プロローグ(前編)
オールストン伯爵家の令嬢アナベルのもとに、婚約者のエヴァンが駆け込んで来たのはまだ早朝のことだった。
「力を貸してくれ、アナ! 婚約を破断にするためにはどうしたらいい!」
「――はい?」
そのときアナベルは、朝食を取るため侍女クレアと共に自室を出るところだった。
だが丁度そのときノックもなしに突然扉が開いたかと思うと、そこには婚約者であるエヴァンが立っていて唐突にそう告げられたのである。
「破断、ですって……?」
その内容はあまりに突然すぎるもので、いつもは冷静なアナベルもさすがに驚かずにはいられなかった。思わず淑女の微笑みを崩しかけたほどである。
――“婚約を破断”にしたい? 聞き間違い……ではないわね。
アナベルの前に立つエヴァンは、侍女のクレア以上に蒼白な顔色である。それを目の当たりにしたアナベルは、エヴァンの言葉が決して聞き間違いではないことを悟った。
「ええっと……エヴァン? 全然話が見えないのだけれど……」
エヴァンは、それこそ自分やクレア以上に狼狽しているように見える。
それはアナベルからすればよくよく見慣れたエヴァンの姿であったが、けれどいつもと違うのは、ここに自分以外の人間――つまり侍女クレアがいることだった。
単刀直入に言って、普段のエヴァンは横柄である。
気の置けない者以外の前では愛想笑いの一つもしない。当然使用人とは必要最低限の会話すらせず、目を合わせることもない。貴族相手であろうと口数は少なく、日常的な会話が成立するかも怪しいレベルだ。
だからアナベルは、そんなエヴァンが侍女クレアのいる前で狼狽えている姿に酷く違和感を覚えた。
「ああ、アナ! 俺はいったいどうしたら……」
今にも頭を抱えてうずくまってしまいそうなエヴァンを、アナベルは不可解な目で見つめる。
――そもそも、二人の婚約が成立してもう何年も経つ。それなのに今さら婚約を破断にしたいなどとおかしいではないか。
そう考えた彼女は、ひとまずエヴァンをなだめることにした。
「エヴァン、大丈夫だから落ち着いて。とにかく深呼吸しましょう」
「深呼吸だと!? そんなことをしている場合か!」
アナベルはエヴァンをなだめるが、エヴァンは苛立ちを抑えきれない様子でアナベルの両肩を強く掴む。
その痛みに、彼女は思わず顔をしかめた。
「ちょっと、痛いわ。それに大きな声を出すのもやめて。ここにはクレアもいるのよ。扉も開けっ放しで、外に聞こえるわ」
アナベルが言えば、エヴァンはようやくクレアの存在に気付いたようだ。
驚いたように目を見開いて、罰が悪そうに視線を泳がせる。
「とにかく座って」
「あ……ああ。……そうだな。悪かった」
アナベルはようやく大人しくなったエヴァンを招き入れ、ソファに座らせる。
それにしても、“悪かった”などと、普段の彼ならなかなか言わない言葉だ。やはり余程のことがあったのか。
昨夜共に参加した夜会では、何らおかしな様子はなかったというのに……。
アナベルは昨夜の夜会でのエヴァンの様子を思い起こしながら、ソファの反対側に腰かける。
そうして、平静を装って声をかけた。
「エヴァン、あなた朝食まだでしょう?」
尋ねれば、エヴァンは再び驚いたような顔をした。
朝食を取るのをすっかり忘れていた、という顔だ。
「ちょうどいいわ、一緒に食べましょう。わたくしもまだだから」
「……すまない」
「いいのよ」
アナベルは困ったように微笑んで、クレアに朝食を二人分部屋に運ぶように指示をする。もちろん、先ほどのエヴァンの言葉は決して他言無用だと言い付けて。
「それで、エヴァン。急にどうしたのよ。婚約を破断にしたいって、いったいどういうこと?」
クレアの背中を見送ってから、アナベルは改めてそう尋ねた。
するとエヴァンは、いつもならセットされている筈の長い前髪を無造作に掻き上げる。そうして、深い深いため息をついた。
エヴァンの美しい青い瞳が切なげに揺らめく。
肩にかかりそうな長さの金糸のような眩い髪が、窓から注ぎ込む朝日に煌めいて――こんな状況にも関わらず――アナベルは思わずその姿に見惚れそうになった。
赤毛の自分とエヴァンの金色の髪を比べると、わずかばかりの劣等感を感じてしまう。
が、人間見た目が全てではない。エヴァンの容姿は美しいが、性格を考えれば自分と相応――いや、おつりがくるほどではないだろうか。
――はあ。エヴァンったら、こうやって黙っていれば素敵なのに。
アナベルは不謹慎にもそんなことを考えながら、エヴァンの言葉の続きを待った。
少しの沈黙の後、重苦しく口を開けるエヴァン。
「アナ、君の知恵を貸してくれ。どうにかしてアメリアの婚約を破断にしたいんだ」
「……はい?」
――アメリア様……?
