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7.雨降りしきる春の宵


 私は焦っていた。正直なところ、さすがのエヴァンもここまで非常識な行動を起こすことはないだろうと思っていたから……。


 彼は貴族だ。それも伯爵家の長男で、跡取りという重要な立場にいる。

 跡取り――それはつまり、家と財産、領地や領民たち――その全てにおいて責任を持つということを意味する。

 そんな彼は、当然ながら幼少期の頃からそういう教育を受けてきたし、家をしょって立つに相応しい教養を身に着けてきた……そのはずなのに。


 誰が見たって、先ほどのエヴァンの様子はおかしかった。

 いつもだって彼は不愛想だけれど、私の記憶上これほど無作法だったことはないし、あんなに感情を露わにしたことはもっとない。

 いくらプライベートでは少々アレだろうと、彼だってちゃんと公私を使い分けているのだから。


 でも今日のエヴァンは違った。

 彼がファルマス伯爵に取った先ほどの態度。それは貴族としても紳士としても、明らかに目に余るものだった。礼儀も、作法も、それら全てを忘れてしまったかのように、彼はただ自分の感情を優先していた。


 今まで一度だって見たことないような顔で、聞いたことのないような声で……。それほどまでに、彼は心を乱していると……そう思わずにいられないほど。



「エヴァン、待って……!」


 私がエヴァンに追いついたときには、彼は既に玄関の先、ロータリーの屋根の下にいた。

 彼は屋敷の使用人に馬車を呼ぶよう指示をして、降りしきる雨に霞んだ景色の――ずっと遠くを見つめていた。

 

