10・4夜の危機
灯のともしていないランプを片手に慎重に廊下を進む。久しぶりに自室の窓に小石が当たった。前回はあいつがフェリクスと手合わせをした日だったけど、あれはもう二週間と少し前だ。今夜は何の用なのだか。カルラのことだろうか。
どのみちお酒をいただけるのなら、文句はない。前回以来、口にしていないのだ。
一昨日のフェリクスの元での親睦会とやらでは用意されていたけれど、念のために用心をして飲まなかった。あんなチャラ王子の前で隙など見せられないから。
……だけどあの時は結構、木崎に助けられたっけ。ちゃんとお礼を言わないといけないな。悔しいけど。
廊下の角まで来たので足を止めて、壁際からそっと顔を出して向こうの様子を伺おうとしたら、目の前に誰かが立っていた。
思わず悲鳴をあげそうになり、慌てて口を手で塞ぐ。だってこれだけ幅のある廊下の角の際なんかに人がいるとは思わない。気配も感じられなかった。
体がカタカタと震える。
「マリエット。俺だよ、ラードゥロ。落ち着いて」
聞き覚えのある声。それから目前の人間は深く被っていたフードをわずかに上げた。その下に見えたのは、確かに見知った顔だった。
九人目の攻略対象、ラードゥロ。歳は私と同じくらい。職業は泥棒。
「……ラードゥロ。……ああ、驚いた」
不審者でも近衛でもなかったことに、安堵する。
「それはこっちのセリフ。こんな時間に侍女見習いが何をしているんだ。みな自室に戻っている時間だろう?」
うっ、と言葉につまる。
「まさかたらしのフェリクスの元に?」
「まさか!」
反射的に否定する。だけどここはそういうことにしておいた方が、詮索されなくてよいのではと考える。
「……と言いたいところだけど、実はそうなの。内緒にしてね」
「え、本当に? あのたらしに陥落したの?」とラードゥロ。
「ええ」
陥落したなんて寒気すら感じる単語だけど、我慢するしかない。
「へえ、分かってる? こんな時間にあいつの部屋なんかに行ったら、茶飲み話だけじゃ済まないよ?」
「う、……うん。大丈夫。だから言わないで。私もここであなたに会ったことは言わないから!」
「まあ、いいけど」
ありがとうと礼を言い、そそくさとラードゥロの脇を通り抜ける。彼がつけてくることはないと思うけど、念のためにフェリクスの部屋がある方面に進み、遠回りをして外に出ることにした。
『ラードゥロ』という単語は、前世ならばイタリア語で『泥棒』を意味する。いくらなんでも乙女ゲームのキャラにそんな名前はつけないと思うのだ。
だからきっと泥棒というのは嘘。実際に王宮内で盗難はない。彼はきっと城に住む誰かの恋人だか愛人で、その相手に会いにきているのだろう。
ムスタファに話したとき、彼もその線が強そうだと賛同してくれた。
乙女ゲームの定番である、攻略対象に婚約者がいるという設定がこの世界にはない。三人の王子も公爵令息も、三十路に近い騎士や魔術師も、だ。
ゲームといえども略奪愛は嫌いだから私はこのゲームが好きだったのだけど、実際にこの世界で生きてみると、こうも良い男たちが、ひとりを除いて女性の影がないというのは、不自然だ。
だからきっとゲームでは明らかになっていないだけで、実は隠れて恋人がいたりするのだと考えているし、それはラードゥロなのだろうと思うのだ。
可能性のある相手は、彼に出会う場所を考えると侍女か、もしかしたら王族か。下級使用人たちではないだろう。
どのみち興味はないから、探る気もない。
だけど失敗をした。会ったのが彼だったから良かったけれど、もし他の人だったなら言い訳などできなかったかもしれない。
部屋を出るときは、もっと注意深くならなければいけない……。
◇◇
かなり回り道をしてからいつもの場所へ着くと、うつ向いて座っていた不審者がはっと顔をあげた。
「ごめん、遅くなった」
「何かあったのか」
ムスタファの声はわずかに強ばっているようだった。その隣に座り、ラードゥロとのことを説明する。
「だけど良かった。フェリクスの部屋に行くと勝手に勘違いをしてくれたから」
「そうか?」
「ありそうな話でしょ。万が一言いふらされても、私を嫌いな誰かが流した嘘と言い張ればなんとかなるだろうし」
「そうか?」
いつもなら面白がりそうな木崎が、否定的だ。段々と不安になってくる。
「失敗だったかな」
「フェリクスなら噂を事実にしようと絶対に言うぞ。これを」と酒瓶を持った。「賭けてもいい」
「うん……。あの人、なんだかんだで無理強いはしないし、そんなに悪い人ではないと思っていたのだけど」
「そうか? 一昨日は目が陰険だったぞ?」
「そうなんだよね。ちょっとあの人のことが分からなくなったな。ただのチャラ王子じゃない気がしてきた」
「気を付けろよ」
「そうだね」
ムスタファはタンブラーにワインを注いで渡してくれた。
「木崎、さ」
「何だよ」
タンブラーに口を付けた状態で、目だけが私を見る。
「フェリクスの部屋では、ありがとう。何度も助け船を出してくれて」
「別に。あいつが嫌いなだけだ」
「同族嫌悪?」
「違うね。俺は一度に複数の女に手出しなんてしなかった」
「ドングリの背比べって知ってる?」
月の王は、ふんと鼻を鳴らしてからワインをごくりと飲んだ。
「で? カルラは無事だったのか?」
都合が悪くなったと判断したのか、ムスタファは話題を変えた。気のせいかな。最近は前世の女性関係を指摘されると、不機嫌になるようだ。
本来のムスタファは女性を含めて他人に興味がない王子だ。あまり言わないほうがいいのかもしれない。
「ゲーム通りの場所に隠れてた。侍女に不満があったんだって」
素直に話題の転換に応じて、カルラの可愛いけれどこの世界では叶いがたい希望の話をした。
「カールハインツに憧れて、か。あいつは隊長としてと騎士としてなら優秀だからな」とムスタファ。
「せめて好きな洋服を着られるようになるといいよね。 剣術となると、五歳にはムリだろうけどさ」
「いや、騎士の家系の中には、歩き始めたら模造刀を持たせるところもあるようだ」
歩き始めといったら、一歳前後ではないか。
前世とは異なる世界なのだという実感と、庶民には理解できない慣習だという呆れた気持ちが湧き上がる。
「パウリーネは三人の娘の中ではカルラを一番可愛がっているからな。絶対に剣なんて危険なものは持たせないだろう」
そう言うムスタファは三日月の細い光を浴びて、普段にも増して月の王のようだ。半分は血が繋がっているはずのカルラとは全く似ていない。
昼間にカールハインツから聞いた話を思い出したが、それは胸の内に留めおく。代わりに
「妃殿下が、あなたが捜索に加わっていたことを喜んでいたようよ」とだけ告げた。
「礼を言われた」
ムスタファはそう言った。
さらりと。もしくは素っ気なく。
どう感じているのかは、読み取れない声と表情だった。




