15・5鏡の中①
こんこんと扉を叩くと中から、
「どなた?」
と不審そうな誰何の声がした。
「夜分にすみません。マリエットです」
そう告げしばらくすると、パタパタとスリッパの音がして扉が開いた。
すでに寝巻きを着て髪をおろしたルーチェが目を丸くして
「こんな時間にどうしたの?」と尋ね、それからはっとした。
私のとなりにはムスタファがいる。
「寝仕度のところを済まないが」
と言ったムスタファは、私の右手首を掴んでルーチェに見せた。
「まあ!」と息を飲む彼女。
「この通り、マリエットが怪我をさせられた」
「誰に!」と彼女は私を見る。「大丈夫なの? 折ったの? 痛みは?」
矢継ぎ早に質問をする彼女は心配そうな表情だ。
「切ってしまって。でも今は痛み止めが効いています」
「切って? どうしたのよ!」
ムスタファが右手を出して制する。
「犯人は分からない。細工を仕込まれていた。侍女頭と侍従長、夜勤の近衛の誰でも構わぬからひとりにこの件を報告して、マリエットの部屋に来るよう伝えてくれ」
ルーチェがかしこまりましたと答える。
「終わったら」とムスタファが続けた。「温かいココアを彼女の部屋に」
「彼女の分も」私は慌てて口を挟んだ。「もう勤務時間外です。ルーチェさんの分も、いただいていいですよね」
「そうだな。ではココアをふたつ」
ルーチェに
「すみませんが、よろしくお願いします」と頭を下げる。
と、彼女は
「バカね。自分の心配をしなさいよ」と言った。
涙ぐんでいるようだった。
◇◇
引き出しが出たままで荒んだ雰囲気のある自室に木崎のムスタファと戻ると、ベッドに並んで腰かけた。
片付けはフェリクスに止められている。細工の証拠だから、ロッテンブルクさんたちにありのままを確認してもらわないとダメだと言う。彼はこのようなことに慣れているのかテキパキと指示を出したのだった。
ムスタファは私の部屋を訪れたときからずっと、怖い顔のままだ。口数も少ない。
私の右手はケガをした指三本がまとめて包帯で巻いてあって、なにか怪獣の手のように見える。滑稽だ。
「愚かな木崎に念のために言っておくけど」
手を見つめたままそう切り出すと、
「は? 誰が愚かだ」と即座に反論される。
「だってあなたのせいじゃないのに、深刻ぶって『俺のせいか』って。アホじゃないの? 誰のせいかなんて決まっているじゃない。カミソリを入れたヤツのせいだよ」
となりから盛大なため息が聞こえた。
「忘れろ。優雅な王子の生活じゃ血なんて見ねえから、取り乱した」
「優雅じゃなくて引きこもり王子でしょ」
「引きこもりは卒業した」
またため息。
「……だがな、宮本」
「なに」
「軽く流せる件じゃねえぞ」
苛立ちを含んだ声だ。
「流すつもりはないよ。仕事に支障が出ることだからね。ロッテンブルクさんには正直に報告するつもりだった」
「……そう」
「ありがと」
木崎が来ていなかったら、惨めさと迂闊さでさすがに泣いていたと思う。
「フェリクスに治癒魔法を頼んでくれたことも」
「あいつの話を真に受けるなよ」
「分かってるよ。適当なことばかり言うひとだもん」
「頼んだのは、ヨナスが戻るまできっちり仕事をしてもらうためだからな。魔術師たちはそれどころじゃねえから、仕方なくフェリクスを頼るしかなかった」
「分かっているって」
だとしてもプライドがずば抜けて高い木崎が、あんなに負けを認めたくないフェリクスに頼んでくれたのだ。
ありがたいとか、そんな一言では到底言い表せない。
木崎がいてくれて良かった。
それが一番、しっくりくる言葉だ。
けれど口にするのは、憚れる。木崎なんかに言うのは恥ずかしい。
ガチャリと、突如扉が開いた。分厚い書物を持ったフェリクスと、山のような荷物を持った従者が入ってくる。
「いや、参った。本格的な魔術なんて、久しくやっていないから用意するのも一苦労だ」とフェリクスが言えば
「あなたは何もしていないではないですか」と従者がツッコむ。
「見てくれ。薬草が乾燥で粉々だった」とフェリクスが従者の荷物の中から壺を手にとりパカリと開ける。
確かに中身は粉々になった何かだ。
「ついでにムスタファの部屋に勝手に入らせてもらったぞ」とフェリクスは別の壺を手に取り、私に差し出した。「マリエットはこれを食べて待っていてくれ」
