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間の山奇譚  作者: 葦原観月
1/1

拐かし

ちょっと不思議な白猫に、庄助は命を救われます。新たに登場した総髪の男は何者か。目的は何か。素間がべた褒めする健介に、対抗心を抱く庄助ですが、ついに間の山に犠牲者が出てしまいます。

 (十八)


「背の骨が折れていませんか?」

「確かに」

「足の骨もどうやら」

「ふむ」

「着地に失敗したのでしょうね、もしかしたら内臓も……」

「かもしれません」


(そんなに酷いのか)


庄助は全身のだるさに思い至った。


 朦朧とした頭に比べ、耳だけは冴えている。死の際にある人にはひそひそ声が良く聞こえると語った、五度も死の際に立った経験のある、村長の話は信憑性が高い。


「何とか助けてあげられませんか」

 涙声は甲高い。まだ童か。


「無理です」

 とりつく島もない声はどこかで聞いた覚えがある。


「そんな……。可哀想です」童が泣き出した。見ず知らずの者に情けを掛けるとは、優しい子だ。


「泣くことはありません。放っておけば治ります。それはそういう生き物なんです」


 あんまりだ。穢人とは言え人は人、ましてや死に瀕した相手をそれ呼ばわりとは酷すぎはせんか。


「これがですか?」涙声の童が応じる。これ……何だか悲しくなる。


「さて、できました」ことり。と音がして衣擦れが香った。


 肩に激しい痛みを感じて目を剥いた。

「何するんや、こらっ、素間っ!」


 口から飛び出した声に勢いはなく、開いた目に映る文字は野間万金丹――。実に腹が立つ。


「兄様、痛がっておられます」

「良薬は口に苦し。何ごとも辛抱です、健介、よーく覚えておきなさい」


 何となく状況は読めた。庄助が飛んだのは素間の仕掛けらしい。

 背骨が折れていようが、内臓がどうなっていようが、それ、これと呼ばれようが――。

 素間の好きにさせるわけにはいかん。懸命に身を捩って、弱々しい声で知る限りの悪態をついた。


「煩い子だね。今は治療中だよ、静かにおし」


 口に押し込まれた布が苦い。野間万金丹の文字が視界から消えて、明々と燃える灯に黒く太い梁が目の前に見える。やけに低い天井だ。

「心配ありませんよ、大きな怪我はありません。ちょっと兄様の手違いで獣坂の亀裂に落ちてしまったんです」

「余計なこと言わなくて良いよ。あたしにだって失敗はあるんだ。だが間の山の人気若衆が、穴に落ちたくらいで気絶するたぁ情けない」

 にっ、と笑った素間は、これ見よがしに毒々しい液体を庄助の目の前に突きつける。

「やめろっ!」声を絞った庄助に、「煩いっ、ここは隠れ家なんだ、静かにおしっ」

素間の扇が庄助の脳天を突いた。

 

     *


「初めまして、庄助さん。わて健介言います」

 ぺこり、と頭を下げる童は六つばかり。にこにこと愛想の良い男の子だ。


「どうだい、あたしの庄助はなかなかだろう」「はい。兄様」「まぁ、ちょっと役立たずだけど」素間は余計な口を叩きつつ、異臭のする液体を庄助に塗りたくる。ひりひりと痛む傷に顔を顰め、それでも、庄助はぐっと口を閉ざした。


「そうそう。ここでは静かに。お師匠さんの弟子は、あたしの知り合いばかりだからね。ここがばれたら――」

 ぎゅっ、と押しつけられた布にひときわの痛みを感じる。思わず「いっ」と声を上げて臭い手拭いが口を覆った。

「健介、それ、お杉のそそうを拭いたやつだよ」「あっ、すみません」踏んだり蹴ったりだ。


「どうだい、少しは後悔したかい」座り直した素間がにこりと笑う。

 素間の文はただの脅しではなかった。やむなく「悪かったよ」と口を尖らせれば、「心がこもってないっ!」と扇が肩に飛ぶ。何のための治療か。


 ここは親爺様の妾宅。野間家秘蔵の万金丹試作のための床下部屋だと素間は言う。 

 野間家秘蔵の万金丹――。引っかかりを感じつつ、見渡せば狭い部屋の中、得体の知れんものがごろごろと転がっている。袋からはみ出した、干からびた手のような物体に、庄助は慌てて目を逸らせた。くたり、と転がった白い物に目が留まる。


「お杉だよ。お前の着物に針を引っかけたのさ。だけど印地打ちに背骨を折られちまった。凄腕だね、あいつ。落下したお杉は着地に失敗したんだ。猫も木から落ちるんだから、あたしにも失敗があって不思議じゃない」


