20・2ムスタファの母と父①
約三ヶ月ぶりに訪れたベルジュロン公爵邸。以前の職場に侍女見習いとして訪れることに私は気まずさを感じたけれど、客は第一王子であるから、執事は完璧な無表情を保ち、主は威厳ある態度を崩すことなく迎え入れてくれたのだった。
応接間に通されて一通りの挨拶が済むと王子と夫人が対面に座り、私とヨナスさんは王子の斜め後ろに立った。ムスタファは物言いたげに私を見たものの、何も口には出すことはなかった。
最初の話題は私のこと。木崎は一応表向きの用を済ますつもりのようで、私が夫人を助けたエピソードや、この屋敷でメイドをしていた時のことを、質問を交え関心あるふりをしながら、熱心に聞いていた。
メイドの話はともかく、助けた話はまるっきりの嘘だ。それを公爵夫人はさも事実のように流暢に語った。作り話とはとても思えない見事さだったけれど、私は複雑な気分だった。
そんな思いをしているときに、一度、公爵夫人は鋭い一瞥を私にくれた。何を意味しているのかは分からない。どちらかといえば、複雑な気分をたしなめられたような気がしたのだった。
表向きの用件が終わると公爵夫人は、控えていた執事を下がらせた。
「彼は私が唯一信頼している者です。扉前で、部屋に近づく不届き者がいないよう、見張っています。窓もこの通り、閉めてありますし、ここでの話が外部に漏れることはありません。さて、ムスタファ殿下は何をお聞きになりたいのでしょう」
老齢の公爵夫人は背筋を伸ばし肩を張り、美しい総白髪も上品に結い上げている。威厳も気品も貫禄もある方だ。
享年三十歳の私でも気後れしてしまう雰囲気があるのだけど、木崎のムスタファは怯むこともなく優雅に礼を言った。やはり王子だからなのだろうか。
彼は自分の母について、名前しかしらないこと、王宮にいる者に尋ねてもパウリーネに忖度しているのか誰も何も語らないこと、父ですら例外でないことを説明し、母のことならばどんな些細なことでも良いから教えてほしいのだと頼んだ。
「なるほど、そういうことですか。王宮は元より社交界からも遠ざかり、反対に死期が近い私には忖度など必要ありませんからね」
死期だなんてと、ムスタファが言う。
「老人である事実は覆せませんから、お気になさらずに。むしろ私が生きているうちで良かったと言えるでしょう。あなたのお母様、ファディーラ様のことはよく覚えています。それは美しい方でした」
ムスタファの表情がさっと変わった。期待に満ちた顔だ。
「身体が弱いうえに人付き合いが苦手だとのことで社交界に顔を出すことはほとんどなく、公式行事ですら欠席することが多々ありました。夜に行われる晩餐会で時おり見かける程度でしたから、『夜の女神』や『月の女神』と呼ばれていましたね」
殿下とほぼ同じ通り名です、と公爵夫人は微かに笑みを浮かべた。
だけどファディーラが夜しか現れなかったというのは、もしや魔族の習性ゆえではないだろうか。ムスタファの顔もわずかに緊張を帯びたようだ。
だけれどその変化に気がついていない夫人は、
「お母様のことを話す前に、お父様のことから始めましょう」
と言って、語り始めたのだった。
◇ベルジュロン公爵夫人の話◇
フーラウム王子は二代前の国王の末子として生まれました。母君は男爵家の娘で、寵妃という立場でした。ところが母は出産が原因で死去。王は遺された王子に興味はなく、母親の実家も力がなかったために、フーラウムはぞんざいな扱いを受けていました。そのせいなのか、彼は内向的で存在感の薄い子供でした。
そんなフーラウムを唯一可愛がっていたのが、先代国王である、第一王子のマルスランです。男兄弟は他に何人かいたのですが仲は悪く、母親が違い年が十五歳も離れていた不憫なフーラウムのほうが、可愛かったのでしょう。フーラウムに何かあれば、マルスランが必ず助けの手を差しのべていました。
そのように大人しいフーラウムがある日突然美しい女性を連れてきて、王子の位は返上しても構わないから彼女と結婚すると言い出したのです。それがあなたのお母様、ファディーラ様でした。
彼女の出自も、ふたりがどこで出会ったのかも明らかにせず、ただただ自分たちは深く愛し合っている、結婚するとのだと主張するばかりで周囲は困り果てたそうです。
◇◇
えっ、とムスタファは『月の王』らしくない、大きな声を上げた。
「母と父は愛し合っていたのですか?」
おもむろに夫人はうなずく。
「それはそれは深く。深い信頼と真摯な愛があるように見えましたし、フーラウムは彼女のために本気で身分を捨てようとしていました」
◇ベルジュロン公爵夫人の話◇
だけどフーラウムは、平民に下り市井に降りたところで、到底生きていけるような人物ではありませんでした。
無能ではありませんでしたがかといって優秀でもなく、特技もなく、内向的で人付き合いも苦手。すぐに生活が立ち行かなくなるのは火を見るより明らかでした。
だけど幸運なことにたった一人の理解者、異母兄のマルスランが王位についていたのです。彼らの父が存命だったなら、怒ってフーラウムを放逐したでしょう。ですがマルスランは懇意の侯爵家にファディーラ様を養女に迎え入れさせ、王子妃として相応しい体裁を整えてあげました。
ファディーラ様は奇跡のように美しい方でしたけれど、所作は洗練されておりませんでしたし、言葉はやけに古めかしい変わったものを使っていました。
ですから彼女の教育も兼ねていたのです。
それから半年ほどして結婚。フーラウムは兄王の仕事の手伝いも始めて、貴族たちに自分たち夫婦が少しでも良い印象を持たれるようにと頑張っておりました。
ただファディーラ様は先ほど申した通り、人々から距離を置いていたため、女性貴族から敬遠されておりましたし、それは王宮勤めの女性たちからも同様でした。
身元不明で、言い方は悪いですが、鄙びた言動をする絶世の美女です。女性に妬まれるのは仕方のないことでしょう。特に自分の出自に誇りのある侍女たちはみな、ファディーラ様付きになるのを嫌がっていたそうです。
そんな中でひとりだけ、自ら進んで専属になった見習い侍女がいました。それがパウリーネ・ベーデガーです。
ベルジュロン公爵夫人
写真でしか見たことがありませんが、『ダウントン・アビー』のマギー・スミス(役名不明)のイメージです。




