突然の物騒な単語
◆
帰りのホームルームが始まった。担任の朝比奈先生が教壇に両手をついて、文化祭の進捗を実行委員の生徒に確認している。
「結局春樹はこなかったね」前の席の正宗に小声で話しかける。
「そうだな。そういえば返信もないままなのか?」
「うん。まぁ、あいつが返信してこないのは珍しくもないけど。ただ、今日は本を借りることになってたんだよな。続き楽しみにしてたのにな」
「ラノベなら貸すぞ」
「いや、また今度ね」
正宗のおススメラノベは残念ながら非常に偏っている。いわゆるハーレム物ばかりで、サスペンスが好きな僕とは相性が良くない。正宗の申し出を無表情で断ると、隣の由香里が頭を片手で押さえて呟いた。
「あれ、ウソ……えぇ、マジかぁ」
「どうかした?」
「カバンに付けてたキーホルダーがね、今見たらなくなってるの」
「あぁ、そういえばいつも付けてたね。カピバラだっけ」
「悪いけどロシアンブルーのネコちゃんよ。名前はメシア。まず自分を救えって話よね。ショックだわ」
どこか他人事のような物言いは、本当にショックを受けているのかどうかよくわからない。「お気の毒に」と声をかけておく。
文化祭の準備は着々と進んでいるらしい。黒板の前で山下和也と島田美佳の実行委員コンビが模擬店の内容を説明している。どうやら僕たちのクラスはカフェをやるらしい。メニューについての議論が進んでいる。
「飲み物は普通にソフトドリンク出せば良いとして、問題はフードだよな。菓子を皿に盛って出すだけだと微妙じゃね?」
山下の問いかけに数名の男子が反応するが、具体的な案には結びついていない。
「いっそ酒出してキャバやろうぜ」という誰かの声に、「お前行ったこともないくせに何言ってんだ」と先生が呆れた声を出す。
「由香里、先生はキャバクラ行ったことあるのかな?」
「知るわけないよそんなの」
スマートフォンから目を離さず答える。心底興味が無いらしい。次の瞬間、先生と目が合ってしまい、気まずい気持ちで視線をそらす。
朝比奈先生は確か僕らの倍ぐらいの年齢だ。歳の割に若く見えるのは、目が小さく黒目がちに見えるせいかもしれない。いつもスーツを着ているが、低い身長のせいか余り似合ってはいない。指輪をしていないので、恐らく独身なのだろう。恋人が居るかどうかはわからない。自分があの歳になった時にはパートナーが居ることを祈る。
無駄な人間観察をしている間も議論は進む。結局フードにはカントリーマァムとリッツを提供することに決まり、文化祭の会議は終了した。
「じゃあ、文化祭に間に合うように各自準備を進めてください。お前ら青春できるのなんて学生の間だけなんだからな。興味ないとか言わないでしっかり参加しろよ」
後半やけに兄貴目線になりながら、朝比奈先生が話を締める。確かに、青春は今だけだ。この時期に彼女が居ると居ないとでは大きな違いだ。僕はそろそろ真剣に取り組むべきなのかもしれない。
「ああそれから、これはもう知ってるかもしれないが――」そこで一瞬間を置くと、神妙な表情になり、先生は続けた。「――昨日、雪宮商店街の近くで、殺人事件があったそうだ」
突然の物騒な単語に教室中がどよめき、視線が先生に集まる。雪宮商店街といえば、隣町だ。
「女性が殺されて、犯人はまだ捕まっていないらしい。だからその、文化祭の準備もほどほどにして、明るいうちに帰るようにな。以上」
シリアスな内容の割に緩い話し方だ。殺人の動機はほとんどが怨恨か金目当てだというし、ほとんどの高校生にとっては対岸の火事といえばそうなのかもしれない。
ざわついた教室内で、由香里が話し掛けてくる。
「悠、今の知ってた? 雪宮なんてすぐそこじゃん!」
「いや、知らなかった。そしてちょっとビックリした。誰か知ってた?」
僕の問いかけに、メガネをふきながら平山が応じた。
「多分ほとんど誰も知らなかったんじゃないかな。昨日の夜事件があって、犯人がまだ捕まってないんでしょ。遺体が発見されたのは深夜かも。そしたら話題になるのは翌日だ。僕たちは朝から学校だからね」
「俺が昼間ニュースサイトをチェックした時はそんな記事は見当たらなかったが」正宗が補足する。「今見たらあちこちで取り上げられてるようだ」
不謹慎な表現かもしれないが、僕はドキドキしていた。退屈な日常に突如として訪れた事件。自分が巻き込まれたわけではないが、近くに殺人犯が潜んでいるかもしれないという程よい緊張感。
