俺は別に恥ずかしくないぞ
第二章
暗幕が降りたように暗い空。今朝からずっと雨が降っている。校舎の窓に当たる雨音が気持ちを憂鬱にさせる。
昔から傘をさすのは好きじゃない。何しろそれだけで片手が塞がる。片手が塞がるということは、自由が奪われるということだ。どこかの神様みたいに腕が四本も六本もあったなら、「まぁ一本ぐらいはいいか」と思えたかもしれない。でもあいにく僕には左右一本ずつしか腕がない。二本の内の一本が使えなくなると考えれば、それがいかに不便で受け入れがたいことかをわかってもらえるはずだ。
今日の予定は看板作り。ここ数日、ストーカー滅殺作戦と称してあちこち歩き回っていたので、すっかり看板作成が手付かずだった。
文化祭まで残すところ三日。今日作業ができないとちょっと間に合わないかもしれない。実行委員の山下からはプレッシャーが掛かるようになっていた。由香里が作成したメニューは期待以上だったらしく、大いに評価してもらえたのだが、廊下に出す立て看板はまだ影も形もなかった。
「お前らが間に合わないとは思ってないよ。実際メニューはかなり良いデキだったしさ。ただ、立て看板は作るのに手間が掛かるだろ。前日の準備日には組み立てるだけになってないとヤバイ」
そう言った山下の目には不安の色がたっぷり浮かんでいた。
「工作がうまくできなかったら、技術室に行けば先生が手伝ってくれるらしいから、それも頭に入れといてくれ」
ご丁寧にアドバイス付き。ここでしくじったらきっとクラス中から失望されてしまう。なんとかして完成させなければならない。もちろん大丈夫。作り方は調べてある。もう取りかかろうと思ってたところだよと返すが、これじゃそば屋の出前だなと我ながら思う。
そんな折にこの雨だ。これが何かの工程において、例えばペンキが乾きづらくなるとか、何がしかのデメリットをもたらすような気がして、僕の心もどんよりと曇っていた。
「あれから一週間か。ストーカーの野郎、全然尻尾を出さないね」
「ちょっと張り込めば怪しい奴が見つかると思ったんだがな。甘かった」
正宗と僕は放課後の教室でベニヤ板に塗装をしていた。床を汚さないよう段ボールを敷いて、その上に置いた板に刷毛でベタベタと黒いペンキを塗ったくる。それが終わったら二枚の板の一辺を合わせて釘で固定する。すると簡易的だが立て看板の形になる。後は白いペンでメニューを書くという段取りだ。しかし案外塗る作業がうまくいかない。慣れない仕事は時間が掛かる。後回しにするんじゃなかったと少し後悔する。
一方、由香里と平山は、立て看板に書くレイアウトを紙にデザインしている。
「うん、まぁこんな感じかな」
「さすが藍澤さん。今樋野くんと佐藤くんが板を黒塗りしてるところだから、それが終わるまで休憩しよう」
どこか由香里の顔が浮かないように見えるのは、ストーカー問題が宙ぶらりんになっているからかもしれない。
「春樹も今日はいないしなぁ」
「例のOLとでも会ってるんじゃないのか?」
「いや、結局あれっきりみたいだよ」
「そうなのか——それは残念。うまくいってるのは悠だけか」
そう言って正宗は意味ありげな視線を送ってきた。
「期待させて悪いけど、真帆さんとはたまに図書室で話すだけ。っていうか、別にあの人のこと好きになったなんて一言も言ってないからな」
「ふん、そうか。じゃあそういうことにしておこう。だがな、自分の気持ちに嘘だけはつくなよ」
「うるさい。恥ずかしいセリフやめろ」
「俺は別に恥ずかしくないぞ」
ペタペタ。ペタペタ。塗り残しがないように念入りに塗る。
いつの間にか外の雨は本降りになっている。
「これ、スプレーで塗るんじゃダメだったのかな」
「スプレーなんて使ったことないぞ。ヤンキーの落書きグッズみたいで俺は怖い」
「ひどい理由だ。偏見じゃないか」
「ペンキの方がハンドメイドな感じが出ていいだろう。それにここまで塗ってからスプレー買いに行く気にはならん」
正宗の言うことももっともなので、黙って作業を続ける。
ひとしきり塗り終わったところで、乾燥タイムをかねて休憩に入る。ポケットからスマホを取り出して見ると、真帆さんからのメッセージが届いていた。
「おい、まさか来生さんか?」
「ああ、うん。これから図書室に来られないかって」
「な、まさかデートの誘いか?」