 何故にお杉がと思いはするが、命の恩人には胸が熱くなる。

「お杉っ」飛び起きた庄助は、力無く横たわる白い体に涙が滲んだ。健介の涙の原因は、お杉だったらしい。

 医者の端くれなら何とかしたれと小声で噛みつく庄助に、猫は対象外だと素間はしれっ、と言い返す。

 あたしの医学は、よりよい万金丹作りのためにある、銭を持たん猫は万金丹を買ってはくれんと素間は鼻を鳴らした。素間は銭が好きだ。

ならばわてが払うと勢いを付けた庄助に、素間は「ほぅ」と目を細めた。


「お前が猫好きとは知りませんでした」


いいでしょうと笑んだ素間は、何やら言いたげな健介を目で窘めた。

「お前の布団で手を打ちます」

即座に頷いた庄助に健介が、「あ」と口を開ける。

瀕死のお杉を案じる優しい健介に、「ありがとう」の言葉を予想した庄助だが、

「商談成立。健介、お前が証人だ」じろり、と健介を睨んだ素間に健介が口を閉じた。素間はすかさずお杉に手を伸ばす。


 真剣な面持ちでお杉の背を撫で、腹をさすった素間は、「ふーむ」と思案げに腕を組んだ「治るのかっ」身を乗り出した庄助に、素間はぱこん、とお杉を叩く。

フニッ!

 不機嫌な声を上げたお杉が目を開いて、「お杉っ」飛びついた庄助にお杉はふんっ、と鼻を鳴らして背を向ける。

「さて。お杉も起きたところで、大事な話をしようじゃないか。健介、お杉の食い残し、持って来ておやり」

 しれっ、と言い放った素間に庄助の口があんぐりと開いて、すまなそうに頭を下げた健介に、素間がにやりと笑った。


     (十九)


「はざま屋で印地打ちに会うとはまた、縁があるねぇ」


 庄助の話を聞き終えた素間は感慨深げだ。


 そんないいものじゃない、危うく死ぬところだったといきり立つ庄助に、死ななかったじゃないかと素間は茶を啜る。


「あたしのおかげだ」

 常の得意げな様子はなく、咎めるような目に庄助は眉を寄せた。

 思えば何故に素間は庄助の危険を察したか。刃物を突きつけた男は、明らかに庄助に殺意を抱いていた。

(嵌められたのはわてのほうか)

餌にされた過去を思い出す。


 猫の忠義など聞いた例はない。折れた骨を自分で治す生き物なぞいるはずもない。目を向けた健介はしゅんと肩を落としている。賢く良く出来た童は、本宅の若旦那(すま)には逆らえんのだ。

(騙されとんのや)

 庄助だけならいざ知らず。いたいけな童まで巻き込むとはなんたる非道。「この野郎」と、いきり立つ庄助に、

「わからないのかい? お前はまったく猫より頭が悪い」

 肩を竦めた素間にお杉がぴくり、と耳を立て、みゃあと抗議の声を上げる。

「あたしは件の中間を探れと言ったんだ。お勝やお舟なんかより頼める者が他にいたろ。お前を捨てた茂吉とかさ。あれは見習い目付衆だよ。新参の御師邸には詳しいはずだ」

 言われてみれば。

「お前が茂吉の幸せそうな顔を見たくない気持ちはわかるよ。何せ誓いの杯まで交わした仲だからね」

 ぱっ、と顔を上げた健介の目が、零れ落ちそうなほどに見開かれる。

「酷い男だよ。このあたしを差し置いて。いいかい健介、人を裏切れば必ずしっぺ返しがくる。よーく覚えておおき」


 神妙に頷く健介に不安を感じた庄助は、茂吉に未練などない、そもそもお前のせいで面倒な話になったんだと捲し立て、何でも人のせいにするのはよくない大人だと健介に言い聞かせる素間に口を噤んだ。何だか墓穴を掘っている気がする。

「あたしゃ女に追われて身を隠すような野暮天じゃない」庄助の仕掛けに便乗したと素間は言う。

「追尾に気がついたのは、牛谷の神隠しに関わり始めた頃だ」

 これは何かあると踏んだ素間は、さてどうするかと思案中、巷の噂を耳にした。

「お前の悪戯とは端から承知だ」

 色恋沙汰に身を隠すような男に警戒は不要。これはいい目くらましになると隠れ家に身を潜めた素間だが、万が一を思って本家と出店には目を光らせていた。


「そこへあたしの色子がのこのことやってくれば、相手が訝って当然だ。こらぁまずいかなとも思ったが……せっかくだからちょっと様子を見ることにした」


 やっぱり餌かと庄助は項垂れる。健介の持ってきた食い残しにお杉が食らいついた。

「牛谷の神隠しに問題は残るが、今は拝田が先だ。あたしゃそれをお前に伝えたつもりだったが。健介、大事を前に小事に拘るようでは駄目だ。二兎を追う者は一兎も得ず。よーく、覚えておきなさい。本日の教授はここまで。そろそろ手習いの時間だ。行きなさい」