「わたくしとあなたの婚約ではなく?」
アナベルが困惑ぎみに尋ねれば、エヴァンは「何を言っている?」と心底不思議そうに首を傾げる。
「なぜ俺たちが婚約を解消せねばならない?」
「~~っ」
――全く、この人ったら……!
アナベルはエヴァンの頬をひっぱたきたい衝動に襲われた。
エヴァンの言葉足らずのせいで無駄に精神力を消耗したではないか。――そう文句を言いたくなったが、それでも彼女は何とか平静を装い、顔に笑みを張り付ける。
「念の為お尋ねしますが……アメリア様とは、あなたの妹君のことで間違いありませんかしら?」
「決まってるだろう。他に誰がいる」
「そう……ですわよね。って――え? 彼女、婚約なさったんですの?」
「だからそう言っているだろう。何度も言わせるな」
アメリアとはエヴァンと五つ歳の離れた彼の妹のことである。
エヴァンは今年で二十三。だから妹のアメリアは今年で十八になる筈だ。ちなみにアナベルはエヴァンの三つ下で、今年二十歳になる。
――にしても彼女が婚約などと、アナベルにはにわかには信じがたいことだった。が、エヴァンがそう言うのならそうなのだろう。
アナベルは話を進めることにする。
「どうしてせっかく成立した婚約を解消させたいなどとお考えに?」
「そんなもの、本人の望まぬ婚約だからに決まっている」
「ご本人がそう申されたのですか?」
「そうだ」
「本当に?」
「ああ」
「本当の本当の本当に?」
「しつこいぞ!」
「まぁ、ムキになるところが怪しいですわね。わたくしに嘘は通じませんわよ?」
「嘘なわけあるか! あいつは確かにこう言っていた! 〝自分は誰とも結婚する気はない〟とな!」
――誰とも結婚するつもりがない?
はっきりと言い切ったエヴァンの言葉に、アナベルは考え込んだ。なぜなら貴族令嬢で未婚となると、その先は修道女になるくらいしか道はないからだ。
――アメリア様は何者になるおつもりなのかしら……。
気にはなるが、しかし今重要なのはそこではない。
アナベルは気を取り直してエヴァンに向き直る。
「それで、お相手はいったいどこのどなたなのです?」
まずは相手を知らなければ始まらない。そう思った彼女が尋ねると、エヴァンは再び顔色を悪くした。そうして、まるでこの世の終わりとでも言うかのように膝の上で頭を抱えてしまう。
「え……。そんなに良くない相手なの?」
――答えられないほどに?
アナベルは更に質問を重ねようと口を開けた。けれど、それより先にエヴァンが呟く。
「……逆……なんだ」
「え、逆?」
「ああ。悪いんじゃない、良すぎるんだ。……相手はウィンチェスター侯爵家の……ファルマス伯爵なのだからな」
「――っ」
瞬間、アナベルは絶句した。
ウィンチェスター侯爵家と言えば、数ある侯爵家の中でも名家中の名家である。この国の建国にも関わったと言われる程古い歴史があり、ここ数十年はもっぱらノブレスオブリージュを全うするため福祉事業に力を入れていると言う。
それに問題は家柄だけではない。相手があのファルマス伯爵だと言うことだ。
ファルマス伯爵――ウィリアム・セシルは今現在、年頃の娘たちの結婚したい男ナンバーワンの貴公子なのである。