〝煉獄〟向井
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早起きをしよう。そう思ったことは何度もあるけど、残念ながら習慣になったことはない。
朝早く起きて、何でも好きなことに時間を使える。素晴らしいじゃないか。僕もそう思う。じゃあ何故起きられないかというと、好きなことというのが他でもない睡眠だからだろう。だから二度寝の誘惑に勝てない。こうなると改善の余地がない。詰みだよね。
「いつまで寝てるの! 早く起きて着替えて食事する!」
母さんの容赦ない怒声に飛び起きる。こうなるまで布団から出られないなんて、お子様過ぎて我ながら涙が出る。
明日からは変わろう。薄弱な意志を優しくなでて、僕は朝の支度を始めた。
「近くで殺人事件があったらしいわね」
トーストをかじりながら母さんが言った。その言葉はまるで「駅前にコンビニが出来たらしいわね」というくらい落ち着いたものだったので、僕はつい「そうらしいね」と上の空で返してしまう。
「って、殺人事件が隣町で起きたわりには呑気過ぎない? 大事な息子が巻き込まれたらとか思わないの?」
「私が楽観主義なの知ってるでしょうに。あたしもあんたも誰かに殺されるほど恨みなんて買ってないし、強盗に狙われるほど裕福でもないからね。それにあんたの学校には向井先生がいるでしょ。殺人犯なんか返り討ちよ」
「向井先生って……前にもそれ聞いたけど、あのおじいちゃんそんなに凄いのかね」
技術工作の授業を教えている先生の顔を思い浮かべる。おじいちゃんといってもおそらく五十代後半だろう。冗談を一切言わないスタイルで、授業以外の会話した覚えもない。グレーに染めた白髪が一部の枯れ専女子には人気があるとかないとか。
「二十年前は凄かったわよ。人呼んで"煉獄"向井。何しろ二人組の銀行強盗を持ってた竹刀で叩きのめして、新聞に載ったんだから。
たまたま現場を目撃してた記者もそりゃ持ち上げるわよね。世界最強の剣士。止まぬ剣撃、煉獄の如し! なんて書いたもんだから、当時はかなり話題になったわよ。
ただ顧問だった剣道部はそんなに優秀じゃなかったから、教えるのは得意じゃなかったのかもね」
母さんは一度話し始めるとペラペラと実に長い。こういうのにもニコニコ相槌打てないとモテは遠いのだろうか。
「そっか、じゃあ殺人犯が相手でもきっと大丈夫だね」
半分呆れを込めて言ったのだが、テレビを見ながら母さんは言い切った。
「当然ね。でもあの先生も大変なのよ色々。あんたみたいにグータラな子にはわからないだろうけどね」
まったく大きなお世話だ。興味もないので適当に相槌を打ってかわすことに専念する。これもまた良好な家族関係を維持する為のテクニックなのだ。
◆
雲ひとつない空を窓から眺めてるうちに、いつの間にか放課後になっている。これまで何度そんな無為な一日を過ごしたことだろう。今年は違う。何かを変えるべく、新しい何かを得るべく僕は動く。
クラスの男子の内何人が彼女持ちなのだろうか。正宗も平山も彼女はいない。僕らの中でスペック的に最も可能性を持っているのは春樹だが、あいつの口から特定の女子に好意を持ったという話はついぞ聞かない。
いや、やめよう。この際他人を気にしても仕方ない。僕は僕の青春をバージョンアップさせる為に頑張れば良い。むしろあいつらの度肝を抜いてやる。可愛くて素敵な彼女を作って、スーパーミラクルサプライズを……。
そんなことを考えながら通学路を歩き、昇降口で靴を履き替え、教室へと入る。
チャイムが鳴るまであと五分。既に六割ほど揃ったクラスメイトを見渡して思う。そうか、彼女を作るということは、誰かを好きにならないといけないのか。
教室の一番左後ろの席に目を向ける。このクラスで一番人気がある女子といえば、満場一致で牧野アオイだろう。無敵のゆるふわオシャレ女子高生。イギリス人の血が四分の一入っているというメリハリのある顔は、掛け値なしに整っている。さらに頭脳明晰、トーク力も空前絶後という、ロイヤルストレートフラッシュみたいな女の子だ。見ると男女三対三のグループで談笑していた。その中心に居るのがアオイだ。参った。あのレベルまで行くと日常が合コンみたいなものじゃないか。
