14・1信頼
昨日一日降り続いた雨は夜中のうちに止んだらしい。まだ薄暗い室内で、壁にかかった鏡を見ながら手早く髪をまとめる。
昨晩はなかなか寝付けなかった。カールハインツの数値はかなりのショックだったし、他にも入ってきた情報が多過ぎてひとつひとつを考えていたら、眠気は訪れてはくれなかった。
それに、と考える。木崎のムスタファにはああ言ったけど、カールハインツとハピエンを迎えたあとも私は働き続けたい。ロッテンブルクさんのような侍女になるという目標がある。
だけど本当は、私も識者の講義を受けて社会について考える仕事がしたい。
情報を分析してベストな策を考え客に提案をして実現させる。それが前世での私の仕事だ。
今世で同じ仕事はムリだと諦めていた。そもそも私には学がない。
侍女の仕事に就けたことは孤児院出身者には類まれなる幸運だし、これも重要な仕事だと分かっているけど、目の前で木崎がそれに取り組んでいるのを見ると、羨ましく感じてしまう。
だけど、まずは目の前の仕事だ。私はロッテンブルクさんが好きだし、彼女に認められる侍女になりたいと思っているのも本心なのだから。
鏡の中の自分をチェックする。寝不足が顔に出ているけれど、他は問題なし。よし。
部屋を出てすぐにルーチェに会った。おはようと言う顔がにんまりとしている。彼女は私に顔を近づけると
「昨晩、ムスタファ殿下に髪のお手入れ係に指名されたのですって?」
と小声で訊いた。ええと肯定すると彼女はミーハーな叫び声をあげた。
「三股は噂にすぎないと思っていたけど! 本当に三人であなたを取り合っているの?」
小さな声だけれど聞こえたのか、廊下の先にいる侍女が振り返る。
昨晩、この辺りのことは木崎と相談をしておいた。
「ちがいます。殿下は近頃、国民の生活にご興味があるようです。お手入れをしている最中はずっと孤児院や街の話をさせられていました」
「あら。そうなの」
残念そうなルーチェに、大きくうなずく。
これが木崎と考えた、私たちの『設定』だ。実際に彼はこの辺りのことを真剣に取り組もうとしている。ただ剣術や魔術のように、これもマリエットへのアピールのためと噂される可能性が高い。けれど、なんの策も用意しておかないよりは、いいはず。
「全然ウフフなことはなし?」と再びルーチェ。
「ありませんよ、気持ち悪い」おっと、余計な一言が。急いで「シュヴァルツ隊長以外はちょっとムリです」とごまかす。
「そう。ムスタファ殿下、素敵だと思うけど。私もふたりきりの仕事をしてみたいわ」
「ヨナスさんが帰ってくるのは、まだ先らしいんです。今日も髪のお手入れに伺うので、殿下にルーチェさんを推してみます」
「え! ダメよ、他の女性を薦めるなんて。失礼よ」とルーチェ。「マリエットは恋愛下手なのねえ」
「どうして恋愛の話になるのですか」
あら本当とルーチェは笑う。
彼女の性格なのか、ゲームの影響なのか。ルーチェは私と攻略対象たちの話が好きなようだ。昨日も刺繍をしながら、最近のフェリクスの口説き具合はどうかとか、レオンはなんてプロポーズしたのかとか、カールハインツとは進展したのかなんてことを根掘り葉掘り訊かれた。
ついでにルーチェのお薦めはレオンらしい。孤児院出身の私にとって、フェリクスは身分が高すぎる、カールハインツも伯爵家の次期当主だから同様。更にフェリクスは女たらしだし、カールハインツは堅物すぎる。
それに比べて伯爵家四男のレオンは手頃な身分だし、性格も爽やかで素直そうだから良いのだそうだ。
綾瀬が爽やかで素直……。
確かに好き嫌いをはっきり主張するところは素直といえるのかもしれない。
「本命が変わったら、絶対私に教えてね」とルーチェ。
「分かりました。すぐに知らせるので、私をネタにみなさんと盛り上がらないでくださいね」
「あら、バレていた?」
ルーチェは可愛らしい笑みを浮かべた。
「でもマリエットが手玉にとっているのではないと、ちゃんと話しているのよ」
