35・〔幕間〕元後輩は嘆息する
元後輩の近衛兵、レオンのお話です
裏庭の、狭いけれど木陰である一角でムスタファ殿下と剣を交える。もちろん、ただの稽古だ。だが彼の目の真剣さは鍛練中の近衛たち以上のもので殺気すら感じる。油断したら一本取られることだろう。近頃忙しい彼は稽古の時間をあまり取ることができないから、毎日鍛練する僕たちとはかける熱意と集中力が違うのだ。
だとしても短期間でここまで上達するのは驚異的だと思う。
タイミングを見計らい彼からさっと離れ、
「休憩にしましょう。水分を取って下さい」と声をかける。
今の世界は前世の日本よりは過ごしやすい気候だ。それでも七月半ば近くにもなると、午前中でもけっこう暑い。
先輩の魂が転生したムスタファ殿下は汗だくの顔をぞんざいに袖で拭う。かつての彼だったら絶対にしないだろう動作だ。息は上がっているものの以前ほどではない。随分と体力がついている。
歩み寄ってきたヨナスさんがグラスに並々入った水を主に渡す。それから、
「レオンもどうぞ」と僕にも。
冷えているようでグラスには水滴がついている。礼を言ってグラスに口をつける。甘さ塩気に酸味がある。水じゃない。
「スポーツドリンク?」
「ん? 綾瀬にはまだ飲ませてなかったか?」と先輩があっという間に空になったグラスをヨナスさんに返しながら言う。「暑くなってきたからな。熱中症予防は必要だろ」
「これって自分で作れるものなんですか」
「簡単だぞ。あとでレシピをやる。よし、続けるか」
剣を握り直す先輩。
「いやいや。剣を置いてもう少し休んで下さい。王子に倒れられたら僕の立場がまずくなるんですよ」
「平気だって」
先輩はぶつぶつと文句を言ったけど、ヨナスさんにも叱られておとなしくなった。されるがままに汗を拭かれている。
まったく。いくら体力がついてきているとはいえ、本職の僕たちから見ればまだまだひよっこレベル。己を過信しないでほしい。
……とはいえ中身はあの木崎先輩だ。以前まではアンニュイで儚げだったムスタファ殿下が体力の限界を見誤って倒れそうになったとしても、先輩は意地で踏ん張り何でもない風を装おうだろう。彼は僕なんかでは到底敵わない強い人間だった。
今は体格や力といったハード面では彼に勝ってはいる。だけど、それだけだ。
昨日彼が強い口調で言った、『軽い気持ちで選ばせてなんかいねえよ』という言葉が耳に残っている。あの真剣さに、先輩が何かしらの覚悟を持って宮本先輩、いや、マリエットに自分のルートを勧めたのだと分かった。外野の僕が気づいたのだから、恋愛に鈍感な彼女だって悟ったことだろう。
そりゃ伸ばされた手も取る。
「――そうだ、先輩!」
仮設の小さな卓に空いたグラスを置き、ヨナスさんにごちそうさまと早口で告げると王子に詰め寄った。
「僕たちの目の前で宮本先輩といちゃつくのは酷いです。人のことは牽制するくせに、卑怯者!」
昨日は常に彼女が一緒だったので、詰れなかった。あやうく抗議を忘れるところだった。
「別にいちゃついてないぞ」
しれっと先輩。
「何を言っているんですか! 手なんて繋いじゃって。僕だってそうしたかったけど、しんがりを守らなければなかったから泣く泣くガマンしたんですよ」
「あれは宮本がびくついていたからだ」
ちらりとヨナスさんを見ると、彼は
「確かに悲鳴はすごかったですけどね」
と言った。
「宮本は宮本で、俺を気遣ってただけだしな」
「どういうことですか」
再びヨナスさんに視線を向けると、彼はわずかに痛々しげな表情になっていた。
「レオン」と先輩は珍しく僕の名前を読んだ。「お前が俺にまつわるアレコレを知ったのがつい最近だとはいえ、考えが浅い。それでは出世はできないぞ」
「前置きは入りません」
「耳目を憚る話です。ここでは、ちょっと」とヨナスさんが声をひそめる。
「血と心臓がなかった理由を教えただろう」
ムスタファ殿下が顔を僕の耳に近づけてささやく。
彼の母親の遺体が異常だった理由か、と胸の痛みとともに思い出す。彼女は魔王で何かしらが人に不死をもたらすという。
「ここに連れてこられた当初にも、死なない程度に同じようなことをされた、と思わないか?傷は魔法で治して実験を繰り返す」
聞き取れるすれすれで告げられたことに、息を飲む。
「捕らえられていた場所に、その痕跡が残っているかもしれないだろ」
そこまで言ってムスタファ殿下は僕から離れた。
「誰も何も言わないが、その可能性ぐらい考えついているはずだ。だから宮本は俺を気遣ったんだよ。フェリクスたちもな。しっかり頭を働かせろ」
「私はそれだけとは思いませんけどね」とヨナスさんが肩をすくめる。「あなたが自分を律し始めてから、彼女は淋しそうです」
「お前の目は恋愛フィルターがかかってるからな。いつ淋しそうにしたっていうんだ」
「わりと常に」
「やめろ、ムダな期待を持たせるな」
一瞬前に背筋が凍る話をしていたとは思えない様子で、軽い応酬をしているふたりに頭を下げる。胸が痛い。