「ねぇ、エヴァン」


 私はそんなエヴァンにゆっくりと近づき、再び声をかける。

 するとエヴァンはようやく私に気付いたという風に、こちらを一瞥(いちべつ)した。けれどまた、視線を戻す。どこか遠くの景色へと――。


 その横顔には、焦りとも怒りとも……あるいは不安とも取れる色が浮かんでいた。それは通常の兄と妹という関係であれば決して抱くことのない感情に思える。


 少なくとも、私は兄に対してこんな感情は抱かない。兄だってそうだろう。――それだけは、断言できる。


「本当に……帰るのね」


 私はエヴァンの横顔を見つめ、尋ねる。いや、尋ねると言うよりは、確認に近い言い方だった。


 だって私にはわかっているから。

 ここで私が何と言おうと、彼の決心は変わらない。ファルマス伯爵との話を中断し、夜会を途中退席した時点で、彼の心は決まってしまっているのだろうから。


 アメリア様に心を通わせる男性がいるかもしれない……その真偽が、気になってどうしようもないのだと……。


 その証拠に、エヴァンは答える。囁くような声で「ああ」と、ただ一言だけ。


「……ねぇ、エヴァン」


 ――私は知っている。

 私の言葉は、きっとエヴァンに届かない。こうなってしまったエヴァンは、もう誰にも止められない。


 エヴァンが「帰る」と言ったなら、彼はもう「帰る」のだ。だから、今ここで私に出来ることはなにもない。


 けれど……わかっていても、いや、わかっているからこそ、黙っているわけにはいかないときもある。言ったら後悔すると、確信しているとしても……。


 だって……だって私は、エヴァンの婚約者なのだから――。


「エヴァン……」


 私は意を決して、エヴァンの手のひらをそっと両手で包み込んだ。


「あなたは、アメリア様とどうなりたいの?」

「……何?」


 私が尋ねると、彼はようやくまともな反応を見せる。

 エヴァンはゆっくりとこちらを振り向き――悩まし気に眉根を寄せた。


「あなたとアメリア様は実の兄妹なのよ。……あなたのしようとしていることは、まるで……まるで、アメリア様を一人の女性として見ているみたいだわ」

「……っ」


 ――瞬間、大きく見開かれるエヴァンの瞳。それは彼自身も気付いていなかった感情に、気付いてしまったとでも言うかのように……。


「答えて、エヴァン。……あなたはアメリア様を――」


 どうか否定して欲しい。そう願いながら、私はそれでも言葉を止めない。


「一人の女性として、愛してしまっているの?」


 聞きたくない、知りたくない。けれどこのままではいられない。エヴァンの気持ちを、彼の本当の心を、尋ねずにはいられない。


 長く続く沈黙の中――雨音だけが耳の奥に大きく響く。張り裂けんばかりの鼓動の音と共に。

 指先が震える。春だと言うのに、空気がひんやりと冷たくて……沈黙が、痛くて……。


 それでも私は、エヴァンの手を放さなかった。彼の瞳から決して視線を反らさなかった。

 私はただじっとエヴァンを見つめ、彼の答えを待ち続ける。


「……アナ」


 エヴァンの瞳が揺らめく。

 躊躇いがちに、唇を薄く開く。


 そうして彼の喉の奥から絞り出された言葉――それは、必死の思いで取り繕った彼の優しい嘘だった。


「君も冗談を言うのだな」


 ――瞬間、私は確信した。悟らざるを得なかった。


 ああ、間違いない。彼は……彼はアメリア様を愛しているのだ。妹としてではなく、一人の女性として、愛してしまっているのだ。


 だって、エヴァンは嘘がつけないのだから。もしも彼が妹としてアメリア様を想っているのだとしたら、はっきり「違う」と、そう言えるはずなのだから。


 でも彼は否定しなかった。かと言って立場上、肯定するわけにもいかなかった。


 普段は人の気持ちに鈍感なエヴァンが……変なところで、勘のいい……。


「…………」


 結局、私はそれ以上なにも言うことができなかった。

「愛しているのは君一人だ」などという調子のいい嘘一つ吐くことのできないエヴァンの不器用な優しさに、私は口をつぐむしかなかった。


 ――私は、俯く。

 これ以上は、限界だ。


「……行って、エヴァン」


 ――彼の馬車が停まる。エヴァンの……私たちが乗ってきた、サウスウェル家の馬車が……。


「早く行って、エヴァン」


 私は必死の思いで繰り返す。

 今にも溢れてしまいそうな涙を堪えて。エヴァンを困らせないように……。


 ――ああ、本当は行ってほしくない。ここに居てほしい。帰らないで、置いていかないでとすがりつきたい。

 でも受け入れてもらえないのは目に見えている。

 エヴァンは一度決めたことを曲げたりしないから。今までもずっとそうだった。だから絶対に言わない。

 自分がみじめになるだけだから。


「……アナ」


 エヴァンが私の名前を呟いた。その声に滲む、かすかな悲哀。

 それが、切ないと同時に嬉しかった。彼が今、少しでも私のことで悩んでくれているなら……それも悪くないと思った。


「すまない。この詫びは、次回必ず」

「いいのよ。お詫びだなんて……」


 私はエヴァンの手を放す。

 一歩後ずさり、無理やり笑顔を取り繕った。


「わたしはお兄様の馬車に乗せてもらうから、心配しなくていいわ」

「すまない。サムにも謝っておいてくれ」

「ええ。それでもあなたがお兄様から責められることに、変わりはないでしょうけどね」

「それは覚悟しておく」


 ――こうして、私はエヴァンを見送った。


 馬車に乗り込むエヴァンの背中を、意地と虚勢で笑みすら浮かべ。

 私を乗せてきた馬車が、私を乗せずに去っていくのを……雨の霞の向こうへ、エヴァンの馬車が消えるのを……ただ一人見送った。



 そうして、馬車の姿が完全に闇に消えるのを待ってから、私はゆっくりと闇夜を見上げる。


 そこには星も月もない雨空が広がり、無数の雨粒を降らせている。

 それは傷ついた私の心を映し出しているかのように……、私の心を、慰めるかのように……。


「……頑張ったわよね……私」


 ――ああ、この雨ならば、私の声は聞こえまい。誰にも、この涙を見られまい。――誰にも、誰にも……。


「……っ」


 瞬間、関を切ったように溢れ出す涙。辛くて――惨めで、情けなくて……。


 エヴァンの気持ちなんて最初からわかっていたはずなのに、それでも構わないと、仕方のないことなんだと自分に言い聞かせていたはずなのに……。婚約者という立場でいられるだけで、十分だと思っていたはずだったのに……。


 ――愛されなくても、彼の隣にいられるだけ、それだけで満足だと……そう、思っていたはずだったのに……。


「……エヴァン、――私」


 今、初めて気が付いた。

 私はエヴァンに愛されたいのだ。私一人だけを見て欲しいと願っているのだ。私一人に、彼の眼差しを注いでもらいたいのだと……。


 ああ、だけどきっとそれは叶わない。たとえアメリア様が他の男性と幸せになろうとも、エヴァンの気持ちは変わらない。


 それなら私は、いったいどうしたらいいのだろう。


 私は涙しながら、自分自身を抱きしめる。

 そうでもしなければ立っていられなくて……。今にも、うずくまってしまいそうになって……。



 けれど――そんなときだった。

 誰も居なかったはずの背後から、急に声がかけられたのは――。



「失礼、レディ。何かお困りごとですか?」

「……っ!」


 それはあまりにも突然すぎて――私は涙を拭く暇もなく、咄嗟に背後を振り向いた。

 するとそこには、燕尾服をまとった見慣れない紳士の姿がある。


 刹那、私の脳裏によぎる兄の言葉。それはこの屋敷に着いてすぐに聞かされた、ファルマス伯爵の連れの話。


 ああ、間違いない。この男だ。――私は確信する。

 髪と瞳が黒い……この男が、伯爵の連れなのだ。


「……おや。これはいけませんね。雨に濡れてしまわれたのですか」


 男は驚いたように、一瞬瞼を震わせる。

 そして女性と見まごうほどに美しく微笑むと、私の前にゆっくりと手を差し出した。


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