それは昼間のラムボンボンだった。
壺が薬草と全く同じだ。
「……おい」とムスタファ。「このチョコ、まさか変な薬草が入っているのではないだろうな」
「そういうものは他の男にはやらない」
どういう意味だとしばし考えて、なるほど女性を口説きやすくする媚薬的なもののことかと気づく。
「お前、あいつから食べ物をもらうなよ」と木崎。
「そうですよ」と従者。
「お前はどちらの味方だ」とフェリクス。
そうか。私は落ち込んでいるように見えるのだろう。だからみんなが殊更明るく振る舞っているにちがいない。
「それで、犯人を探すというのはどうやるのだ?」とムスタファが尋ねる。
フェリクスが自分の魔術で見つけられる可能性があると言う。ケガの治療はその後だそうだ。
「まあ、黙って見ていろ。マリエットは私に惚れ直すこと、間違いなしだ」
そしてフェリクスは書物を開いて床に置き、チョークのようなものを手にした。従者は荷物から四つの香炉を取り出して、先ほどの壺の中身を移す。
床に魔方陣でも描くのかなと思ったら、フェリクスはなんと壁に描き始めた。中心は鏡だ。衣装箪笥の向かいの壁にある。
「まさか、あれに犯人を映すのか」とムスタファ。
「その通り」とフェリクス。「私を待っている間に君たちはキスとかそれ以上とかしていないだろうな。みなに晒すことになる」
「するか!」と木崎。
「なんだ、つまらん」とフェリクス。
「もう少し遅くくれば良かったですね」と従者。
「漫才かよ」と木崎。
「本当だ」思わず笑いがこぼれる。
振り返ったフェリクスが、優しそうな笑みを浮かべていた。
◇◇
私の狭い部屋はかつてない過密状態になった。私、ムスタファ、フェリクス、従者だけでいっぱい感があったところに、ロッテンブルクさん、侍従長、夜勤中の近衛部隊長、ココアを持ったルーチェが来たのだ。
ムスタファが事の経緯と、フェリクスが犯人捜しをすることを説明した。
とりあえずベッドの縁にムスタファ、私、帰りそびれたルーチェが座り、ロッテンブルクさんと侍従長、従者、隊長が鏡の向かい側と扉側に並んだ。
部屋には従者が持ってきた魔石のランプがいくつも灯され、四つの角に置かれた香炉からは煙と共に独特の香りが立ち上っている。
ひとり余裕のある空間で、長い時間をかけて呪文を唱えていたフェリクスは、それをピタリとやめると、まるで舞台上のパントマイマーのように無言で全員を見回し手で鏡を指し示した。
そして最後に短い呪文を唱える。
すると暗かった鏡にチョークを手にしたフェリクスが映った。おおっとどよめきが起きる。それがあり得ない速さで動いたと思ったら、今度はムスタファと私だ。後ろ向きに動いている。
「時間を遡って、鏡に映ったものが見られる魔法です」従者が言う。「早送り魔法もかけています。このままお待ち下さい」
フェリクスは片手をおかしな位置で止めたまま、黙っている。まだ魔法を発動中ということだろうか。
鏡の隅で、私がケガをする。と、ルーチェが私のスカートをきゅっと握りしめた。
それからしばらくは誰も映らず、鏡の中は昼間になった。そして──。
あっ、という複数の声が上がると共にフェリクスの右手が動き、鏡の中に映ったふたりの動作も緩慢になった。
それは普段から私にいやがらせをする侍女たちだった。箪笥の引き出しを開けて何やらしている。手元は見えないけれど顔を見合わせていやらしく笑っているのがよく分かる。
そこで鏡の動画は止まった。
「カミソリを仕込んだのは、このふたりの可能性が高いな」とムスタファ。
フェリクスが無言でうなずく。
「手元が見えないから決めつけることは出来ないが、少なくとも他人の部屋に無断侵入をしている。マリエット・ダルレへの傷害事件として聴取を」とムスタファ。
「ふたりを連れて来ましょう」とロッテンブルクさん。珍しく声に怒りがにじみ出ている。「これを見せれば、こちらが何も言わずとも震え上がるでしょう」
「そうだな。着替えさせなくていい。すぐに呼べ」とムスタファ。
侍女頭と侍従長が一礼をして出ていく。残った近衛部隊長が
「牢に入れますか」と尋ねた。
木崎が私を見る。首を横に振ってやめてほしいと伝えると彼は
「ひとまず蟄居だ」と答えた。