 有り難うございましたと、素間に手を付いた健介は、庄助に向きなおって丁寧に頭を下げた。良くできた童だ。

「お杉も連れてっとくれ。猫は閉じ込められるのが嫌いだから」

 かたり、と外した天井板に身を押し込んだ健介は、すぐさま上から手を差し出した。屋敷の押し入れが隠れ家の入口らしい。

不安げな顔でお杉を受け取る健介に、

「平気だよ、そういう生き物だといったろ?」

 素間は魂消るほど優しい笑顔を健介に向けた。

  

   *


「良い子だろう?」素間の言葉に異論はない。

 御師の蔓延る伊勢での商いは生半可な者には務まらん。素直なうちに一通りの知恵は授けておかねばならん。

「すぐに人の話を聞かなくなるからね」

と、ねめつけられて庄助はそっぽを向いた。


 健介は商人になるのかと問う庄助に、「親爺様の子だ、野間家の跡取りに決まってるだろ」素間は当然だとばかりに顎を引く。庄助は目を剥いた。

 旦那様という柄じゃない。狐の子は大店の主には向かないと、目配せする素間に庄助は目を泳がせる。


「あたしの話はいい。問題は拝田の神隠しだ」


 牛谷の神隠しは牛谷村内部での話。拝田にまでとばっちりがくるとは考えられん。よって拝田の神隠しは別件と見るのが正しい。あたかも牛谷の神隠しの続きのように見せかけた拝田の神隠しにはきっと裏がある。きっかけとなるような異変はなかったかと素間は考えた。


「お前の躾直しがあった」顎を撫でた素間に庄助は胸焼けを覚えた。

 誰のせいだと噛みつく庄助に、

「お前の恋の始まりだったのにねぇ、残念なこった」と素間はしつこい。

苦虫を噛み潰す思いの庄助に、「太兵だよ」素間は呟いた。

「いくら銭に困ったとはいえ、親孝行の太兵が掟破りとは合点がいかん。そこでお前に太兵の行く先を調べさせようとしたんだが、お前はまるで役立たず」

 太兵の夜遊びが大事の元に関わっていたか。思えば役立たずの言葉が身に染みる。


「まぁ。お前ばかりを責められんが。牛谷の神隠しに、拘り過ぎたのがしくじりのはじまりだ。それがあっちの手だったとしたら見事に嵌められたわけだ」

 素間を嵌めるとは敵ながら天晴れだ。

「だけどあたしはお前とは違う。太兵に言い寄る件の中間にぴん、ときたのさ。ありゃあただのお稚児趣味じゃない。奴は太兵と何らかの関わりを持ってるに違いない」

 小粒を握らせる大人、押し返す童の姿はまぁ、間の山では稀に見る光景ではあるが……。

「太兵と中間の関わりはまだわからん。奴が神隠しに関わっている証拠もまだだ。だが奴があたしの話を聞き回っているとの情報は掴んだ。そらぁ人気者のあたしだから、新参者が気にするのは当然だ。けどあたしに挨拶がないってぇのが気にかかる」

 こそこそと嗅ぎ回るのはやましいところがあるからだ。


「奴は現れなかったんだね?」素間の言葉に庄助は頷いた。一度見れば忘れん顔だ。庄助が見たのは印地打ちの誠二郎と総髪の男。

「ふぅん、誠二郎か。然るべき主にお仕えしてたくせに女郎屋の用心棒かい。何か失態でもしでかしたかね」肩を竦める素間に、「たかが左平の推測や」と庄助は付け加えた。

「失礼をお言いでない!」素間の扇が庄助の脳天を叩いた。

「左平の人読みは当人よりも当人を語る身上書だ」左平の人読みには定評があるらしい。


 古市で左平の人読みを知らぬ者はいない。左平と親しげに話す庄助に不安を感じた誠二郎が口封じを考えても不思議じゃないと、素間は腕を組んだ。

 出自を隠す誠二郎はやはり、神隠しの相方か。だが……。

「ふむ。誠二郎は左平と話し込むお杉を男と知って人違いと判じたか。だが今一人の男はお前を生かしてはおけんと言う。二人のやりとりには違和感があるね。人攫いの片割れにしちゃあ誠二郎には悪人らしさがないし」