「僕はまだ事の重大さを分かっていなかったようで――」
「構わない。これは俺の問題だ。お前に深刻に捉えろと言っているんじゃない。頭が云々はお前の将来のための話だ。有望株なんだろ。出世して俺を支えろ」
けろりとした顔で言う先輩。やっぱりこの人はタフだ。ついて行きたいと思う。
「先輩がそう望んでくれるなら、めちゃくちゃ張り切りますよ。望まれなくても力になりますけどね」
優雅なはずの王子が不行儀に、僕の足をげしりと蹴った。
「変わらないな、綾瀬は」
「へへ。――でも手繋ぎは別問題です。許せません」
「レオンにとって残念な事実を教えてあげよう」ヨナスさんが僕の肩に手を置く。「あれは頻繁にあることで、私は見慣れている。週に一度は繋いだり、握りしめたり」
「そんなにしてない」すかさず反論する先輩。
なんだそれは。聞き捨てならない。
「どういうことですか。僕のことはめちゃくちゃ邪魔するくせに」
「お前だって手にキスとかしてるだろ」
「本当によく見てますよね」
「あまりレベルの低い話題をこんなところでしないで下さい」ため息をつくヨナスさん。「だけどな、レオン」と僕を見る。「温室デート中もずっと手を繋いでいたんだ」
「ええっ」
「何で話すんだっ」
僕と先輩の声が重なる。
「先輩、ずるいっ。やっぱりただのデートじゃないですか。理由はどうあれ下心はありますよね」
僕が迫ると、
「あったら悪いか」と先輩は開き直った。
「卑怯だ。僕だって手繋ぎデートをする。先輩に邪魔はさせません」
「いいや、邪魔するね」
意地悪く返す王子の右手を見る。シルバーと紫で編まれたミサンガがある。先輩は僕の視線に気づき、なぜか気まずげな顔をした。
先輩がマリエットに作ってもらったそれをつけていると知ったとき僕は、すぐに彼女に欲しいとねだった。その返答は、
「教えてあげるから、自分で編んでみて。そのほうが願いがこめられるから」
というものだった。
がっかりしたものの、教わる時間は彼女をひとりじめできると気を取り直して喜んだのに、後日指定された場所にいくと、ふたりの侍女とテオ・ロッテンブルクもいたのだ。完全に警戒されている。
ムスタファ王子と僕と、どちらのほうが分がいいかと世間様に尋ねたら、百人が百人、ムスタファ王子と答えるだろう。だというのにこの人はそれを分かっていないらしい。聡明なはずなのに。
「悪いな」と先輩。「あのアホはお前やフェリクスみたいなタイプに押されれば、ほだされるに決まっている。黙って見ている余裕は俺にはないんだ」
「『余裕がない』って本気で思っているのですか。手を繋いでおきながら」
「だからあれは宮本なりの気遣いだ」
「僕なんていつも飛びのかれて触れることすらできないんですよ」
「いいじゃないか。恋愛対象と認識されているから警戒されるんだ。――ま、警戒しろと忠告したのは俺だが」月の王は珍しくアンニュイな表情になった。「俺はまったく意識されていない。何をしても無反応だ。シュヴァルツに対してとは大違い」
珍しい。先輩が弱音を吐いている。それも見当違いな。
どうするか少しだけ迷ったものの、敵に塩を送ることにした。
「マリエットは隊長を好きではありませんよ。あれはただのミーハー。アイドルの追っかけと同じです。本人は否定していますけど、宮本先輩だったときの記憶に踊らされているだけだと思います」
王子が疑い深い目を僕に向ける。
「ああいうタイプ、隊長の周りには多いんです。彼のことをよく知りもしないで遠くから見て騒いでいるファン。で、そういう彼女たちは結局堅実な結婚を選ぶ。マリエットもそうだと思いますよ」
「……それが事実だとしても、俺が眼中にないことは代わりないだろ」
思わず知らずにため息がこぼれる。この人はムスタファ王子である今も、木崎先輩だったかつても、常に注目されているから本当の『眼中にない』状態をきっと分かっていないのだ。
案外、鈍いのか。強かで計算高い女性とばかりつきあっていたから、感覚がおかしいのか。
「宮本の警戒のなさは酷いぞ」
先輩の言葉に、ヨナスさんが苦笑を浮かべている。思い当たることがあるのだろう。
「あなたも前世の名前で呼びあうのをやめたらどうですか」
珍しくムスタファ殿下の目が泳ぐ。
と、
「そこは悩みどころなんだ」と告げ口が入る。
「ヨナス! ――もう雑談はしまいだ。稽古を再開するぞ」
従者の口を封じるがごとくに無理やり話を終わらせた彼は僕に向けて剣を構える。まだ汗もひいていないのに、元気なことだ。
そういえば何度か彼を指南している総隊長が、あのムスタファ殿下にあれほどの根性があったとはと驚いていた。
さすが僕の憧れだった木崎先輩だ。
怜悧な顔に険しい表情を浮かべた彼を見て、こういう所は誰よりも真面目だよなと思う。
それは宮本先輩が好きと言い張る隊長との唯一の共通点だ。
彼女も先輩も、そのことに気がついているのかどうか。