「違うだろ。でも、立て看板の作業終わらせないとな」
「馬鹿野郎、千載一遇のチャンスだろうが。ここは俺に任せてお前は行け」正宗は何故か頬を紅潮させている。
「お前、そのセリフ言いたかっただけだろ」
「う、うるさい。いいから行ってこい。あとここだけ塗れば黒は終わりだ。どうせ塗装が乾くまで文字は書けない」
正宗の言うことも一理ある。教室でダラダラ喋っているよりは、真帆さんと交流を深めた方が有意義だ。
「じゃあすまないけどちょっと行ってくる。一応戻ってくるつもりだけど、先に帰る時はメッセージくれよ」
「了解」
◆
放課後の図書室、初めて会った時と同じ八人掛けの読書テーブルに、真帆さんが居た。雨のせいだろうか、いつも以上に髪の毛がもっさりとして見える。
「悠くん、こんにちは」
「こんにちは、真帆さん。なんだか図書室でしか会ったことがない気がします」
「そうだね。……あ、今私の頭を見なかった? くせっ毛だから湿気に弱いの。恥ずかしいから見ないでください」
「全然そんなこと——いや、見ましたけどね、頭。でも、全然変じゃないですよ? むしろいい感じです」
「それはありがとう。ええと、実はそう、今日は話を聞いてもらいたくて」
そう言いながら、真帆さんは図書室の奥にある純文学の棚の陰に歩いていった。回り込んでみると、棚の端に椅子が3つ置いてある。
「こんなとこに椅子あったんですね。知らなかった」
「図書室をくまなく探索しないとわからないよね。本当は中庭にでも出たかったけど、この雨だから。ここなら内緒話ができるよ」
真帆さんがいたずらっぽく笑う。……こういう表情、嫌いじゃない。
「それで、話というのは?」
「……ちょっと重たい話だけど、構わない?」
「望むところです」
「ありがと。本当はもう少し仲良くなってからでもよかったんだけど、仲良くなってからだとそれはそれで怖いと思って。ごめん、前置きはいらないよね」
真帆さんが語ったところによると、真帆さんはクラスに友達と呼べる人が本当に居ないらしい。そして、それは両親と死別したことに遠因があるそうだ。
「中学一年の頃。交通事故で、二人とも」
青信号を渡っていたところを信号無視の車にはねられ、即死。しかも運転していたのは認知症の老人だった。死に方に良いも悪いもないだろうけど、余りにも理不尽な死だ。
「心を閉ざして殻にこもってるうちに不登校になって。毎日本ばかり読んでた」
初めは気づかっていた友人達も、いつしか真帆さんの周りから離れていった。薄情なようだけど、現実はそんなものなのかもしれない。
かねてから同居していた祖父母と暮らす日々はリハビリのようなものだった。二人の優しさが少しずつ真帆さんの心を癒したのだろう。保健室登校を経てなんとか卒業できたものの、高校の教室や人間関係にはうまく馴染めないまま今に至るということらしい。
「お父さんの影響で元々読書は好きだったんだけど、図書室で過ごすのは、独りでも寂しくないからかもしれない。本はいつでも私を別の世界に連れて行ってくれる。魔法の絨毯みたいにね」詩的な表現をしたからか、少し恥じらうように笑う。「だけどこんなことをしてたら、余計に誰も近づいて来ないのは気づいてた。ずっと独りで居たいと思ってたわけじゃないのに。だから——友達になりたいなんて言われて、私は嬉しかったんだ。ありがとう、悠くん」
少し照れた表情で真帆さんがうつむく。
「真帆さんにそんな過去があったなんて知らなかった。驚きました」僕は少し涙目になっていた。
「人に歴史あり。きっと君にもあるよ」
「入学初日にヤンキーに絡まれた事はありますけど」
「えっ、すごい、それ聞いてもいい?」
貴女の過去とは比べ物にならない、取るにたらない出来事ですけど、と思う。しかしそれでも真帆さんは喜んで聞いてくれた。
そんな風にして、僕らは友情を育んだ。お互いの過去を知り、相手を理解する。それがこんなに素敵な体験だと教えてくれた真帆さんに、僕は心の中で感謝した。
しばらくすると正宗からの呼び出しが来たので、僕は真帆さんと別れて教室へ戻った。
「悠、遅いぞ」
「ごめん、話し込んじゃって。色々と」
そう言ってから、少し正宗の表情が硬いことに気づいた。何かを感じて由香里を見る。
「何かあったの?」
由香里は忌々しげにスマートフォンの画面を指さした。
「ストーカーから、メッセージがきた」