「うーん」と唸る素間はさておき、しょんべんをしなければ、背骨を折られたのは庄助だったかもしれんと思えばぞっとする。

「だが、出自を隠す者には何かしらの非があるもんだ。相方がいかがわしければ、誠二郎も同じ。庄助」

 ぱちん、と扇を畳んだ素間が顔を寄せた。

「今ひとりの男。総髪だったと言ったね、医者かもしれん」ひときわ声を潜めた素間に庄助は違和感を覚えた。「何でや」と返した庄助に、「難なくお前を捕らえる相手は、ただ者とは思えん」答えず素間はぽそりと呟く。

「爺だったかい?」「いや。総髪は黒かった。手は節くれ立って――」

 不意に素間が視線を上げた。同じく天井を見上げた庄助が腰を落とす。手探りで掴んだ得物は小さなへら。素間は茶筅を手に身構えている。

(こんなんでええか?)

思いつつもかたり、と開いた天井に緊張が走った。

 飛び降りた影に素間が口の端を上げる。

「おいてけぼりですか? だったら鶴太郎伯父さんに背負ってもらって……」

 穏やかな素間の物言いに、

「大変です、拝田村の大事だと、御師が庄助さんを捜しています」

 息を切らせた健介が、くたりと膝をついた。

    

 (二十)


 松右衛門はどこにいても目立つ。

 当人にその意識はないが、太鼓のように迫り出た腹と、柔らかな孤を描く団栗眼は福神を思い起こさせる。

 柔らかな西国言葉がその容姿と相まって、まったりとした雰囲気はまさに絵に描いたようなお伊勢さん。松右衛門は常に殿原番付の上位にいる。


「松右衛門さんっ!」駆けだした庄助はでっかい〝せぎょう〟の幟に視界を失った。

 血走った目に〝せぎょう〟のハチマキの一行は、砂埃を上げて突き進む。白くけぶったおはらい町は異様な雰囲気に包まれている。道を挟んだ向こうから福神が庄助を手招いた。

「探しましたがな。どこにていはりましたん」のんびりと笑う松右衛門の手に縋り、庄助は「母ちゃんはっ」と息を切らす。素間の隠れ家から一目散に駆けた庄助は、ひと言がやっとだ。

