18・1緊張の夜
早めのお風呂を済まし身支度も整え、廊下を進む。窓の外は夜闇の中を強い雨が降っていて、そういえばヨナスさんの代理でムスタファの髪の手入れに初めて行った晩も雨だったなと思い出す。もう二週間ほど前になる。
祖母を亡くしたヨナスさんは、ムスタファの話では本人はしばらく前から覚悟を決めていたため、激しいショックを受けたなんてことはなく、普通に過ごしているそうだ。
でもムスタファが水を向けると、彼は幼少期の祖母とのほのぼのとした思い出を語るから、やはり悲しくはあるだろうし、主の前で気丈に振る舞っているだけかもしれない。だから――
「あいつが落ち着いたのを見計らって、ゲームのこと、半魔であることを話す」
木崎はそう言った。裏庭で私が、打ち明けないのかと尋ねた翌朝、髪の手入れをしていたときのことだ。
木崎は私が手入れを継続することに反対せず、むしろヨナスさんが楽になるならと賛成したのだ。
「そうか。さすが木崎。決断が早い」
私は彼の決定にそう返したのだった。
それから一週間、今朝方に今夜話すから私も同席しろと言われた。
邪魔じゃないかと尋ねたけれど、ゲームについては私のほうが詳細に説明できるからとの答えが返ってきた。確かにそうだ。
ムスタファは普段通りにしていたけれどどこか緊張している様子だった。木崎は三十路だけど、王子ムスタファはまだ二十歳だ。自身の根幹に関わる秘密を打ち明けるのだ、いくらヨナスさんを信頼していても不安を感じるのも当然だと思う。
なんて、今世17歳の私が言うのは変だけど。
ちなみに私は、木崎からヨナスさんに話をすると聞いたときから微妙な緊張状態にある。なぜだかはよく分からない。
ルート選択に向けてカールハインツの好感度を上げなくてはいけないのに、いまいち集中できていない感がある。もちろんゲーム展開は正しい選択をしているし、それ以外で顔を会わせたときも、結構良い感じで一言二言の雑談を交わしている。けれどハートの数が十を越えるほど好感度親密度が上がっている自信は全くない。
綾瀬のレオンの日参も変わらないし。
ついでにフェリクスもちょこちょこ遭遇して、すぐに手をとったり腰を抱いたりしてくるし、そんなところをカールハインツに目撃もされた。
――フェリクスといえば先日、約束していたポーカーをした。彼の私室で、彼、私、ムスタファ、ルーチェのメンバーだ。だけど座る並びは前回と同じだったし、このときの彼は一切私に触れなかった。ありがたいけど何故なのか、かえって不気味だった。
そう木崎に話したらまた、知るかよと返答された。そうだけどさ。
ちなみにムスタファとフェリクスは前より仲良くなったようで、一緒にいることが増えたみたいだ。オーギュストも。
ムスタファの部屋に着く。頭を軽く振り、余計なことを追い出す。
私は王子ムスタファが半魔だと最初から知っていたから何も思うところはないけれど、一般的にはどうなのだろう。
ヨナスさんなら大丈夫。のはず。木崎だって、そのことについての心配はしていなかった。心配をかける心配をしていただけだもの。
……ああ、やっぱり頭の中がぐちゃぐちゃだ。私が緊張してどうするのだ。
目前の扉をノックする。すぐに開いてムスタファが顔を見せた。
「あれ。ヨナスさんは?」
「いる。入れ」
やはり僅かに緊張を見せるムスタファ。後について中に入ると、長椅子の真ん中にヨナスさんが背筋を伸ばして座っていて、私を見ると笑みを浮かべた。
座れと私に言ったムスタファは、ヨナスさんの向かいの長椅子の、真ん中より少し外側に座る。これは私にとなりに座れということだろう。けど、なんかヤダ。
円卓の元にある椅子をよいしょと持ち上げて、運ぶ。
「……何をしているんだ」とムスタファ。
「ふたりが見える位置に座りたい」
「今さら」
と呟いたヨナスさんがさっと立ち上がって、椅子をムスタファの左側ヨナスさんの右側、窓を背にする位置に運んでくれた。
よく見たらローテーブルの上には三つのグラスがあり、そのひとつをムスタファがため息混じりに私の前に置く。それから彼はヨナスさんの正面に座り直した。
「それでお話というのは」
にこにこヨナスさん。
「私とマリエットには、他の世界で別の人間として生きていた記憶があると話したな」と、ムスタファ。
私の胸は異常にドキドキしている。
それから彼は、前の世界に存在した架空の物語とこの世界が酷似していること、その物語は恋愛もので、ヒロインの動きによって変わる幾つかの結末があったこと、現在は物語の前半に当たることなどを丁寧に説明した。
コンピューターゲームの概念を、今の世界の人間に理解してもらうのは難しいだろうということで、木崎は架空の物語と説明し、それを私たちは『ゲーム』と呼んでいるということになっている。
「――ここまでの理解はできたか?」
とムスタファ。はいと明瞭に答えるヨナスさん。
「それで、だ。肝心のヒロインがマリエットだ」
私の名前が出た!
ヨナスさんがこちらを向く。どう反応するか迷い、黙ってペコリと頭を下げた。
「……恋愛相手は、カールハインツ・シュヴァルツ隊長という訳ですか」
さすがヨナスさん。理解力だけでなく、考察力も高い。
「フェリクスやバルナバス、私も候補に入っている。だが彼女が望むのはカールハインツだ」とムスタファ。
するとヨナスさんは大きく息を吐いた。
「あなたから話がある、マリエットも同席すると聞いたとき、私がどう思ったか分かりますか? 『ようやく恋人になった報告を受けるのだ』ですよ。ぬか喜びでしたか」
「だから彼女は違うと言っているだろう!」
「はぁっ」わざとらしく、再びため息をつくヨナスさん。「まあ、分かりました。それで、もしかしたら彼女が侍女を辞められない事情は、その物語のせいですか」
「そうだ」とムスタファ。「物語を途中で止めた場合、どうなるか分からない。何もなければよいのだが最悪の場合、時間が巻き戻って最初からやり直しになる可能性がある」
「……私には理解しかねますが、ふたりはその可能性があると考えているのですね」
「そうだ」
それからムスタファはゲームについての説明を少しと、レオンである綾瀬はここが物語の世界とは知らないことなどを話した。
ヨナスさんからすれば到底真実とは思えないことだろうに、彼は全てに対して『理解不能ではあるが信じる』と受け入れた。それは恐らく、ムスタファへの信頼によるものだろう。
「それで、この物語における私の設定なのだが」
ムスタファがついに切り出した。言葉をいったん区切り、唇を一瞬内側に巻きこむ。彼がそんな仕草をするのは初めて見る。やはり緊張しているのだ。
それは私に伝染し、息苦しさを感じる。
「信じがたい設定だが、私の母は魔王で私は半魔。マリエットの動き方によっては魔王として覚醒する」
ムスタファが固い声で告げる。
しばらくの間のあと、ヨナスさんは目を見開きポカンと口を開けた。
「魔王というのは、人でないものを統べる王だ」
ムスタファがつけ加える。
痛いほどの緊張を感じる。
「私の半分は人間ではない」
長い沈黙。それから。
「……ご存知だったのですか」
ヨナスさんははっきりと、そう言った。




