退屈な日常に与えられるべき刺激的なサプリメント
第一章
スマートフォンのアラームが朝を告げている。十月に入って間もないが、明け方の空気が冷たさを帯び始めている。それはつまり、布団を抜け出すのに非常な困難を伴うようになったということだ。おもむろにアラームを止めると、僕は布団の中で身体を丸めた。
昨夜十六歳の誕生日を迎えた高校一年生、佐藤悠は昨年と同じ悩みを継続して抱えていた。即ち、没個性という問題だ。
身長は一六八センチ。これといって特徴はないが、愛嬌のある顔だと自分では思ってる。走るのはそんなに速くないが、小さい頃に野球をやっていたおかげで持久力と球技のセンスは悪くない……と思う。テストの点数は得意な国語以外ほぼ平均点。要するに、可もなく不可もなく、というやつだ。
「そもそも名前からして平凡なんだ」
佐藤で始まり、悠で締める。苗字が全国レベルでありふれてるのだから、下の名前だけでも工夫してくれたらよかったのに。同じ学年には田中竜牙とか、池田加符華なんて奴もいたはずだ。——正直センスが良いとは思わないが、少なくとも個性的ではある。
布団から出たくない一心で現実逃避の不毛な思索を延長したかったが、目覚ましのスヌーズ機能は持ち主を再度起こすべきだと判断したらしい。けたたましいアラームが再び鳴り響き、朝の知的思考タイムは強制終了されてしまった。
◆
「母さんは疑問に思わなかったの?」
制服のブレザーに着替えた僕は、ダイニングでトーストを頬張りながら質問を投げかけた。リビングのテレビからは主婦向け情報番組の品のない音声が流れている。
いつ通りの我が家の朝だ。父さんは仕事の都合で家を出る時間が早い。僕がのそのそ起きてくる頃には既に居なくなっていて、母さんと二人で朝食を取るのが僕にとってはいつも通りの朝だ。
「何か言った?」
コーヒーをカップにつぎながら母さんが言った。テレビの音で聞こえなかったのか、そもそも聞く気がなかったのか。あるいはその両方かもしれない。
「だからさ、僕の育て方間違えたかもって思わない? ほら見てよ。無個性の塊みたいな高校生に仕上がってるよ」
「あんた、またそんな馬鹿なこと言ってるの? 育ち方を悩むぐらいなら、彼女作る為にどんな工夫したらいいか考えた方がいいわよ。母さんならそういうところで青春の貴重な時間を使うわね」
ぐうの音も出ない。しかし個性がない以上、どの角度から攻めたらよいのか。安定した隙の少ない攻撃もなければ、ここぞというところで繰り出す必殺技もない。運命的な出会いなんて当然経験したことないし、こんな凡庸な奴にどうやったら彼女なんてものができるのか。
「正論は時に人を傷つけるのに。なんて優しくない母親だ」
しかし母さんの言うことももっともかもしれない。今の自分に不満があるなら、ここから良くしていくしかない。どうやら過去は変えられないらしいし。
没個性。今年こそはこの命題をクリアしてみせよう。十六歳の佐藤悠は一味違うぜ。そう固く誓って、僕は男らしくパンを飲み込んだ。――そして盛大にむせた。
◆
中間テストが終わり、文化祭へ向けた準備で学校中がなんとなく浮き足立っていた。
ところが僕はというと今ひとつその雰囲気になじめずにいた。そろいのTシャツを作るとか、店内BGMをどうするとか。何故みんなそんなに興味を持てるのだろう。協調性がないというよりは、単純に根暗なのが原因かもしれない。
「ふわあぁ、悠おはよ……」
教室に入ると、すでに着席して頬杖をついていた藍澤由香里があくびを噛み殺しながら声をかけてきた。ショートボブの黒髪が色白の小さな顔に良く似合っている。
自称クラスで三番目に可愛い女の子。以前髪を染めない理由を訊いたら「やがてプリンになるのが嫌だから」と言っていた。男子に媚びず、それでいて女子とつるむのは苦手という珍しい人種だ。彼女の席は廊下側の後ろから三列目。僕の席はその前だ。
「おはよ。由香里は相変わらず眠そうだね」
