11・3夜の客人
ベッドに腰掛け膝の上には歴史書が開いてあり、目は字を追っているけど全く頭に入ってこない。さっきから1ページも進んでいない。
ひとつ息を吐くと、諦めて本を閉じた。
ロッテンブルクさんは自分の部屋に泊まるよう勧めてくれたけれど大丈夫だからと断って、普段通りに夜を過ごそうと考えていたのだけど、やはり集中できない。
顔も足首も痛いし。
何より綾瀬のことで頭がいっぱいだ。
前世を含めて初めてのプロポーズ。しかも私を目の敵にしていた綾瀬から。
綾瀬であるレオンが人気があることは知っている。以前ルーチェといるときに彼に呼び出されたけど、その後の彼女の興奮が凄かったからだ。
貴族の嫡男ではないけれど、近衛兵の中ではエリートで、見目もよい。女の子への対応もスマートだ、といったことが人気の理由らしい。
ルーチェにはどんな知り合いなのかをしつこく尋ねられたから、シュヴァルツ隊長の指示で私からいじめの聞き取りをした人、と答えたのだった。嘘は言っていない。実際にあったことだから。
そんな程度の仲でもルーチェに羨ましがられるほどに、レオンは人気があるようだ。
確かに私もレオンが綾瀬だと知らなかったとき、普通にときめいたもんね。
だけどすぐに綾瀬だと分かったから、異性だという認識すら消えていた。綾瀬は綾瀬。木崎の忠犬。
それにしても『ストン』が木崎絡みというところが、綾瀬らしいというかなんというか。そこはなんだか可愛らしい。
しかし落ち着いてよく考えてみたら、『ストン』からのプロポーズが早すぎやしませんかね。今日の私の状況が酷すぎて冷静な判断が下せてないのではないだろうか。疑問に思うことはいくつもある。
いくつもあるけど本人が真剣なのは確かみたいだし。私なんかに好意を持ってくれたのは嬉しい。
でも、どうすればベストなのか分からない。じっくり考えてと言われているのだから、すぐにお断りをしたら傷つけてしまうのだろうか。それともその気がないのだから、すぐに申し訳ないと謝るべきなのだろうか。分からない。
こういう問題は木崎に相談すればよいのだろうか。綾瀬のことならよく知っているはずだ。
だけどこの顔では会えないや。
頬と足首はずきずきとして痛みは増すばかりだ。
頭を振ってよみがえる恐怖を追い払う。
綾瀬は自分勝手なタイミングと謝っていたけれど、おかげで他に考えることができたから助かったと思う。
とにかくもう、横になろう。眠れそうにないけれど目をつぶって体を休ませる。明日は仕事をすると自分でロッテンブルクさんに言ったのだ。
本をしまおうと立ち上がったところで、扉がトントンと鳴った。体が強ばる。こんな日のこんな時間に誰だ。夜に誰かが訪ねてくるなんて初めてのことだ。
昼間の恐ろしい出来事を思い出してしまう。
ゆっくりと目を動かし、扉の鍵を確認する。施錠されている。ほっとしたところで、またトントンと叩く音。
「……木崎だけど」
扉越しに低い声。だけど確かに木崎、いやムスタファの声だ。どうしてこんな所に。昼間の件のことを聞きたいのだとしても、いつものベンチでいいはずだ。
「ちょと、待って」
慌てて本をタンスにしまい、代わりに出したタオルを顔に当てる。
小さな部屋を数歩で横切って、鍵を開けて扉を細く開いた。
薄暗い廊下に、よく見る不審者が立っている。
「どうしたの?」
「ん」と不審者はいつもの袋を持ち上げた。「酒じゃねえけど。怪我にはよくないだろ」
扉を大きく開くと、木崎は部屋に入った。無言で見回している。
「……暗くないか?」
「寝るだけだからね」
知識が圧倒的になくて、勉強をしているなんて知られたくない。前世では同じレベルで仕事をしていたのだ。
木崎は袋を小さな円卓に置くと振り返った。
「大丈夫かとは聞かないぞ。どうせお前は大丈夫と答えるから」
「本当に大丈夫だし」
木崎はふんと鼻を鳴らした。
「それ。治癒魔法を使える魔術師の手配はできる」
「必要ないよ。なんでムスタファ王子が手配をするのかと訝しがられるのは面倒」
「それも言うと思った」
そう言って木崎は袋を覗き込んだ。
やっぱり耳に入ったか。顔を殴られたことまで。
「これ」と木崎は小さな壺を取り出した。「打ち身用。魔力が込められているから効力が高い。俺のだけど分けてやる。ヨナスが渡してこいとうるさいからな」
「……ありがとう」素直に受けとる。「ヨナスさんに伝えてね」
「さっさと塗っとけ」
木崎は背を向け、
「ベッドを借りるぞ」
と一言、円卓をそばに運ぶ。
私も背を向けると壺の蓋を開けた。中は香りの良い軟膏だ。掬って痛む頬にぬる。それから足首。
終わって振り向くと木崎はまだ背を向けて、円卓の上をいじっていた。
前世のときは、気なんて利かないガサツな男だと思っていたのに。
「何を持ってきたの?」
と歩みより尋ねる。
「ココア。ヨナスの魔法でまだ温かい」
それから、と次々と高級な菓子が出てくる。
何人分を持ってきたんだ。ココアをお供にチョコを食べるのか。
そんなことを心の中だけでツッこむ。
出し終わると木崎は当然のように、ひとのベッドに腰掛けた。私が、自分の左側にくるような位置だ。なんなんだ、この気の遣いようは。
