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11.エヴァンの帰宅


 アナベルがルイスに全てを打ち明けるのと同じ頃、エヴァンはサウスウェル家の屋敷に到着していた。


 神妙な面持ちで馬車を下り、一人静かに屋敷の扉を開ける。それはまるで人目を忍ぶかの様に。


 けれどいくらエヴァンがひっそりと屋敷に入ったからと言って、使用人の目に留まらないわけがない。

 実際、エヴァンに気付いた玄関付きの年若い従僕(フットマン)デリックは、突然のエヴァンの帰宅に驚き駆け寄った。


「お帰りなさいませ、エヴァン様。――申し訳ございません、突然のことで気が付かず……」

 

 だが、エヴァンがそれに返事を返すことはない。

 彼はデリックに見向きもせずに、黒の帽子――トップハット――を脱ぎ無造作に差し出す。


 それはいつもの無愛想なエヴァンだった。


 デリックはこの屋敷で働き始めて二年になるが、彼の知る限りエヴァンが使用人に感心を示したことは一度だってない。


 基本的に使用人の方からエヴァンに声をかけることはないが、用があって話しかけたとしても、エヴァンは無言か、あるいは「ああ」や「結構」と言うような短い返答しかしないのだ。


 だがそれはエヴァンに限ったことではないし、貴族であればむしろそれが当然とも言える。

 貴族と使用人では身分が違うし、同じ場所に住んでいるとはいえ家族ではないのだから。


 だからデリックにとって、エヴァンのこの態度は不満に感じるようなことではなかった。

 自分の仕事ぶりに対して罵詈雑言が飛んでくるわけでもなし。気が向けば返事をしてくれる――それだけで十分だと考えていた。


 それどころか、今まで多くの屋敷を転々としてきた彼からすれば、ここは天国と呼ぶに相応しい場所だった。

 食事はきっちり三食出るし、長期休暇も取れる。給金も破格と言っていい程高く、真面目に働けば昇給もある。


 以前の様に主人から鞭や火かき棒で折檻されるようこともない。使用人同士の人間関係も円満で、上級使用人から下級使用人への虐めや仕事の押し付け合いなども一切ないのだから。