「どこぞの藩士ですやろな。何や知らんが大仰な。〝忠臣蔵〟のつもりですやろか。お武家さんは暇ですなぁ」遠ざかる〝忠臣蔵〟に目を眇め、松右衛門はほぅと息を吐いた。

「忠臣蔵はええ。わての母ちゃんや。松右衛門さん、母ちゃんがどないしたんやっ」

 健介の母親に、間の山の庄助の行方を尋ねたふくふくしたお伊勢さんとは、松右衛門以外に考えられん。

「心配せんでええです」

 ほっこりと笑ったお伊勢さんは、お美衣さんには借りがあります、親様(春木大夫)の知人宅に匿うてますんやと大きな背を向けた。


土産物が並ぶ店の路地を曲がり格子戸を潜る。こじんまりとした屋敷は、伊勢の町に多い妾宅に似ている。

「会合に使われますんや。御師と神職の繋ぎの場とでも言いましょうか」

巫女様には馴染みの場所ですと松右衛門は襖の前に膝をつく。

 庄助さん、来はりましたよと声を掛け、すっ、と開けた襖の向こうに五十鈴川の清流が広がった。障子を開け放った出張りに身を乗り出した影が振り向いた。


「庄助ぇ~」情けない声を上げた影が猫のように飛びつき、受け止めた庄助を酒の臭いが襲う。

「母ちゃんっ」顔を背けた庄助に、「母子、感動の再会ですなぁ」松右衛門は感無量。

「何しとんやっ。稽古はどうしたっ」噛みついた庄助に、

「お前こそ。どこ行ってたんだいっ。お呼ばれをすっぽかすたぁ、良い度胸じゃないか」

 母子の再会は感動どころではない。

「茂吉が引き受けてくれましたよって」松右衛門のとりなしも虚しく、「三度の飯は――」母は躾直しを言い渡す。

「松右衛門さん、ご一行様、移動されます」表からかかった声に母が目を向けた。

「亮平かい?」媚びを含んだ母の声に目をやれば、「へぇ」と応えた男は二枚目若衆。

 絡んだ二人の視線に庄助は頭を抱え、

「ほんならお美衣さん、もう拐かしに会わんように」松右衛門がとんでもない言葉を吐く。

『拐かしやってぇ?』重なった声に亮平と顔を見合わせ、ゆくゆく見ればどことなく。

「あぁ……。庄助が二人いる」

うっとりとした母の言葉に松右衛門が飛びついた。

「そう言えば……似てはりますなぁ」身を乗り出した松右衛門に、「お客さんは?」と庄助は遮って、「ほならお美衣さん、また」若衆が上目使いで会釈する。

「おおきに」と返した母の目は女。照れ笑いの亮平は見なかったことにする。

 ぱたり、と閉じた戸に、にじり寄った母は、

「ねぇ、庄助。あたし、魚臭くないかぇ?」

 くんくんと袖を臭って顔を顰めた。

 

     *


(ほんまに足挫いとんのやろな)

 賑わうおはらい町を、母を背負って庄助は急ぐ。   

「あたしゃ幸せだよぉ」

 庄助の背にぴたり、と体を押しつけ、耳許で囁く母は煩い。

「母ちゃん、静かに」

 若く美しい女を背負って歩く総髪の若者は、親孝行どころか不埒者。道行く人々が眉を寄せて囁き合う。ひやひやと母を窘める庄助を、

「これ、そこなる男」

先ほどのせぎょうハチマキの武士が引き留めた。

「大神様のお膝元であるぞ、恥知らずな行為は慎みなさい!」

「母が足を挫きました」庄助の弁明は、「嘘を申すな」とすぐさま却下され、「嫌だ、怖いよぅ」小娘のように身を縮めた母には目眩がする。騒ぎを聞きつけた目付衆のとりなしで無罪放免となった庄助だ。


 夜半まで童二人に稽古をつけた母は、泣き言を言い出した祐助に匙を投げた。芸人らしからぬ態度と、腹を立てた母の気持ちはわかる。

 だが、腹立ちが昂じて〝鮑が食いたくなった〟母は理解できん。

 漁師の女房は朝が早い。日が昇る前に勢田川の漁師長屋へ出向けば、獲れたての鮑が手に入ると、思い立ったら〝待て〟の利かぬ母は犬より始末に悪い。

「巫女様お一人で行かせるわけにはいきません」と、母に従った健気な太兵が、馬鹿な母のおかげで神隠しに遭うとは胸が痛む。

「あたしゃ被害者だからね、そこんとこきっちりと言っとくれ。酷い目に遭って、その上罰を受けるなんておかしいだろう。お前が頼みなんだよぅ、庄助ぇ」

「掟破りやぞ。ただで済むわけないやん」

「あたしゃ、一人で行くつもりだったんだ。勝手について来たのは太兵だよ」

 母は常に自分が中心だ。

「事実は事実や。こらぁ神隠しやなく拐かしやで」

「そらぁね、漁網で神隠しする神さんはいないだろ。漁ができたら人に供えさせやしないよ」


 人気のない漁師長屋を抜け、母は川に向かって歩いた。突然降ってきた網が母を捕らえた。わけもわからずもがく母に、網は絡まって埒が開かん。すぐ後ろにいたはずの太兵がいないと気が付いたのは、かなりもがいた後のことらしい。

「童を守ろうとは思わんかっ!」庄助の言葉に、

「お前の口からそんな言葉を聞くとは思わなかったよっ」母は眦を吊り上げる。母の頭には、己しかないのだと思い至る。

 網ごと引きずられた母は漁具小屋に押し込められた。

 漁から戻った漁師がすぐさま母に気付き、拝田に人をやろうとして、「松右衛門を呼んどくれ」とあいなった。借りを返してもらう絶好の機会と思ったらしい。


「お前は村長の信頼が厚いんだ。稽古を投げ出して逃げた太兵を追って、あたしは酷い目に遭ったってことにすりゃあ、あたしの面目が立つんだよ」

(逆やろっ)母を案じて従った太兵に、つくづく申し訳なく思う。

「なんや庄助さん、巫女さんと一緒に神隠しからお帰りかいな」

 黒門の牛谷衆に冷やかされ、やっとのことで拝田村に辿り着いた庄助は、ひょいと背から飛び降りた母に目を剥いた。


    (二十一)


