カウントダウン
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先生が持っているものが何なのか認識した瞬間、全身が総毛立った。素早く振り向いて春樹を見ると、背中のあたりを手で押さえてしゃがみこんでいる。あれは——血だ。
「何、してるんですか? 春樹を、刺した? アンタ——何してんだ……?」
口の中が乾いてうまく言葉にならない。心臓が早鐘を打つ。落ち着け。何かヤバいことが起きてる。冷静になれ。
パニックに陥る寸前の僕の質問に答えたのかはわからないが、先生はあからさまに不機嫌そうに独白した。
「香織は俺の女なんだよ。別れたいとかふざけたこと言い出しやがって。ったくよお。どうにも言うこと聞かねえからとうとう殺しちまったよ。そうかそうか、全部お前のせいだったんだな、ヤシオォ」
殺人犯、雪宮の。それが朝比奈先生だった? だめだ、思考の整理が追いつかない。
——いや、考えてる場合じゃない。どう見ても朝比奈はまともじゃない。だってそうだよ。学校の教室で刺したってことは、完全に後先を考えてない。
どうなっても構わないってことだ。ヤバ過ぎる!
「ぐっ……痛え……」
「春樹! 大丈夫か?」
大丈夫なわけはないのに、訊いてしまう自分が馬鹿みたいだ。ひざをついて傷口を押さえる姿が痛々しい。「奇跡的に臓器を避けていたから助かった」みたいな描写をよく小説で見かけるが、現実はどうなのだろう。
喧嘩最強の春樹でも、刃物で不意打ちされたら即戦闘不能なのか。——当たり前だ。プロの格闘家だってナイフで刺されて死ぬこともある。一介の高校生ならもっと簡単だろう。ただ、あの春樹が、という衝撃が余りに大きい。
カフカの時は春樹が頼りだった。その春樹は戦えない。相手はナイフを持っている。他力本願のツケが回ってきた。どうする、悠。どうする? どうする!
「佐藤、お前はどいてろ。今消えれば見逃してやる。けど邪魔するならお前もぶっ殺す。五秒で決めろ。五、四——」
「わかった! 僕は殺さないで下さい!」
カウントダウンが止まる。
「……ぷっ。ふははは! 早かったなあ今。ザコすぎるだろお前。八潮は友達じゃないのかよ。青春だろ? 友情は大事にしろよなぁ」
即答した僕を朝比奈は嘲笑した。ほざいてろ。五秒で殺されるわけにはいかない。
「勘弁してくれよな春樹。僕は逃げる」
「サティ……まったく……ふざけた……瞬発力……だ」
机の上に置いてあったショルダーバッグを背負って、おそるおそる教室の出口へ向かった。
「でも先生、こんな所でこんな真似して、逃げる気ないですよね。もしかして春樹を殺して自分も死ぬとか思ってます?」
じわじわと廊下へ向かいながら朝比奈に話しかけた。
「今やめてくれたら、春樹と僕は警察に言わないで黙ってることもできますよ。——命を助けてくれたらの話ですけど」
「黙ってる? ふん、今さらそんなことできるかよ。病院でなんて説明する気だ? 明らかに刃傷沙汰だ。警察が来るぞ」
「春樹のことだ、喧嘩は日常です。タチの悪いガキに刺された。相手の顔は覚えてない。どうとでもごまかせる」
言いながら無茶苦茶な論理だと自分で呆れる。朝比奈も否定はしているが、捨て鉢になったばかりのところに助かる可能性を示されて、どうやら少しは迷いが生まれてくれたらしい。ナイフを手にしたまま春樹を眺めている。
ニットのカーディガンから赤い染みが広がっていくのが遠目にもわかる。このままでも死ぬかもしれない。しかしとどめを刺されるのだけは阻止しないと。なんとか教室の出口まではたどり着いた。充分とは言えないが、窓際の朝比奈との距離を稼いだことになる。勝負に出るしかない。
「先生、北川香織さんとはいつからお付き合いをしてたんですか?」
「北原だ。北原香織。お前しつこいな」
「記事には二十一歳って書いてあった。随分歳の差ありますよね?」
「おい、さっきからなに質問してんだ。逃げたんだろ? グダグダ言ってるとお前も殺すぞ」そう言って朝比奈は振り向いた。
「まさか彼女が学生の頃から? あ、そうか。もしかしてこの学校の生徒だったとか」
朝比奈の表情が気色ばむ。一歩、二歩と歩み寄って来た。もう一押しだ。
「え、ウソでしょ、ってことは先生……教え子に手ぇ出してたんですか?」
「てめえ!」
図星だったのか、ようやくキレた朝比奈は走り出した。それと同時に僕は弾かれたように教室を飛び出した。教室の外に出ていた立て看板を乱暴に倒してそのまま走り出す。苦労して作った看板だけど、少しでも時間稼ぎになれば壊されても惜しくはない。
「助けてくれ! 殺される!」
ダメ元で叫んでみる。廊下にはまだ生徒がわずかに数人残っていたが、僕の後方を見るなり教室や階段の方へ逃げ出した。どうやらナイフを持った男を止めるだけの根性がある奴は居ないらしい。僕だってそんなのお断りだ。教室から顔を出して悲鳴を上げる女子を尻目に僕は駆け抜ける。
「待てコラァ!」
「待って、たまるか……!」
全力で走りながら独り言のように呟いた。確か朝比奈は運動部の顧問だったはず。帰宅部の僕の体力じゃ撒くのは難しい。
文化祭のために装飾された一年生の教室の並びを抜けて、廊下の端にある特別教室へと僕は駆け込んだ。そして部屋の奥にいた人物を見て思わず声がひっくり返ってしまった。
「真帆さん?」
「悠くん……一体どうしたの?」
「真帆さんこそ、どうして——いや、話は後!」
血相を変えて駆け込んできた姿を見てただ事じゃないと思ったのか、真帆さんは黙った。そこへ廊下から朝比奈が入って来る。
「どこに逃げるかと思ったら。隠れたつもりだったか? 馬鹿が。袋のネズミだな」
その姿を見て今度は真帆さんが短く悲鳴を上げた。大振りのナイフを隠す素振りもない。もう僕さえ殺せば満足なのだろう。後先考えない狂人ほど怖いものはない。
でもやられるわけにはいかない。恋人もできないまま死んでたまるか。どうしてこんなことになったのかわからないけど、巻き込まれたトラブルは絶対に切り抜ける!
「あいつ、春樹を刺したんだ。雪宮の殺人も朝比奈の仕業だ!」
「うそ……」
信じられないといった顔をして、真帆さんは教室の反対側をすがるように見た。
室内には彼女の他にもう一人居た。椅子に座っていたその人物は咳払いをすると、おもむろに立ち上がった。
「どういうことか——」その低い声は、この緊迫した状況に不釣り合いなほど落ち着いている。「——説明してもらえるかな、朝比奈くん」
すみにあるロッカーの近くで工具の手入れをしていたらしく、手がオイルか何かで汚れている。それを手ぬぐいで拭き取って、彼は教室の隅からこちらへ歩いてきた。
それを見て朝比奈は不敵な笑いを浮かべた。
「向井先生……」