「私、寝具の上で食事ってどうかと思うのだけど」と言いながら木崎のとなりに座る。「王族の中には、朝はのんびりベッドで軽食って人もいるみたいだね」
「だな。以前の俺」
「ああ! ゲームのムスタファっぽい」
アンニュイさを感じさせるはずの月の王は、水筒のふたを開けてタンブラーにココアを注いだ。
「ほら」と差し出される。
「ありがと」
口をつけると程よい温かさだ。ヨナスは魔法が上手いらしい。
「綾瀬に助けられたんだって?」と木崎。
自分のタンブラーにもココアを注いでいたけれど、口をつけずに持っている。
うんと答えながら、木崎はどこまで綾瀬から聞いているのだろうと考える。
「ものすごい勢いで噂が駆け巡っているらしいぞ、ヨナスの話じゃ。近衛の若手イケメンがお前を大事そうに抱えて憤怒の形相だったって」
「尾ひれがすごい」
心臓がバクバクいっている。昨日までなら本気で尾ひれと思ったけれど、今日では事実かもと思う気持ちもある。
「だけど綾瀬はナイスタイミングだったよ。感謝しかない」
「巡回中だったらしいな。俺はまだあいつと話してないんだが、下衆野郎を吹っ飛ばしたんだって?」
「そうみたい。見てなかったけど、すごい音がしたのは聞いたよ。綾瀬がやり過ぎを咎められないか心配だったんだけど、問題なさそうで良かった」
ムスタファはうなずいた。「パウリーネが一枚噛んだみたいだな。目的はどうあれ、良い仕事をしてくれた」
ロッテンブルクさんの話ではパウリーネのおかげで、私の支援者は動かなくて済んだらしい。あまり表に立ちたくないようだから良かったと言っていた。ちなみに支援者からも軟膏をいただいた。
「お前も反撃したんだろ。クラヴァットに火をつけたって聞いた」
「そうだけど噂はすごいね。全部語られてる」
「……だな」と木崎。「ヨナスが褒めていた。とっさに魔法で反撃するのは素晴らしいとさ」
「ロッテンブルクさんに教わったの」
「それでも、だ」
ちょこちょこと言葉を交わしながら、考える。
「で、これはゲーム展開なのか?」
え、と言葉に詰まった。すっかり自分がゲームの世界にいることを忘れていたのだ。
「ちがう」
「そうか。もし危険な展開があるなら早めに俺かヨナスか、綾瀬にでも言っておけよ」
「分かった。ありがとう」
危険な展開ならばひとつだけある。けれど問題はないはずだ。それがあるのはムスタファルートだから。
「ていうかクラヴァットなんて生ぬるい。髪でも燃やしてやればよかった」と木崎。
「確かにね。そこまで考える余裕なんてなかったよ」
ハハハと笑ったら、ムスタファの顔がこちらを向いた。怒っているように見える。
この件を木崎に知られたら間抜けめと笑われるかと思っていたのに、実際は笑いもしなければ叱りもしない。
「……ごめん。心配かけて」
「俺がお前を心配すると思うのか。バカじゃねえの」
そう言うムスタファの声は明らかに怒っていた。
「お前はのんきにこれでも食っとけ」
ムスタファは円卓の上からチョコを乱暴に取ると、私に向かって放り投げた。
「……ココアとチョコってさ」
「文句はヨナスに言え。用意したのはあいつだ」
「ありがとね」
「伝えればいいんだろ」
「木崎も。届けてくれてありがとう」
「やめろ。素直な宮本なんて気持ちが悪い」
「素直な木崎も気持ちが悪いだろうね」
「俺はいつだって素直な言葉しか口にしてない」
しばらくいつものように言い合って、なんだか日常的なことをしていることにほっとした。
よし、この勢いで話しておこう、と決める。
「私の魔力のことなんだけど」と切り出す。「人よりちょっとばかり強いの」
今まで木崎に魔力の話はあまりしないようにしてきた。だけど心配させるくらいなら、話しておいたほうがいいだろう。
「ああ、あの金属は凄かった」と木崎。
「珍しいものはあれしかできないのだけどね。生活魔法は呪文を口に出して唱えなくても使えるの」
これは誰もができることではないという。私も、集中力が余計に必要で魔力の消費も大きいから、あまり使わない。
だけど今回はこのおかげで助かった。無詠唱ができなかったらヤツに反撃できなかっただろう。
「それに対象を見なくてもできる」
これも同じく、誰でも、というものでもないらしい。やっぱりほとんど使うことはないけど。
「すごいじゃん。ヒロインパワーか?」
ムスタファの声は普段と変わらなく聞こえた。
「それにしては地味すぎるけどね。でも今回は役に立った。身を守る術になると分かったよ。こんな目に遭うことはもうないから」
木崎は一度私を見て、それからまた目を逸らした。
「……そうしてくれ」
「もちろん」
「その軟膏は貴重なんだからな」
傍らに置いた壺を見る。中身はたっぷり入っていた。
「大切に使わせてもらうよ」
なんでそんな効能の高い打ち身用軟膏を持っているの、なんて野暮な質問はしない。月の王のムスタファ殿下が必死に剣術を習っているらしいという噂は聞いている。王子の掌は荒れているけれど、きっとそれだけではないのだろう。
「あとさ、綾瀬がね」
そう言いかけたとき。
トントン、と扉が鳴った。
木崎と顔を見合わせる。一体、誰だ。またも心臓がバクバク鳴り始める。
再び、トントンと叩く音。
「私だよ」と声がした。「フェリクスだ」
息を飲み、再度木崎と顔を見合わせた。