「あとはよろしく」と駆け去った母はいったいどこを挫いたか。

肩を落とした庄助に、出迎えの穂高は容赦ない。

 額から血を流した庄助を迎えた村長は、「こらあかん」と穂高を呼び寄せて、怪我の確認に余念がない。

「穂高っ、庄助を突くとは何ごとやっ!」

 声を荒げつつ、穂高に頬刷りする村長には、我が身の価値を訝る庄助だ。

 何と言っても母は母。稽古が済んで村を抜け出した太兵を追って、母は漁網に捕まったと、母の体面を取り繕った内容に、

「太兵が掟破りを……ふぅむ」村長は思案げに顎を撫でた。胸が痛い庄助を、毛繕いをしつつ、穂高が鋭い目で睨んだ。


「ちぃと思い当たる節がある」


 村長は脇に置いた器に手を入れた。

「竹爺が、太兵を弟子にと言うてきた」

村長の言葉に、庄助は目を剥いた。

 素間が来るまで、拝田の医者として腕を振るった竹爺は、何でも捌く強者だ。

 素間が万金丹を以て、治療に当たるようになって以来、拝田の医者の座を退いて久しい。

「無論、却下した」村長の判断は、もっともだ。

「一応、事情を尋ねてみたわけだが……」

 捌く癖がなければ、村で唯一、医者としての知識を持つ竹爺だ。治療について、あれこれ聞きに来る太兵は母思いの童。熱心な太兵に竹爺は知る限りの知識を与えた。

やりとりするうち、竹爺は、太兵に医学の知識がある事実に気がついた。そんな知識どこで手に入れたと聞けば、素間に、医学書を見せて貰ったという。


「医学書いうもんは、簡単に読み下せるもんやないと聞く。賢い太兵やが、自力で、医学書を読み下す力なんぞ、あるはずはない。つまりこうして」

 器から手を引き抜いた村長は、だらり、と伸びたミミズを口に咥えた。身を引いた庄助を一瞥し、穂高がミミズに食らいつく。

「口移しで、太兵に医学を説いた者がおる、いうこっちゃ」

 穂高の食いちぎった破片が、村長の顔を汚し、それを啄む穂高から、庄助は目を背けた。仲が良いのは結構だが、こんな行為は、人目のない場所でして欲しい。

「ほんなら。太兵は医学のために掟を破ったと?」吐き気を押さえつつ、庄助が訊ねれば、

「親孝行な太兵が、掟破りをする理由は他に考えられん」と、村長は、庄助から目を逸らせた。

穂高がしきりに器を突いて、餌を催促する。

「新鮮なミミズが好きでな。干からびたものには見向きもせん」

 だったら、村長は穂高の眼中に無いぞと、庄助は胸の内で悪態を吐く。

「人も同じやて、よう覚えとき」諭すような口調の村長は、

「若旦那はお前を可愛がってなぁ」懐かしむように目を細めた。

「お前も若旦那を慕ってなぁ」と遠い目をした村長は、ついに呆けたかと、庄助は息を呑んだ。

「泣きながら後を追ったな、わての玩具を返してくれ、と」

 素間の性悪は昔から。

「若旦那が帰るのを嫌がってなぁ。随分と駄々を捏ねたもんや」

 昔の素間には、慕うべき要素もあったか。

「母熊が来たらどないすんやと、子熊を抱える姿は、いたいけやった」

 死活問題やぞっ。

「まだあるぞ、聞きたいか?」

 庄助は、頭を振った。

「楽しい思い出は過去のもの。時は流れ、人は変わる」

 ちっとも楽しくない思い出は時の流れに押し込んで、遙か彼方に押しやりたい庄助だ。


「儂も若い頃は、飛ぶ鳥を落とす勢いで」と、続ける村長に、穂高がクッ、と突っ込みを入れる。

「すまん。飛ぶ鳥は落としたらいかんわなぁ」と、村長は器から鷲掴みにして、ミミズをとりだした。

「まぁつまりなんだ、贔屓とは飽きっぽいと……」言いにくそうな村長は、素間は太兵に心変わりしたと、言いたいらしい。

 蠢くミミズが穂高の口に消えていく。口を押さえた庄助に、村長は慈愛の目を向けた。

「泣くでない、お前は間の山一の若衆や」

茂吉に捨てられ、素間に飽きられ……。思わず気落ちする庄助は、(あかん、虫はわてを意気地無しにするわ)蠢くミミズから目を背けた。

 茂吉は、紫の君を捨てたのではなく、諦めたのだ。

 素間は、太兵の夜遊びを見張れと命じたのだ、夜遊びの相手ではない。

(素間が心変わりしたとすれば、太兵やのうて健介や。そらもう、えらい入れ込みようやったやないか……)

