35・5軽薄王子の涙
ツェルナー不在三日目の朝。
リーゼルさんの考えは変わらないようだ。ということは今日中に何とかしなければならない。どうやって?
ムスタファの髪をときながら、木崎に打ち明けて相談するかと考える。だとしてもどこまで話すか。他人の秘密だ。
それよりフェリクスに直接、暴露してしまうか。
どちらにしろ、気は進まない。リーゼルさんが納得する方法を選びたい。それには私が彼女を説得するしかないのだろうけど、どうすればいいのか思い付かない。
この三日、ずっと堂々巡りだ。
「宮本」とムスタファが正面を向いたまま言う。
「ん?」
「昨日の晩餐でエルノーに会ったと言っただろ」
そうだ。寝酒タイムにその話をしていたらフェリクスが来たので中断し、そのままになっていた。
「総隊長の件を聞いた」とムスタファ。
カールハインツのハピエンルートでさらりと触れられている、近衛総隊長の犯罪。詳しいことは分からないままムスタファがエルノー公爵に相談をしたところ、彼がツテを頼って探ってくれることになったのだった。
「今のところは怪しい点はないそうだ」
「そうか。きっと特定ルートだけで起こることなんだね」
「だといいが。調査はまだ続けてくれるそうだ」
ムスタファも総隊長と顔を合わせたら、なるべく会話をしているらしい。だが特段悪い印象はなく、あえて言うならシュヴァルツと同じで面白みのない堅物――。
「さりげなくカールハインツの悪口を言わないでくれるかな」
「例えがあったほうが分かりやすいだろ」
手を止めることなくやいやい言い合っていると、フェリクスがやってきた。
「朝から仲が良いな」
とセリフはいつものようだけど、目の下のくまがひどい。眠れていないらしい。
「マリエット。この前の紅茶を淹れてくれないか」
フェリクスの言葉を受けてムスタファが振り返り、それを先にと言うので櫛を置いた。
ツェルナーさんがいなくなってたったの二日でこの憔悴ぶりか。昨晩の話では、三年前に新しい従者だと引き合わされた日以来、一日も顔を見なかった日はないという。休日でも必ず主に朝の挨拶に来るそうだ。だからこんな形でいなくなるのはおかしいと、フェリクスは心配でならないらしい。
いつもならお茶を待つ間も喋っているフェリクスが無言だ。ムスタファもあえて話しかけずに、彼が口を開くのを待っている。
ブランデーの染み込んだ角砂糖入り紅茶をふたつ淹れ、それぞれの王子の前に出す。口に運んだ軽薄王子はひとくち口に含むと、
「ああ、落ち着く」と吐息した。「ツェルナーがいなくなってひとつ学んだ。今まで良い茶葉だから美味しいと思っていたのが、ツェルナーの淹れ方が良かったからだったのだ」
「そうか」とムスタファ。
フェリクスはカップを置いて、向かいの王子を見た。
「ツェルナー不在が本国に知られてしまってな。あちらでは職務放棄だと問題になっている」
「たったの二日だぞ。魔法での連絡か」
うなずくフェリクス。
これは髪の手入れをしながらの話ではない気がする。下がって隅に控える。と、
「いいから宮本、こっち」
と木崎は自分のとなりを示した。
私が座るとフェリクスが話を続けた。
「ツェルナーは本国に毎晩定時連絡をいれている」
「調査の進捗か?」
「それと私の仕事への態度だ。ツェルナーは、跳ねっ返り王子の監視役でもある」
「お前、信用ないのだな」
フェリクスは笑みを浮かべた。
「何しろ私はひねくれ者だ。――それでだ。この二日はツェルナーは仕事の手が離せないとの理由で私が連絡をしていたのだが、不信に思った本国が大使に連絡を取ってしまい、知られてしまった。最初に私の指示で城を出ていると言えば良かったのだが、私としたことが気が動転していたのだな。ツェルナーからの手紙には、うまく誤魔化してほしいと書かれていたのだが」
「定時連絡を誤魔化す、か。ならば長く留守にするつもりはないということだ」
「そうだとよいのだが。今回のことはあまりにおかしい。ツェルナーなら、私には理由を説明してくれるはずだ。なのにもう三日目。本国は怒っている。猶予はない」
フェリクスらしくない切羽詰まった口調だ。
「事件性有りにして、近衛を動かす。俺ではダメだろうがバルナバスが国王に頼めば大丈夫だろう」
「ありがたいが駄目だ。こちらの国に借りを作ることになる。本国がツェルナーに罰を与えるかもしれない」
