33・〔幕間〕従者は第一王子と近衛のやり取りを見守る
第一王子の従者、ヨナスのお話になります。
レオン・トイファーはヘルマンの案内でムスタファ様の私室にやって来た。まだ休暇中だから私服を着ており、手には小さな木箱を抱えている。いつも通りの愛想の良い笑みを浮かべているが、わずかに緊張しているようにも見える。
ひととおりの挨拶を済ませると彼は手にしていた箱の蓋を開けてムスタファ様に見えるよう、傾けた。白くて丸いものが入っている。凍っているようだ。
「こちらは旅立ち前に話していた、名産品のチーズです。本来なら二日しか日持ちしないのですが、酪農協会が氷結魔法を使える魔術師を雇っていまして、持ち帰ることができたんです。解凍は明日の設定になっています」
ムスタファ様は表情を変えずに、
「ああ、あれか。それは嬉しい」
と答え、レオンは
「殿下に差し上げたくて、大急ぎで帰ってきました。マリエットにも食べさせてあげて下さいよ」とわざとらしく言う。
それから控えていたヘルマンにその箱を預けた。
ムスタファ様の向かいに座るレオン。ヘルマンが去り、別の侍従が飲み物を出し終えると、部屋には三人になった。レオンは扉を見て閉まっているのを確認する。その顔からは笑みが消え、強ばりが現れる。やはり何かしらの緊張をしているらしい。
「俺はチーズのことなど聞いてない」とムスタファ様が言えば、
「僕もあちらに着くまで名産品があるなんて知りませんでしたよ」とレオン。「でもお好きでしょう。飲むときは必ずありますもんね」
「で? そんなダシを使って何を急いでいるんだ」
レオンが私に一瞬視線を向ける。すぐに離れていったが、それは困惑のようなものを宿しているように見えた。
「今回の旅の目的は叔母の見舞いではなかったんです。これもチーズと同じ。到着まで僕は知らなかったのですけどね」
レオンは勿体をつけた言い回しをする。思わせ振りをしたいのではなく、話すことに迷いがあるための時間稼ぎのように見える。
「報告は端的に」と、ムスタファ様。
レオンが顔をくしゃりとした。
「それ、前世でよく言われましたよ。今思い出しました」それから彼は真顔に戻った。「母の末の妹が二十年ほど前、王宮で侍女をしていました。あなたのお母様、ファディーラ妃のお世話をしたこともあったそうです」
ムスタファ様が息を飲む音が聞こえた。
彼は私を振り仰ぐと自分の隣を示して、座るよう促した。
レオンが以前、両親にファディーラ様について尋ねたときの返答は、『彼女のことはよく知らないし、知っていたとしても関わりたくない』というものだった。それをムスタファ様に伝えた彼は、床に付くのではというほど頭を下げたのだった。
だが彼の母は、気に掛けてくれていたらしい。
侍女をしていた末の妹という人は、退職後に結婚したもののすぐに夫と死別。そのため今回訪れたほうの妹の婚家に、子女たちの教育係として身を寄せているそうだ。
見舞うはずの叔母は、更年期の症状がある以外は元気いっぱい。見合い相手のはずの従妹にも、『都暮らしはできません』と言われてレオンはあっさりフラれた。
彼の母は最初から、息子を末の妹に会わせるつもりだったのだ。
末の叔母は最初は口が重かったらしい。だがレオンが、ムスタファ様が母親のことで深く悩んでいるのだと心を込めて説得したら話してくれたそうだ。
「ただ」とレオンは強ばった顔を取り繕うともせずに言った。「あなたの求める情報と言えるのかどうか、僕には判断がつきません」
「どれほど酷い話でも聞きたい」
ムスタファ様がそう言うと、レオンは首を横に振った。
「酷いというよりも、まるで怪談話なのです」
◇◇
全ての話が終わった頃には、部屋には何とも言えない空気が漂っていた。やはりレオンにはショックだったのだろう。表情が硬い。私は立ち上がるとサイドボードにしまってあるワインとグラスを出した。気付け薬代わりに彼に出す。
「あ、おかまいなく」
レオンの声に振り返ると彼は私を見て、やや和らいだ顔をしていた。
「まだお茶があるし、僕はこれからムスタファ殿下に抗議をしなくてはならない」
そう言った彼は手付かずだったカップをとり、珍しく下品に、ごくごくと飲む。
抗議とワインにどんな関係があるのだ。
とはいえ『抗議』の内容は想像がつく。
言われたほうは居心地悪そうに、かすかに身動ぎをした。
では私はどうしようかと考え、ふたりからは絶妙な距離かつ両人の顔が見える位置にさりげなく立った。
「先ほど下で聞きました」とレオン。「マリエットがあなたの専属になったそうで。僕の留守中に抜け駆けしない約束を破りましたね」
「専属はパウリーネの指示だ。俺とロッテンブルクが撤回を頼んだが、聞き入れてもらえなかった」
そう言ったムスタファ様は何故王妃がそうしたのか、彼女の意図を手短に説明した。レオンも納得できたようで、なるほどとうなずく。
「ならばその件の抗議は取り下げます。だけど温室デートとは何ですか」
「それはだな――」とまたも説明するムスタファ様。
とは言えこの件は彼も下心があったから、やや言葉のキレが悪い。それをレオンは敏感に悟ったのか目を細めて疑いの表情だ。
さてはてムスタファ様はお認めになった恋情を、かつての後輩にどう切り出すのか。あれだけ『そうじゃない』と否定していたのだから言いづらいだろう。だが彼はレオンにもきちんと伝えるつもりだ。
温室の話を終えるとムスタファ様は、『物語』でマリエットが自分を選んだことを告げた。レオンは盛大に顔をしかめる。