程よい? 待て待て、人が死んでるんだぞ。批難されることがわかっているので、口には出さない。しかし、もう少し事件について調べてみたい。そんな好奇心を持つことは悪いことだろうか。
由香里を見ると、片手で頬杖をついたままスマートフォンの画面に指を滑らせている。
「早速呟いてるの?」
「うん。不謹慎とか言わないでよね。怖い気持ちを吐露してるだけなんだから」
「あぁ、言わないよ」
そう言って僕はニュースサイトのページをいくつかブックマークした。心なしかいつもより重く聴こえるチャイムとともに、帰りのホームルームは終了となった。
◆
放課後に入ると同時に僕らはカバンを背負い、帰宅部の本分を果たすべく立ち上がる。すなわち、帰宅だ。
「帰りにドーナツ食べてかない?」由香里が言う。
「いいね。正宗も行くだろ?」僕が応える。
「応」正宗が頷く。
「じゃ、僕も」平山が立ち上がる。
ドーナツをこよなく愛する由香里の希望で、駅前のミスドには週一ペースで集まっている。今日の話題は例の殺人事件だろうな。そんなことを考えながらぞろぞろと教室を出たところで、肩をポンと叩かれた。
「よう佐藤。ちょっと時間ある?」
声の主は文化祭実行委員の山下だった。ワックスでソフトにスタイリングしたアッシュカラーの髪。自然さを残しながら丁寧に整えられた眉毛に目が行く。確か、サッカー部では一年生にしてレギュラー入り。モテるには理由があるね。モテない僕は、彼の電話番号も知らない。
「いいけど、僕だけ?」
「そう、僕だけ」
山下がニヤリと笑う。整った歯並びが覗く。
何となく見当は付く。おそらくこれは、文化祭に関わる何かだろうなと。
「さすが悠、男にモテるね。じゃ、私たち先行ってるから」
クラスメイトのイケメンに特に興味がないのか、由香里が率先してフェードアウトする。
「後でな」
「後でね」
正宗と平山も続いて訓練された特殊部隊のようにスムーズに下校していく。
「どっか遊びに行くとこだった? 悪いな。サクッと本題から話すわ」
言いながら教室に戻る。気づかいも男前。実に参考になる。
予想に違わず山下から伝えられたのは文化祭準備の協力要請だった。
「まぁ実行委員には立候補でなってるし、俺ら楽しくてやってるわけだからさ。お前らが参加しなくても別に困るわけじゃないんだけど。でもせっかくのイベントだし、少しでも盛り上げたいわけ。それに——声掛けられるの待ってるグループもいるかなって」
一致団結を強制されないのはありがたい。集団の人数が膨れ上がれば、どうしても少数意見は黙殺される。マイノリティーに含まれがちな僕は、団体行動がそもそもあまり好きじゃないのだ。普段あまり話すことのない山下だが、いい奴だなと思った。
「うん、大丈夫。協力するよ。余程の無茶振りじゃなければみんな働くと思うよ」
「従順に?」
「アリみたいにね」顔を見合わせて互いににやりと笑う。
「なんだおい、案外協力的だな!」山下が破顔して背中を叩いてくる。
「あはははは……案外?」
軽く失礼な気もしたが、仕方ない。僕らは皆、基本的によそのグループとつるむことは少ない。由香里にしても、女子グループとは一定の距離を置いているように感じる。今まで文化祭のことに首を突っ込んでなかったので、社交性に欠ける連中だと思われていたのかもしれない。
「後で佐藤たちのグループにやってほしいことまとめてメッセージ送るからさ、とりあえず連絡先交換しようぜ」
僕の耳がピクリと反応する。『佐藤たちのグループ』とは。これではまるで僕が中心人物扱いじゃないか。席順はまさにセンターポジションだが、ザ・無個性の僕には意外な話だ。しかしそもそも今回の話が僕に来たという事実が、この仮説を補強している。意外と言いつつ、それは実のところ魅力的な説だ。
「折角だしマジで盛り上げようぜ。じゃあな」
山下が教室から出ると、廊下に居た女子が早速山下に声を掛けるのが聞こえた。まさか、出待ち? まるでアイドルだ。
文化祭。頑張ってみようかな。そう思ったのは中心人物扱いのせいだけではない。山下達と仲良くしていれば、クラスの女子との交流も増えることだろう。それはすなわちチャンスを得られるということだ。この上なく貴重な、チャンスを。
「おお、何か笑ってる。どした?」
高校一年生にしては太めの、少しザラついた声に振り返ると、声の主はやはり——彼だった。
「春樹」