「現役JKネットゲーマーにとって学校に居る時間こそが休息の時なのよ。にしても昨日の狩りは久々きつかったわ。レッドギルドとガチの殺し合いになっちゃってさ」
由香里は残業中のサラリーマンのように眉間をつまむ。こいつの話はMMORPGのネタが実に多い。起きている時間の半分くらいはファンタジーの世界で過ごしているんじゃないだろうか。
「よくわからないけど、睡眠は大事だよ。程々にね」
一度どうしてそんなに夢中になっているのか訊いてみたことがあるが、彼女によるとそれは退屈な日常に与えられるべき刺激的なサプリメントだそうで、つまりその、僕にはよくわからなかった。
「二人とも、おはよう」
声に振り向くと、目に入ったのはレトロなポリゴンで作られたようにセンターでくっきりと分けられた髪の毛。そしてジョン・レノンのような丸メガネ。学校指定のネクタイをきつく締めて、真面目を絵に描いた様な男子学生、平山宗介がそこに居た。
「あ、平山、おはよう。今日は一段と真面目に磨きが掛かってるねぇ」と由香里が茶化す。
「そ、そんなことないよ。いつも通りだよ」平山はわかりやすく慌てたリアクションを返してカバンを置く。
確認したことはないが、平山は由香里に気があるんだと思う。彼女の前では平山はいつも平常心を失う。
「藍澤さんこそ今日は一段と眠そうだね。昨夜もまた遅くまでゲーム?」
「バレちゃった? UGNの大規模アップデートがあったから新しい狩場行ったんだけどさ。その日のうちにもう戦争。気付いたら寝たの四時よ。これはもう昨夜というより今朝よね」
UGNというのは由香里が夢中になっているネットゲームの略称だ。正式名称は確かアンダーグラウンド……なんだっけ。これがいつまでたっても覚えられない。
由香里はネットゲーマーであることを仲の良い人間にだけ明かしている。その秘密を共有している喜びだろうか、平山は由香里のゲーム話を嬉々として聞いている。恋愛をしている人間のなんと輝かしいことか。いつ波にさらわれるかわからない砂の城のような十代の恋を、僕は謎の上から目線でそっと見守るのだった。
「相変わらず夜更かしか。学ばないな」
僕の前の席にドサリとバッグが置かれる。偉そうな台詞と共に登場したのは僕の中学からの親友、樋野正宗だ。
ブレザーの下に着た黒いパーカーのフードをかぶり、長めの前髪が片目を隠している。まるで漫画に出てくるアサシンのような出で立ちだ。ただし、身長が低いせいでどこか可愛らしく見えるのが正宗クォリティー。
「うっさいチビ。あんたこそデフォで目に隈があるくせによく言うわ。どうせまた深夜アニメでも観てたんでしょ」
「おいチビって言うな藍澤。お前も身長俺と同じぐらいだろうが」
「女の子と比べてどうすんのよ。平均も需要も全然違うでしょ」
「まあまあ二人とも。もうすぐホームルーム始まるよ。あ、それより春樹が来てないけど、誰か連絡来てる?」
取っ組み合いになる前に話を逸らす。にらみ合いをしていた二人は、そろって携帯を見て首を横に振る。
「あいつすぐサボるからなぁ」春樹のド派手な金髪を思い出して呟く。
事実彼は昇降口まで来ておきながら、自販機で苺オレを買ってそのまま帰宅したこともある。春樹を朝から下校時刻まで教室に縛り付けるのは、それだけで一仕事だ。
「やれやれだな。学生の本分は勉強だというのに」
正宗はいつの間にかかばんから取り出した分厚い医学書を広げている。
「アンタいつから医者目指してる設定になったわけ? 昨日まで文学少年気取って読んでたドストエフスキー、あのペースでほんとに読み終わったの?」
由香里が正宗の無節操な好奇心を鼻で笑う。確かに僕から見ても正宗のチョイスはよくわからない上に、ラノベ以外の本を最後まで読み終えたという話をほとんど聞かない。
「お前が病気になっても助けないからな、覚えておけよ。絶対だ」
本に目を向けたまま彼は答えたが、由香里は両手を広げて肩を竦めて見せる。やがてチャイムが鳴り、朝のホームルームが始まった。春樹が居ないことを含めて、いつも通りの朝だ。
ようやく普段と違う出来事が起こり始めたのは、放課後のことだった。