ふと。いつだったかロッテンブルクに言われた『信頼できるひとを探しなさい』という言葉を思い出した。
今なら、『みつけました』と報告ができる気がする。
◇◇
今日の最初の仕事は、ムスタファ殿下の髪のお手入れだ。けれどその前に、彼宛ての書類を受け取りに向かうことになった。
言われた通りに正面入口を出て馬車回しで待っていると、やがて一台のきらびやかな馬車がやって来て止まった。馬車係である従僕がふたりさっと近寄って、恭しく扉を開ける。
中から出てきたのは、美中年男性。初めて見る人物だったけれど、誰なのかは聞いている。攻略対象オーギュストの父親、エルノー公爵だ。
お早うございますと挨拶をすると公爵はお早うと返してくれた。うん、いい人だ。もっとも私が元孤児だと知らないだけかもしれない。
彼は書類封筒と手紙を差し出した。
「中にも書いてあるが、急遽仕事で遠出をしなければならなくなってしまった。ムスタファ殿下に、直接お渡しできなくて申し訳ないと伝えてくれ」
「かしこまりました」
一式を受けとる。
これで終わり。そう思いきや、
「もしや君は侍女見習いのマリエットか?」と公爵。
私を知っていることに驚きつつも、そうだと答える。
「やはり。オーギュストが話していた。小枝みたいな見習い……おっと失礼。小柄なところが可愛らしい見習いが注目の的だとね」
この公爵は私に『失礼』だなんて謝った。
思わず笑みがこぼれる。この公爵は、本当にいい人なのだ。
「では殿下によろしく頼む」
エルノー公爵はそう言って慌ただしく馬車に戻って行く。
敬意を込めて深く頭を下げた。
おまけ小話◇異国の王子はうらやましい◇
(異国のチャラ王子、フェリクスの話です)
カーテンが引かれる音。目をつぶっていても、まぶたの裏が明るくなったことが分かる。
「お早うございます」
とツェルナーの声。
「起きたくないなあ」
昨夜は床につくのが遅かった。なぜ遅かったかは口にできない。
「興味深い話がありますよ」とツェルナー。
「聞かせろ」
「それなら起きて下さい」
従者なのに厳しい。今日は睡眠が足りないと知っているというのに。
しぶしぶ起き上がって伸びをする。差し出される歯ブラシ。身だしなみには気を遣っているから、歯のケアにも手は抜かない。
「で?」とブラシを受けとりながら促す。
「ムスタファ殿下は身の回りのこと全てをヨナスさんに任せているでしょう?」
「昨日は困っただろうな」
「ええ。さすがに他の侍従にやらせたようですけどね。ひとつだけ」とツェルナーは指を一本立てた。「髪の手入れだけは侍従ではない者に任せた」
「まさか、マリエットか」
首肯する従者。
「侍従たちがざわめきたっています。こんなことは初めてだそうで。俄然三股の噂が真実味を帯びてきていますよ。それから歯磨き中に喋らないで下さい。毎日同じ注意をするのはうんざりです」
辛辣なツェルナーの小言なんて、毎日聞いているから鳥のさえずりのようなものだ。歯ブラシを一旦口から出す。
「よし、私も髪は彼女を指名する。マリエットに癒されたい」
「何を言っているのですか。他人のものに手出しをしない!」
「そのような仲ではないと本人たちが言っている」
ツェルナーがため息をついて、私の口元をタオルでぬぐう。と同時に差し出される洗面器。
「可愛らしいではありませんか。どちらも自分の思いに気づかす友人のつもり。純粋というか、汚れていないというか。あなたとは大違い。邪魔をしてはなりません」
「お前はどっちの味方だ。私だって薄幸の第五王子。同情をしてくれていいはずだ」
するとツェルナーはふふっと笑った。
「あなたは逞しいですからね。薄幸のイメージはありませんよ」
「酷い従者だ」
再び歯磨きを始める。
異国で奮闘しているのだ。私の従者ならば、もっと優しくしてくれてもいいはずだ。
私だって裏表のないマリエットの存在に、安らぎを感じたいというのに。
彼女を独占できるムスタファがうらやましい。




