12.エヴァンの提案
「アメリア、話がある」
部屋に入るなり、エヴァンは開口一番にこう言った。
そのとき、アメリアは一人ソファに腰かけ読書をしていた。
本のタイトルは「ロホンツィ・コーデックス」。書かれた年代も作者も不明の、四百五十ページ全てが独自文字で書かれた非常に難読な本である。世界で最も難解な本三選に選ばれるほどだ。
エヴァンが部屋に入ったとき、アメリアはその本の文章を童話でも読むかのような眼差しで追っていた。そしてその眼の動きは、エヴァンが冒頭の言葉を告げ――彼が自分のすぐ前に立ちはだかろうと変わることはなかった。
彼女はエヴァンに気付いていながら、その存在を全くもって無視していた。
それはいつものアメリアだった。
エヴァンと同じ青い瞳に、美しい金色の髪。そして白く透き通った肌。そのどれもがエヴァンと同じように人目を引くものだったが、彼女はエヴァンに比べてより一層他人への興味を示さなかった。
口数は極端に少なく、家族相手であっても必要最低限のことしかしゃべらない。それがただ大人しいというだけならまだいいが、一度口を開けば口調もキツイものだから、それが美しい容姿と相まって彼女を近寄りがたい人間として印象付けた。
そうであるから彼女は同性の友人の一人さえおらず、美しい容姿にも関わらず男一人寄せ付けない。
貴族の子息と言えば厳しく育てられる跡取りの長男を除けば、温室育ちの世間知らずか放蕩者、あるいは女にだらしないかのいずれかに当てはまる者が多いが、アメリアはその性格のきつさ故に誰からも遠巻きにされていた。
けれど昔からこうだったわけではない。社交界デビューをして少しするまでは、今より幾分か柔らかい性格をしていたはずだ。――少なくとも三年前までは。
「好いた男がいるというのは、本当か」
それは、サミュエルの言葉とウィリアムの見せた態度を勘案して出した結論だった。
アメリアには好きな男がいる。
けれどその男と一緒にはなれない何らかの理由の為に、あるいはカモフラージュの為にウィリアムとの婚約を受け入れたのだろうと考えたのだ。
アメリアの性格がこうなってしまった理由もそのことに関係しているのだろう。
だってウィリアムは言ったのだから。“アメリアは悪女ではない”――と。
エヴァンはアメリアのすぐ前に立ち、彼女の反応を観察する。
「ファルマス伯に会ってきた。……彼は言っていた、お前は決して悪女ではないと。お前が婚約を受け入れたことには、確かな理由があるのだと」
エヴァンは迷いなく告げる。
するとさすがのアメリアも反応を見せた。
静まり返った部屋に、本を閉じる無機質な音が響く。彼女の青い瞳がゆっくりとエヴァンを見上げた。
「だったらいったい何だと言うの」
「――っ」
それは感情のない声だった。無機質な色の瞳だった。
苛立ちでも怒りでもない。強いて言えば呆れ果てたような、憐みのような、そんな色を含んでいた。
そんな妹の表情に、エヴァンは口ごもる。
――ああ、またか……、と。
この目だ。いつも自分を見つめてくるこの何の感情もない瞳。
それが、エヴァンの心を苛立たせる。
いつだってアメリアは、エヴァンがどれだけ声を荒げても、責めたてても、気にする素振りを見せたりはしない。それはまるで子供の駄々を遠くから眺めるかのように。
それならいっそ嫌ってくれた方がマシだった。拒絶して遠ざけて、近づかないでと言われる方がずっと良かった。
ああ、いつからこうなってしまったのか。いつから自分とアメリアの関係は、こんな風になってしまったのか。
それはきっと、もう思い出せないほどの昔から――。
だが、エヴァンはそのきっかけが自分にあることをよく理解していた。自分がアメリアに取り続けていた態度に問題があったことを自覚していた。アメリアには何の罪もないとわかっていた。
それに、最初にアメリアを遠ざけたのは自分だ。
「近づくな、あっちへ行け」と幼い妹に冷たく吐き捨てたのは自分の方。
なぜそんなことを言ってしまったのかはどうしても思い出せない。けれど、きっとそれが元々のきっかけなのだ。
妹を嫌ってなどいないのに。とても大切に想っているのに。
――けれど、この気持ちだけは決して口に出してはいけない。
だから彼は必死に心を鎮める。
自身の拳を握り締め、奥歯を強く噛み締めて、苛立つ心をじっと抑えた。
そんな兄の表情を、じっと見つめ返すアメリア。
彼女はその心を見透かすように、目を細めた。
「わかっているわ。お兄様は怒っているのよね? お兄様が知らなかったことを、彼は知っていた。私が彼のことを好きでも何でもないのに婚約したことも、彼が私のことをお兄様以上に知っていることも……私がそれを隠していたことも、その全てが気に入らないのよね?」
「……っ」
それは図星だった。アメリアの言葉に間違いはなかった。
確かにエヴァンは苛立っていた。
アメリアに隠し事をされていたことに、自分が妹のことを何一つ知らないのだと自覚させられたことに。
そして、妹が周りの全ての者に嘘をつき続けてきたかもしれないというその可能性を知って。
けれど、なぜだろうか。
アメリアの発言はとても的確な筈なのに、どうしても釈然としない気持ちになるのは――。
それにエヴァンには、何としてでもこの婚約を撤回させなければならない理由があった。相手がウィリアムではなく別の男であれば何の問題もない、たった一つの理由が。
だから実のところ、アメリアにウィリアムとは別の好いた男がいると知って内心安堵したのだ。だって、相手がウィリアムでさえなければいいのだから。
「お前の言う通りだ。だが、今言いたいのはそんなことじゃない。俺がお前に伝えるべきことは……ただ一つ。お前に好いた相手がいると言うのなら……悪いことは言わない。ファルマス伯との婚約は解消して、好いた相手と結婚しろ。相手が誰であろうと……俺が協力するから」
「――っ」
瞬間、アメリアの瞳が見開かれる。
それは紛れもなく、アメリアの素直な感情だった。
「相手は誰だ、言ってくれ。結婚を諦めなければならない相手とすれば……平民、あるいは妻帯者か? 確かにどちらも難しいが、やってやれないことは……」
エヴァンは必死に考える。
それはエヴァンにとっては当然の意見だったが、アメリアからすれば青天の霹靂どころの話ではない。
今まで結婚どころか婚約にさえ反対していたエヴァンが、急に好きな相手と結婚しろと言いだしたのだから。
当然、アメリアにとって、エヴァンの提案は望むものではなかったのだろう。
彼女はエヴァンの言葉を遮るように、腰かけていたソファから勢いよく立ち上がった。
そうして先ほどまでは何の感情も映していなかった瞳を酷く濁らせ、エヴァンに軽蔑の目を向ける。
「出ていって」
「――っ」
それは強い怒りを秘めた声だった。
アメリアのその声に、エヴァンは背筋を凍らせる。
それは彼が今まで一度だって見たことがない、妹アメリアの激情する姿だった。