 ――デリックはそんなことを思いながら、頭を低くしてエヴァンから帽子を受け取った。

 そしてこう尋ねる。


「予定よりお早いお帰りですが、何か急用でも? バトラーをお呼びいたしましょうか」


 それは形式上の質問だった。


 本来ならばエヴァンの帰宅に合わせて扉を開けるのもデリックの仕事。

 だがエヴァンが予定よりも早く帰った為に、彼は自分の仕事を全うできなかった。

 けれどそれはデリックのせいではない。彼はちゃんとエヴァンの予定を把握していた。


 だからデリックは、自分への保身と、エヴァンが急ぎの用のために急ぎ戻った可能性を考慮して、このような問いをしたのである。


 だがデリックは知っていた。

 この問いは無駄になるだろうな、と。少なくともいつものエヴァンなら無視するだろう。


 けれど今日のエヴァンは様子が違った。

 彼は確かにデリックの質問には答えなかったが、いつもならすぐにスルーするはずのデリックの前で、どういうわけか立ち止まったのである。


「……あの?」


 いつもと明らかに違うエヴァンの態度に、デリックは困惑した。


 ――もしや、自分は何か不味いことを言っただろうか。


 彼は自分の前からなかなか立ち去らないエヴァンに違和感を覚え、腰を折ったまま視線を床に釘づける。


 すると数秒の後、エヴァンの声が降ってきた。


「父上はまだ戻ってないな?」

「……は」


 その問いに、デリックは一瞬口ごもる。――が、すぐに「はい。まだお戻りになってはおりません」と流暢に返した。


 この屋敷の主人であり、エヴァンの父親であるリチャードは、現在夫人と共に夜会へ出かけている。帰るまではまだ二時間ほどあるだろう。


 デリックがそう伝えると、エヴァンは吹き抜けの階段ホールから二階を見上げ目を細めた。

 そして、再びデリックを見下ろす。


「私が戻ったことは、執事(ヒューバート)には知らせるな」

「……え?」


 エヴァンの放ったその一言に、デリックはますます困惑した。


 エヴァンが自分に対してここまで会話らしい会話をしてきたことがかつて一度でもあっただろうか。

 それに、執事に知らせるなとはどういうことだろう。


 そう考えて、彼はハッとする。

 エヴァンが今しがた二階を見つめていた理由。それはもしかしなくても、アメリアに会う為ではないのか、と。


「――もしやお嬢様に……?」


 デリックは控えめに尋ねる。

 するとエヴァンは明らかに眉をひそめた。恐らく図星なのだろう。


「お言葉ですが、エヴァン様は旦那様より、お嬢様にはお会いにならぬように命じられているはずです」

「そのような事は言われずとも承知している。お前はただ、私が帰ったことを黙っているだけでいいのだ」


 エヴァンの答えに、デリックは確信した。


 エヴァンはアメリアに会う気でいるのだ。

 だがしかし、リチャードは自分抜きでのエヴァンとアメリアの接触を許していない。

 その為、エヴァンの行動は全て執事であるヒューバートが把握しておくことになっている。

 だからエヴァンが帰宅した事実を、ヒューバートに伝えないわけにはいかなかった。


 デリックは緊張した面持ちで再び頭を下げる。


「いいえ、それはできません。もしそのようなことをすれば、私が旦那様よりお叱りを受けてしまいます」


 これは事実だ。デリックの主人はリチャードでありエヴァンではない。

 けれどだからと言って、エヴァンも自分の仕える主であることに変わりはない。

 つまり自分は、今ここでエヴァンから罰を受けることを覚悟しなければならないのだ。


 頭を下げたデリックに、エヴァンの視線が突き刺さる。

 二人きりの玄関ホールで、エヴァンのため息だけがやけに大きく耳に響いた。


「顔を上げろ」

「……は」

「顔を上げろと言っている」


 エヴァンの命令に、一瞬ためらうデリック。

 打たれるなら、顔より胴の方がいいのだが――そう思った。


 けれど顔を上げたデリックを待ち受けていたのは暴力ではなく――それ以上のとんでもない提案だった。


「確かにお前の言い分は正しい。だが私はどうあってもアメリアに会わねばならない。――だからお前は、私に殴られて気を失っていたことにしろ」

「――は?」


 デリックは自分の耳を疑った。

 殴られる覚悟はしたが、まさか殴られたことにしろと言われるとは思ってもみなかったからだ。それも、気絶までしろと言っている。


 文字通り開いた口が塞がらないデリックに、エヴァンは真面目な顔で続ける。


「十五分だ。それを過ぎても私があいつの部屋から出てこなければ、ヒューバートなりなんなり呼ぶがいい。私に殴られ気を失っていたと、ベソでもかきながらな」

「……っ」


 そのあり得ない提案に、デリックはごくりと唾を飲み込む。


 確かにその案なら、自分に害は及ばないだろう。しかし……。


「やはり無理です、嘘などつけません。それにそんな嘘すぐにばれますよ。だいたい殴られた痕はどうするんですか……!?」


 デリックは首を大きく横に振る。

 だがエヴァンは、「痕など筆で描いておけ」――と言い捨てて、階段を上り始めていた。


「ちょ……お待ちください! こんなこと旦那様に知れたら、貴方だってただではすまないんですよ!?」


 デリックは階段下から声を張り上げる。けれどエヴァンは聞かない。


「罰なら受ける。とにかく頼んだからな、デリック」


 それどころかこのように言い放ち、今度こそ二階へと姿を消してしまった。


「……そんな」


 後にはデリックだけが残される。



 そうしてエヴァンの気配がすっかり消え去ったころ――デリックは今度こそ深い深い溜息をついた。


 その表情は先程までの澄まし顔はどこへやら、舌打ちでもしそうな程のしかめッ面だ。


「……ったく。どうすんだよ、ほんとに。これだから貴族って奴は」


 全く面倒くさいことになった……と彼は一人呟きながら、どうすべきが最善か頭の中でそろばんを弾きだす。


 と言っても、答えなど一つしかない。当主リチャードの言う通り、エヴァンの行動を執事ヒューバートに報告すること。

 ――だが。


 デリックは、先ほどのエヴァンの態度がどうしても気になっていた。

 エヴァンはいつものように横柄極まりない態度だったが……けれどエヴァンは自分の名を呼んだのだ。はっきり“デリック”と。


 それだけではない。エヴァンはこうも言っていた。――“頼む”と。


 まさか名前を知ってくれていただけでも驚きものだが、貴族から頼みごとをされるなど到底信じられることではない。


 だからデリックは、自分に不利であると知りながらも、エヴァンの提案を受け入れてみたくなってしまった。



「……十五分か。どうすっかなぁ」


 ――その間に、誰にも気づかれなければいいんだけどな。


 デリックはそんな風に思いながら、どこか祈るような瞳で、エヴァンの背中の消えた先をもう一度見上げるのだった。

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