 ふと、健介の前で散々に庄助をこけ下ろした素間に、無性に腹が立った。


 やったろうやないか――。


 きっ、と顔を上げた庄助に村長はうんうん、と頷いた。

「お前には芸がある。若旦那(贔屓)を取られたくらいで嘆く必要はない」

 素間の心変わりは大きな誤解だが、誤解を解くには泰蔵のお目こぼしを語らねばならん。 わかりましたと頷いた庄助は、まずは太兵の行方を追いますと、力強く頷いた。


 お前には辛い仕事だ――。村長の呟きは聞かなかったことにする。


神隠しの大元を見逃したのは、庄助の落ち度。太兵の災難は、母の身勝手が原因だ。

(あの野郎、絶対に尻尾掴んだるっ)

 村長の肩から飛び立った、穂高の落とし物が、にやっと笑った、庄助の口の端を伝った。

 

    (二十二)


いささか外れがちな、母の箍を締め直してやらねばならんと、御座に向かう庄助は、行く手を阻む草に立ち止まった。母のいる御座は、すぐ目の前だ。

 春は草木が良く伸びる。にしても、だ。

(おねうのやつ。草引きを怠けとるな。昼寝三昧とは、良い度胸や)

 母の侍女おねうは、趣味と特技が昼寝という怠け者。常は侍女に口煩い母も、鮑に夢中で、侍女の怠慢に目がいかなかったらしい。


「あらぁ~ぼん、えらい早いお帰り。まだ支度できとりません。今しばしお待ちをー」

 御座の脇、鎮座する小屋の一つから、筵を捲くっておこうが顔を出す。御座の左右に建てられた小屋は、巫女に仕えるおねうとおこうの住屋だ。

「こらっ、おねう、怠慢も大概にせんか。母ちゃんが怒るぞっ。草引きはお前の仕事……」

 草を飛び越えた庄助の足が滑った。尻餅をついた下でぷちっ、と小さな音がする。おねうが、血相を変えて飛んでくる。

「何しはりますん!」体当たりを喰らって、庄助は吹っ飛んだ。したたかに背を打って、はらはらと薄紅が舞う。

「あら、もったいないっ」

 唸る庄助を跨いで、舞い散る桜を、衣に受け止めたのは、おこうだ。金糸をあしらった焦茶の衣は、母のお気に入りだ。焦げ茶に薄紅が色を添える。


「そうですんや、もったいない。死んでますやん。可哀想に……」

おねうは、庄助が尻餅をついた叢にしゃがみ込み、

「ほんまやわ。せっかく咲いた桜やのに」

おこうは衣に拾った、花びらに息を吐く。


(わての心配はせんかっ!)


 口を噛んだ庄助に、二人のお杉が膝をついた。

「ぼん、ちょっとへちゃけましたけど」

「宴の彩りにはちぃと少ないですけど」

『お美衣様が躾直しをと、仰います。今しばしお待ちくださいませ』

 ぴたりと声を揃えてにまっ、と笑った。

 

        *


「話はついたのかい? 随分と早いじゃないか」


 御座一面に広がる衣に、母はおこうの集めた桜の花びらを落としていく。真剣な面持ちの母が、庄助に向ける目はまだ、正気を保っている。だが母は、躾直しを言い出すほどに機嫌が悪い。癇癪が、母を凌駕するのは時間の問題だ。


 母をよく知る庄助は、母の不機嫌の元に察しが付く。(面倒くさいわ)

 大年増でありつつ、娘のごときの美貌を誇る母は、己を差し置いて、年端もいかぬ男童が連れ去られた事実が、気に食わん。

 恥を知られたくない母は、庄助に嘘を語らせたついでに、恥をもみ消そうとしている。

(なかったことにしよう思うたて、そうはいかん。拝田の危機を救うためや)

「母ちゃん、太兵が拐かされたんや。(かん)(なぎ)さんに言うてくれんか?」

 庄助の言葉に、母の手が止まった。僅かに怯む心を叱りつけ、庄助は言葉を続ける。

「間の山の芸人の子が何人いなくなろうが、三方会合は動かん。夕刻のお触れを違えたんやろと、逆にお叱りを受けるんが関の山や。けど、祓いの巫女が被害を受けた、と聞けば、神宮側が、見過ごさん。山田奉行所に、申し出るはずや」


 荒御魂を鎮める巫女に、万が一があれば一大事。巫女を危うい目に遭わせた不届き者には、手配が回る。役人が動けば、人攫いの足止めには、なる。伊勢を出られん庄助にはまず、攫われた童を、国内に留めるのが手始めだ。