「どういうことですか」
「選べるのが俺の他はフェリクスとテオしかいなかった。あいつはまだ十四歳のテオを巻き込みたくないと言った」
「フェリクス殿下もあなたも、どちらもイヤですね」と、ため息をつくレオン。「目に見えるようですよ。フェリクス殿下を選んだら無理やりハピエンに持ち込まれると脅し、自分ならばそんなことはないから安全だと嘯いて、彼女に自分を選ばせたのでしょう」
「そうだ」
ムスタファ様は肯定した。あまりの素直さが予想外だったのだろう、レオンはまばたきをしてかつての先輩をまじまじと見る。
「彼女は『そうじゃない』と言ったことは撤回する。悪いな」
レオンはぽすんと椅子の背にもたれた。
「あぁあ。先輩、ついに彼女を好きだと認めちゃうんですか。参ったな」
そう言う顔はなんとも情けなく、泣き出しそうな表情にも見える。
「宮本に手出しすんな。お前やフェリクスがしたことは、ゲームの力で俺も強制的にさせられることにしてある」
「なんですかそれ。めちゃくちゃ卑怯じゃないですか」
「俺は分が悪いんだ。徹底的に邪魔させてもらう」
「……今までだって散々牽制してきたじゃないですか」
「していたか?」
「あれだけしておいて、まさか無自覚だったと言うんですか」
ムスタファ様の目が泳いでいる。彼がしてきたあれやこれやは、本当に無意識だったのかもしれない。でなければ嫉妬していることを認めたくなかったか。
「それで彼女の瞳の色の指輪なんてしているのですか」
レオンの言葉にムスタファ様が左手を見る。魔法機能のついたブルーサファイアだ。
「これは違う」とまたも説明するムスタファ様。
ふうんと答えるレオンは半眼だ。
「どんな理由があるにしろ、お揃いグッズを持っちゃって。どこが分が悪いのですか。それに先輩はマリエットから騎士のお守りをもらったでしょう。知っているんですよ。僕の目の前で祝福を受けていましたからね」
ムスタファ様の顔が分かりやすく弛む。
「あの喪女に深い考えはないけどな」
そんなことを言っているが、あのお守りを肌身離さず身につけていることを私は知っている。
「腹立つなあ」
「お前だって自分の隊長をダシに使って、一緒に城下に出掛けたじゃないか」
「出掛けはしましたけどね。隊長がガチガチにマリエットを守っていて、何もできやしなかった。あなたの差し金でしょう?」
「あの堅物が勝手に誤解を深めているんだ」
「よく言いますよ」レオンが私を見る。「ヨナスさんも言ってやって下さい。独占欲がダダ漏れだって」
「そんなことはない」とムスタファ様。
「え。まだそんなことを言うのですか」
ふたりはやいやいと言い合いを続ける。
レオンの態度は旅に出る前と同じだ。ムスタファ様が何者であっても、マリエットを挟んだライバルであっても、慕う気持ちは変わらないらしい。
「そろそろお時間が」
と声をかければ、ムスタファ様も名残惜しそうな表情になる。
では、と立ち上がったレオンは、
「マリエットに会ってから帰ります。恋敵が増えた以上、気合いを入れて口説かないといけませんからね」
と不敵な顔をした。
ムスタファ様が何かしら文句を言うだろうと思ったが彼は代わりに
「今はシュヴァルツから魔法の指導を受けている最中だ」
と教えた。
どういうことだと目を剥くレオンに、ムスタファ様が丁寧に説明をする。
聞き終わった彼は、
「ロッツェ副隊長には感謝しかありませんね」と息を吐く。
「怪我はフェリクスが治せる。だがそういう問題じゃない」
「その通り! で、犯人はどうなったんですか」
ムスタファ様が明らかにムッとした顔になる。
階段上から熱湯をかけるなんて悪質な事件であるのに未遂であることと、令嬢たちが顔に火傷を負ったことから不問になった。火傷を治すために彼女たちの両親は、上級魔術師団に高額な料金を払って依頼している。そのため自分たちのほうが被害者だという態度だ。
とはいえ王女主宰のお茶会を抜け出してのことだから、当分の間は宮廷の行事に招待されることはない。だがそれはマリエットの事件に対する罰ではないのだ。
むすりとした先輩の顔を見て、レオンも察したのだろう。彼も表情が険しくなった。
「社会的な制裁は受けている」と、私が主に代わって答える。「令嬢のひとりは進んでいた縁談が破談になった。もうひとりは婚約中だが、解消されるのではと言われている」
「当然だ」吐き捨てるようにレオンが言う。「そんな根性悪を妻に迎えたい貴族などいない。家名が汚れる」
彼はガシガシと頭をかいて、それから何かを言いたそうにムスタファ様を見たものの、何も言わなかった。
「――じゃ、広場を覗いてみます。応援を兼ねて。指導が隊長だなんて心配ですしね」
私は窓の外を見た。少し前から強めの雨が降っている。
「もう中止したか、もしくは移動したのではないかな」
「行くだけ行ってみます」
レオンはそう言うと、ムスタファ様に挨拶をして部屋を出て行った。
「雨は強いのか」
ムスタファ様が立ち上がり窓辺に寄る。
「念のために誰かにタオルでも届けさせますか」
朝方の彼とマリエットの会話を思い出してそう尋ねると、ムスタファ様はぼそりと
「……ヘルマンに頼んである」
と言った。
「おやまあ。いつの間に」
心なしか彼の頬が赤い。
「そういうところが『ダダ漏れ』と言われるのですよ」
「うるさい。ただの気配りだ」
確実に顔を赤らめたムスタファ様は、プイッとあらぬ方を向いてしまったのだった。