確かにアオイは読モみたいに可愛いけど——あれは無理だ。レベルが高すぎてお付き合いをする自分がまるで思い描けない。仮に運命の女神がバグってアオイを僕の恋人にしたとしても、きっと一週間で胃をやられる。それに、可愛ければいいわけじゃないよね。僕が好きなのはもっとこう、物静かで、慈愛に満ち溢れていて、それでいて整った顔の――
「おはよう、悠」
肘をついた左手にアゴを乗せて由香里はスマートフォンをいじっている。
「おはよ。由香里……好きな人とか居る?」
「……は?」
驚きと怒りがないまぜになった声色。うっかり猫のしっぽを踏んでしまったような気持ちになる。
「いや、なんでもない」
「なんでもないって、え? 一体なんのドッキリよそれ」
明らかに困惑している。流石に朝イチでする質問じゃなかったか。こういうのはきっと、もっとそれらしいタイミングですべきだ。夕暮れの教室とか。夏の終わりの砂浜とか。
「なんでもない、ほんとに」
「もしかして、好きな人でも出来た? 誰? うちのクラス?」鋭いようで的外れなことを言う。
「ごめんごめん、そうじゃないんだけど」
「あ、やっぱり違うか。ほんとその辺は遅れてるよね、あたし達。誰か一人くらい現在進行系の恋バナしてもいいと思うんだけど」
その言葉を聞いて平山の顔が頭に浮かんだ。由香里は平山の好意に気付いてないんだろうな。鈍感なやつめ。
「つまりその、僕だってそろそろ彼女とか欲しいわけだよ。でも今のところ好きな人も居ないし、何をしたらいいのかわかんないなって」
「ああ、そういうこと。そうだね、論理的な話になっちゃうけど、今の環境で好きな子が居ないなら、あたしを含めて周りの子に恋する可能性は少ないよね」
「そうかもね」
「それなら、新しく誰かと知り合う機会を見つけるべきじゃないの?」
「それって、マッチングアプリとか使えってこと?」
「ふふ、そうじゃなくて。や、あたしは別にそれが悪いとは思わないけどね。でもせっかくあたし達は今高校生なんだし、学校の中で交友関係広げたら? で、新しい出会いを求めるなら、まずはふさわしい場所を探すのがいいと思う。ターゲットとエンカウントしやすい場所はどこかな。エルフは森に。ドワーフは鉱山に。ドラゴンはダンジョンに。悠の好きそうな子は——どこに?」
場所か。シンプルなアドバイスだけど、それは今まで考えたことのない発想だった。ロープレでおなじみの偏った常識が男女の出会いにも応用できるとは。
「ありがとう由香里、ヒントをつかめた気がするよ」
「うん、感謝の気持ちはドーナツで」
由香里が右手で輪っかを作ってみせる。それはお金のジェスチャーだろ普通。
「うまく行ったらドリンクも付けてあげるよ。それにしても、意外だったな」
「何がよ」
「てっきり由香里は恋愛とか興味ないのかと」
「いつそんなこと言った? 一体あたしを何だと思ってんのよ」
そう言って苦笑いする由香里が、いつになく柔和な雰囲気だと気づいた。
「なんか良いことあったの? なんだか棘がないよ。針の抜けたヤマアラシみたいだ」
「それって——可愛いって意味? ありがと」
そこまでは言ってないけど、笑顔の由香里は実際かなり魅力的だ。きっと平山はこれにやられたんだろうな。
「で、何があったの?」という僕の言葉に被せるようにして平山が現れた。
「ふぅ、また遅刻するかと思った。おはよう二人とも」
肩で息をしている。平山は真面目の塊のように見えて、たまにワイルドな遅刻をする。今日もその一歩手前だったらしい。僕らは苦笑いして挨拶を返す。
「後でね。覚えてたら」と僕だけに聞こえるボリュームで言って由香里は筆記用具をカバンから出した。
午前中の授業は嫌いな数学から。悪戦苦闘するうちに、由香里のことは頭から消えていた。僕の中でそれだけ重要度の低いトピックだったということかもしれない。