「それなら俺たちで秘密裏にだな」ムスタファは即答した。
先日も思ったけど、やはり懐に入れた相手には優しいらしい。
「とは言えお前の密偵仲間が分からないことを俺たちで短期解決ができるかどうか。何かしら糸口になることはないのか」
フェリクスは首を横に振った。
「バルナバスの従者たちにも訊いてみたのだが答えは判を押したように同じだった。『会話はするが親しくない。ツェルナーの個人的なことは何も知らない』」ため息をつくフェリクス。「任務のことがなくとも、彼は実家の事情があるから誰とも深い関係を結んでいないのだろう。実はツェルナーは本名だが、姓は母方のものを名乗らせている」
「そういえば、ツェルナーとしか知らないな」とムスタファ。
ふたりの会話を聞きながら考える。リーゼルさんに不在が本国に知られていると伝えたら、気を変えてくれるだろうか。フェリクスの従者でいたいのだ。クビになるのは困るだろう。
「実家の事情が絡んでいる可能性は?」とムスタファが尋ねる。
「ないはずだ。彼自身は関係がない」
そう答えたフェリクスは何度目になるか分からないため息を深くついた。
「……どこにもトラブルの影がない。こんな形で留守にする理由もみつからない。私に説明なしだなんておかしい」
「まだ二日だ。見逃していることがあるのだろ」
フェリクスは口をつぐみ目を伏せた。膝上で手を組んだが異様に力が込められているようで、指が赤くなっている。何か言いたいことがあるけど、口にできないといった風情だ。こんな姿は初めて見る。
ムスタファと私は視線を交わし、彼が口を開くのを待つ。
「あと考えられるのは……」長い沈黙のあとにようやく声を出したフェリクスの口の端がワナワナと震えている。「私に愛想を尽かして逃げ出した」
そう言う声も震えていた。
「どうしてそうなる。ツェ――」
「私の従者は皆そうだった。『こんな自由すぎる王子は手に余る』と言って、留学に同行するぐらいなら退職すると去って行った。誰ひとり、残らなかった」
フェリクスが表情を崩している。木崎が間髪入れずに
「根性がない奴らだ」と言った。「だがツェルナーは違うだろ」
「……そう思っていた。だがそもそも、彼は辞めることのできない状況だ。本当はずっと嫌だったのかもしれない」
ムスタファが呆れたように吐息する。
「気持ち悪いほどの察しの良さはどうした。誰がどう見ても、ツェルナーにそんな素振りはないぞ」
「……そうとでも考えなければ、私に何も告げずに姿を消した説明がつかない」
「理由を教えてくれなかったからといって、お前を信用していない訳ではないだろうが。お前、冷静でないにもほどがあるぞ」
「そうだろうか」弱々しい声のフェリクスは目に涙が浮かんでいた。「自分でも、ツェルナーに信頼されていなかったことが、こんなに堪えるとは思わなかった」
「だから事情があるのだろう。お前こそツェルナーを信頼していないのか」
フェリクスの涙がこぼれ落ちる寸前になっている。
「あの」
口を挟むとムスタファが私を見た。
「ちょっとお手洗いに行ってくる」
「このタイミングでかよ。腹でも壊したか。しっかり出してこい」
ムスタファが美貌に合わないセリフを吐いて、手をしっしと振った。
立ち上がりフェリクスに一礼してからそそくさと部屋を出る。
足早に廊下を進みとなりの自室に入った。
中途半端な時間に戻ってきた私にリーゼルさんが不思議そうな顔をしている。
「フェリクス殿下が泣いてます」
「え?」
「ツェルナーが不在にする理由を教えてくれないのは信頼されていないからだ、でなければ自分に愛想を尽かしたのだと、ドン引きするくらいマイナス思考に陥って、目の下のくまは酷いし、見ていられません」
早口で捲し立てるとリーゼルさんの顔が強ばった。
「あの人、本当は繊細なのですね。あなたの不在が不安でならないみたい。何かトラブルがあったのではとか、自分が原因ではと悪いことばかりを考えてしまってろくに眠れていないようです」
言葉を切ってリーゼルさんを見る。部屋の隅に立っている彼女の手には呪文の紙。目を大きく見開いて固まっている。
「フェリクス殿下、泣いていますよ」
私はもう一度、静かに言った。
リーゼルさんが顔をくしゃりとする。こちらも泣きそうだ。彼女は震える手つきで紙を畳みポケットにしまった。




