるエヴァンに対し、彼は威圧的な視線を注ぐ。
「まったく……何度お諫めすれば態度を改めてくださるのですか」
率直に、ハロルドは苛立っていた。
ようやく三日前に謹慎が解けたばかりだと言うのに、いったいこの主は何をやっているのかと。自分の立場というものが何もわかっていないのか――と。
貴族社会に生きるものならば、当然弁えていなければいけないルールというものがある。そのうちの一つは“当主の命令は絶対”。それはいついかなるときであろうとも。
実のところハロルドは、このルールを必ずしも守られなければならないとは思っていない。しかし、今回のことについては例外だ。
先日の騒ぎはどう考えてもエヴァンに否がある。彼が身勝手な理由から使用人に怪我をさせたのは事実であり、その責任は軽くない。
もしもこれが成人前の子供がしたことなら許されたかもしれないが、彼は二十三の立派な大人だ。家督を継いでいてもおかしくない年齢なのである。
だから当主のリチャードは、いくらエヴァンが可愛い息子と言えど体裁上甘やかすことはできなかった。跡取りとして家紋を背負う責任を、エヴァンに自覚させなければならなかった。
だからこそ一週間の謹慎を命じ、更にアメリアとの接触を禁じたのだ。
それなのにさっそくそれを破ったとなれば、周りはどう思うだろう。
そんな軽率な息子に家を任せられると思うだろうか。信頼に足る人物だと思ってもらえるだろうか。――勿論、答えは否である。
だからハロルドは、今度ばかりはエヴァンを許すわけにはいかなかった。
いくら彼がエヴァンを実の弟のように可愛がり、愛してきたと言えども――だ。
「いい加減にしてください。お嬢様とはお会いにならぬようにと、旦那様から散々命じられた筈。――それなのにたった三日でお破りになるとは……開いた口が塞がらないとはこのことだ」
ハロルドの全身から殺気が放たれる。
それは今までエヴァンには決して見せることのなかった彼の騎士としての姿。剣など抜かなくとも、その場を一瞬で支配する圧倒的な存在感。
その威圧的なオーラに、エヴァンはびくりと肩を震わせた。
床に尻もちをついたまま、一瞬で顔を青ざめる。
けれどそれも一瞬のこと。
彼はすぐさま顔をしかめ、毒づいた。「お前を呼んだ覚えはないぞ」と。
「告げ口したのは誰だ? ――ああ、デリックか」
エヴァンは自嘲気味に口角を上げる。それはいつも以上に敵対心をむき出しにして。
――だがハロルドは知っていた。
それがエヴァンの虚勢であると。自分の心を気取られまいとする、彼の精一杯の鎧なのだと。
生意気な口調も、喧嘩腰な態度も、全ては彼の本心を隠す為のものだ。
「だったらどうすると。彼に罰を与えようとでも?」
「ハッ、そんな小賢しい真似などするものか。俺はもとより罰を受けるつもりでいた」
「でしたらなぜ――」
「俺はな、ハロルド。あいつにこう命じたんだ。“ヒューバートには言うな”とな。お前を呼ぶなとは言わなかった。つまり、あいつの方が一枚上手だったと言うわけだ」
エヴァンの挑発的な瞳。
それは殺気をまとったハロルドを少しも恐れることなく、真っ直ぐに見据えてくる。
それはやはりいつもとはどこか違うエヴァンの姿で、ハロルドは違和感を感じざるを得なかった。
――だが、いったい何が違う……?
ハロルドはエヴァン以上にエヴァンのことを知っていた。
エヴァンがアメリアを愛していることは勿論のこと、彼がアナベルとサミュエル以外の者の前では素顔を晒せないことも……そして、彼がそうなってしまった本当の理由も、ハロルドだけが知っていた。
そんなハロルドであるから、エヴァンの些細な変化にはとても敏感だった。
「部屋に戻る」
エヴァンは短く告げる。
ハロルドから視線を少しも反らさず――彼はハロルドの横を通り過ぎ、部屋の外へ出て行こうとする。
――その瞬間、ハロルドはようやく気が付いた。
自分はこの部屋に入ってから、一度もアメリアの声を聞いていない、と。
確かに普段から無口なアメリアだが、気の強い性格の彼女がエヴァンにやられっぱなしでいるわけがない。少なくとも、文句の一つや二つ浴びせるのが通常である。
それなのに、どうしてこれほど部屋が静まり返っているのか。
エヴァンが隠したがっていたのは……お嬢様か?
ハロルドは確信する。そしてアメリアの方を振り返った。
――すると、その刹那。
まるでハロルドとタイミングを合わせたかのように、「お兄様」――とアメリアの口が動いた。それはいつもの凛としたアメリアの声。はっきりとよく通る、芯のある美しい声。
その呼び声が、エヴァンの足を止めた。
アメリアはゆっくりと立ち上がる。
そして、告げた。
「私たち、仲直りしましょう」――と。
「――仲直りだと?」
エヴァンは振り返る。それは驚きに満ちた瞳で。
「ええ、仲直り。私たち、お互いのことを誤解していたみたいだし」
「……本当か?」
「本当よ。今ならハロルドもいるし、冷静に話し合えると思うの。婚約の件も、考え直していいと思ってる」
「――!」
「ただし条件があるわ。どうして相手がウィリアムだと駄目なのか、それを話してくれること」
アメリアはゆっくりとエヴァンに近づく。
エヴァン以上に驚くハロルドをしり目に、一歩一歩エヴァンへと。それはエヴァンを追い詰めるかのごとく――。
「さあ、どうする、お兄様。私と仲直り、する?」
アメリアはそう言って、無邪気に微笑んでみせた。