「お前は簡単に言うけれど」母の声が、僅かに上ずって、庄助は身を固くする。

「神凪さんは特別なお人だ」

 宮司すらも一目を置くと聞く、神凪とは、謎の人物だ。誰も素顔を知らぬ神凪は、常に狐面を被っているらしい。

「けど。母ちゃんが、大事やと言えば会うやろ。祓いの巫女は、他におらんのやで」

 言えば母は止めていた手をふわり、と上げた。

「庄助、そっちの花びらをとっとくれ」穏やかな口調を取り戻した母に、庄助は安堵する。


 気位の高い女は、とにかく誇りを称えまくれ。


 素間の江戸談義、吉原の遊女落としの武勇伝は、嘘ではなかったらしい。

「祓いの巫女様は、荒御魂様をお慰めする高貴な巫女様や。漁網をかけるやなんて、不届き千万。罰当たるやん、そやからそこんとこをきっちり、神凪さんに言うてやなぁ……」

「庄助っ!」ぴしゃり、と叩きつけられた衣を腕に巻き付かせ、庄助は僅かに身を引いた。

 吊り上がった母の目に、ぬめりとした癇癪色が、顔を出す。母の細い肩が大きく上下した。

「お前は、あたしに恥を曝せと言うのかぇ?」

 ひた、と当てられた目に庄助の肝が縮んだ。だが、ここで怯めば躾直しにまっしぐら。

(母ちゃんが太兵に負けたんならよけい、わては健介に負けるわけにはいかん)

 妙な気合いが庄助を奮い立たせる。


「ええか、母ちゃん。祓いの巫女は誇り高き女や」

 母の癇癪色が、微かに揺らいだ。

「わては、三方会合や、山田奉行所で、誇り高き巫女様が証言するんはおかしいと思う」

 こくり、と母は頷いた。

「巫女様やで。伊勢を支える大事なお人や。その大事なお人に関わる事件には、特別なお人が、当たるべきや」

 掴んだ手を引き寄せ、庄助は母を胸に抱いた。ぴくりと身を縮めた母は、そのまま庄助の胸に身体を預けた。

「わかってくれ。やらねばならん大事がある。大神様はお見通し。拝田の危機を救うにゃあ、お前さんの力が必要なんだ。心配はいらねぇ。神凪さんは特別なお人だ。お前さんの恥を、世に吹聴する輩とはわけが違う。おれを信じて言う通りにしておくんな」

 左平を真似て勢いをつける。母に、口を挟む余地を与えてはならん。大事や特別という、母の好む言葉を強調し、そっと肩を抱けば母の身体がぴたり、と寄り添った。素間の武勇伝は、結構役に立つ。


「わかったよ、おまえさん……」

 目を潤ませた母が顔を上げ、庄助の袖をぐっ、と掴んだ。嫌ぁな予感がする。

「おまえさんの言う通りにする。きちんと証言するよ、だから……」

 引かれた袖に身を崩し、肘を突いた庄助に、母が迫る。

「抱いとくれ……」熱い吐息に息を呑んだ。

(相手が一枚も二枚も上手やったら、どないするんや)

 素間の武勇伝をひっくり返すが、答はどこにもない。素間の上を行く女などおらんと、思い至って肝が縮む。

「ちょ、ちょっと待て」肘で後退る庄助に、「待たないよ。お前が誘ったんじゃないか」母は喜々として、下帯に手を伸ばした。

(むつきはとっくに取れとんで。母ちゃんの世話にならんでも出すもんは出せるがな……)庄助は必死に身を捩る。


「堪忍おしっ! 何も、取って喰おうってぇわけじゃない。あたしは、お前の子が欲しいだけだ」

「それが取って喰うっちゅうんやっ」

庄助は、渾身の力を込めて、母を押しやった。

「母に口答えするか」目を吊り上げた母に、「証言しろよ」自棄になって喚き、「あたしと寝るかいっ」母は理不尽な脅しをかける。

どたばたと社を揺るがす大騒ぎに、「お美衣様っ!」おこうの声が飛び込んだ。

「今、取り込み中だ。後にしておくれ!」母は庄助の肩をがぶり、とやって声を上げた。

「それどこやないです。恋仇が乗り込んできましたっ」

おこうが息せき切って、床に手を付いた。


「庄助っ! これはいったいどういうこっちゃ!」

 怒気を含んで飛び込んだ声に、庄助の心がふわり、と浮いた。

 茂吉はやっぱり、わてに未練があるんや――。

「太兵が死んだぞ、何で、間の山の童が殺されないかんのやっ!」

 だんっ、と柱を叩いた茂吉の言葉が、庄助を奈落の底に突き落とした。

 


次回からは、不思議なやつらの手を借りて、庄助が事件の解決に乗り出します。どうぞお付き合いください。

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