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8.彼こそは


「……え?」


 私の前に差し出される彼の右手……。

 その意味がわからず、私は一瞬固まった。けれどよくよく見れば、その手にはグレーのハンカチが握られている。


 つまり、これで拭けと言うことだろうか。

 チラと男の顔色を伺えば、彼は笑みを深くする。


「……ありがとう、ございます」


 私は一応お礼を述べて、そのハンカチを受け取った。

 そうして、気まずい思いをしながら目元を拭う。

 この男は私が〝雨に濡れた〟と言ったけれど、本当は私の泣き声を聞いていたのだろうなと考えながら……。


 その証拠に、彼はさきほどから私を見ない。

 彼は私と視線が合わないように、明後日の方向に顔を向けて空の様子を伺っている。


 ――綺麗な顔。


 この国ではなかなかお目にかからない漆黒の髪。それと同じ闇色の瞳。

 それはこの雨空と相まって、まるで景色の一部であるかのように美しくそこに佇んでいる。


 細くすっと通った鼻筋や、形のいい眉、薄い唇、白い肌――彼の纏った白いシャツと黒い燕尾服が、彼の魅力を一層際立たせていて……それはまるで彼自身が彫刻であるかのような……作り物のような気さえしてくる。

 そんな不思議な感覚に……私は彼の横顔に釘づけになった。


 そして同時に、とても不思議に思った。


 恋愛云々以前に、これだけ目立つ容姿なら一目見たら忘れられないはず。

 だが私はこの人を一度だって見たことがない。それは社交界に顔の効く兄も同じようだった。


 ファルマス伯爵の連れのようだが、この男は何者なのか。名の知れた貴族の子息であれば、私や兄が知らないはずがないのに……。


 そんなことを考えていると、ふいに彼と目線が合った。

 その黒い瞳が、いつの間にか私の方を向いている。


「私の顔に、何かついておりますか?」


 彼はくす、と笑ってほんの少し首を傾けた。


 そんな彼の仕草に、私はハッと我に返る。人の顔を見つめるなど淑女のすることではない。

 私は咄嗟に視線を反らす。


「……ハンカチ、ありがとうございました。助かりましたわ。あの……わたくし、アナベル・オールストンと申しますの。このハンカチ、洗ってお返ししたいので……お名前をお教えいただけませんか?」


 誤魔化すように、私は尋ねる。

 けれど彼は答えなかった。


 彼は考え込むような表情をしてから、「お気遣いなく」と微笑む。

 そして、「そのままで結構ですよ」と再び私の前に右手を差し出したのだ。


 それは少々強引な対応に見えた。

 普通は名乗られたら名乗り返すものなのに。

 だがそうしないということは、名前を知られたくない理由でもあるのだろう。ならば、これ以上尋ねるのは無粋というもの。


 私はそう考えて、そのままハンカチを返すことにした。すると渡す間際、ハンカチに刺繡されたイニシャルが目に入る。

 白糸で綺麗に刺繡された――“R”という文字が。


「……」


 ――R……? Rって……確か。


 脳裏に過る馬車の中でのエヴァンの言葉。それは、ファルマス伯爵の付き人の名前。


「……〝ルイス〟?」

「――っ」


 瞬間、私は呟いていた。ハンカチを受け取る彼の指先が微かに震える。

 私が顔を上げれば、彼は驚いたように瞳を揺らしていた。


「私を……ご存じだったのですか」

「――あ」


 ――しまった。


 私は赤面する。いつもならこのような失態、犯す筈がないのに……。急に名前を呼ぶなど、失礼にもほどがある。


「も……申し訳ありません。急に名前をお呼びするだなんて……レディ失格ですわね」

「いえ、構いませんよ。どうかお気になさらず」

「本当にごめんなさい。先ほど兄があなたのことを話していたのを思い出して……。ファルマス伯爵のお連れの方だと……」


 真実を言えば、名前はエヴァンから聞いたのだけど……。それに、連れと言っても彼はウィリアムの付き人……つまり、高位の貴族ではないことも知ってしまっているのだけれど――。

 だが、それは今ここで話すことではない。


 それにきっと、目の前の彼もそれには触れられたくない筈。先ほど彼が名乗ろうとしなかったのは、身分を知られたくないと考えたからだろうから……。


「……そうですか。私のことを存じてくださっているとは、大変光栄です。でしたら私のことは〝ルイス〟とお呼びください」


 言うや否や、ルイスが私に一歩近づく。


 その整った顔立ちに、穏やかな、柔らかな笑みを称えて。

 闇夜よりももっと暗い漆黒の双眼に不思議な光を宿らせて……ルイスはどういうわけか――先ほど私がしていたように――私の顔を凝視する。それは私の心の奥深くを……覗き込むように。


「お手を、レディ。ここは冷えます。中に入りましょう」


 そう言って、私の前に再び右手を差し出すルイス。

 そんな彼の笑みに気圧され、私は思わず頷くのだった。

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