32・5初日の終わり
扉を叩く音がして、ヨナスさんが顔を出す。
「戻ったよ」
「了解です」
短いやり取りだけで彼は去る。私は刺していた布と針を置いて立ち上がった。
これはムスタファが晩餐から自室に帰った知らせだ。
ちなみにくだけた返答であるのは、ヨナスさんの希望。内々のときはあまりかしこまらないでほしいと言ってくれたのだ。
ムスタファの基本的な夜は晩餐のあとに入浴をし、少しだけ寝酒を飲み就寝。お風呂は以前は昼間だったらしい。前世を思い出してからは、『だって一日の垢を落としてから布団に入りたいじゃん』ということで夜に変えたそうだ。
木崎はスーツのまま寝落ちしても気にしなさそうと思っていたのに、意外や意外、どんなに酔っぱらっていてもシャワー(しかも事故防止のために水)を浴びていたらしい。私なんてメイクを落とさず寝落ちすることもあったとは、とても言えない。
手早く刺繍セットを片付けて、ムスタファの部屋に行く。本人はすでに浴室に向かっていて、誰もいない。私はムスタファの着替えと入浴は手伝わなくてよいことになっている。
バルナバスやフーラウムたちは侍女でも手伝うそうで、夕食のときに気の強いチームににやにや顔で『楽しみでしょう』なんて言われたのだった。
『いえ、それはしなくてよいと言われています』
私がそう返すと彼女たちは拍子抜けの表情をして、『つまらない』と口々に言ったのだった。
私がすることは今のうちに髪の手入れセットと寝酒の用意。今日から夜の手入れも私がすることになった。そして寝酒の相手も。ヨナスさんがしていたことを私が奪ってしまう形だから、大丈夫か、淋しくないかと尋ねたのだけど、彼は嬉しそうに笑みを浮かべたのだった。
「いいんだよ。おかげで私は早く上がれるようになる。しかもマリエットが担当してくれるのならば、心置きなく私は恋人と過ごせるからね」
どうやらヨナスさんの恋人は城内にいるらしい。一緒にいられる時間が増えるとふたりで喜んでいるそうだ。
そもそもヨナスさんは朝から晩まで、365日ムスタファにかかりきり。というのも彼がヨナスさん以外を敬遠していたから。従者はたとえ休日でも、主の髪の手入れと入浴を担当していたそうだ。
気の毒に思える話だけど、それだけムスタファは他の人が嫌だったのだと考えるとそれもまた切ないのだった。
もっともヨナスさんは苦笑を浮かべて、甘やかしすぎた結果ですと言ってはいたけど。
それに比べて、ムスタファ専属の私の仕事といったら。夜遅い仕事が増えはしたけど、ムスタファの晩餐中に自分の夕食と入浴を済ませたら、彼が戻ってくるまで自由時間だ。自室にさえいれば好きにしていいとのことで、今日はカルラの誕生日プレゼントを作っていた。
手入れセットを並べたワゴンをいつもの位置に起き、キャビネットの上にはヨナスさんに指示された寝酒セットを用意。お酒。多めのおつまみ。グラスはふたつ……。
寝酒か? これ。マリエットお相伴セットではないだろうか。だって私の好きなチーズがあるし。ありがたいけど、やっぱり強制的に溺愛ルートに引っ張りこまれているような気しかしない。
支度が終わり手持ち無沙汰になったので、どこで待っていればいいかを考えることにした。何しろ部屋は薄暗い。隅にいたらお化けのように見えそうだ。
燭台のそばがいいかと、複数あるそれを順番に回ってみる。途中で鏡が目に入ったから身だしなみチェックをする。今までひとりきりで王族を部屋で待つなんてことをしたことがなかったから、どうも落ち着かない。
ぷっと吹き出すような音がした。振り返ると閉めておいたはずの廊下への扉が開いていて、ガウン姿のムスタファがうつむいて肩をふるわせていた。
扉が開閉する音は聞こえなかった。絶対にわざとこっそり開けたのだ。
「まるで初めてカレシを部屋に招く女みてえ」
ぷくくくと笑う木崎。
「さすが木崎、性格悪いっ」
立ち位置が決まらずうろうろしているところをみられたのかと思うと、恥ずかしい。顔が熱い。
「自分こそ、一番お気に入りのガウンですけどね。ローズオイルは増し増しで入れてますし」
ヨナスさんがムスタファのとなりで言う。すかさず
「勝手なことを言うな」と木崎が反論する。「ガウンはローテーションだし、オイルを入れているのはお前だろう」
「そうだったでしょうか」しれっとヨナスさん。「ではマリエット。あとをよろしく頼みます」
主従コントに気を取られていたので、慌てて『はい』と返事をする。
ヨナスさんは更なる主の抗議を受け流し、就寝の挨拶をするとあっさり行ってしまった。
「浮かれすぎ」と木崎。「このあとは恋人といちゃいちゃタイムなんだぞ、あいつ」
「木崎が彼女持ちを羨ましがる日が来るとはねえ」
「羨ましくはない」
意地っ張り王子はツカツカとやって来て、定位置に座った。
「侍女見習い、髪をやれ」
「はいはい」
ムスタファの背後に周り、髪を包んでいたタオルを外す。濡れた銀髪を見るのは久しぶりだ。艶かしく美しい。まずはオイル。
丁寧に塗り込んでいると、ムスタファが
「あ」と低い声を上げた。
「どうかした?」
「宮本、今日はかなりつむじ風魔法の練習をしたのだろう」
指導については、既に詳しく話してある。
「髪を乾かす魔力は残っているのか」
投げ掛けられた質問に手が止まった。
「……前世だったら確実に、体力ゼロでも絞り出せと言ったよね」
「今は前世じゃねえ」
前世ではない。宮本と呼ばれていても私はマリエットで侍女見習いだ。
「魔力は問題ないよ。だいぶ時間は経っているもの。十分に回復している」
「それなら、いい」
「ムスタファ殿下の専属といってもろくに仕事をしていないもの。このぐらいは、例え疲れていたとしても張り切ってやるよ」
そう。私の『仕事』はほぼ自身の得になることばかり。ムスタファが講義を受けたり会合のときは書記として同行。今までそれをしていたヨナスさんは、王子の補佐官としての参加になるそうだ。ただの社交のときは自室で待機という名目の自由時間。好きに勉学に励んでいてよいそうだ。
侍女らしい仕事もするけれど比率は低い。それすらも今日は説明を受けることが主だった。
「一般的な侍女路線を外れたな」
「その気があれば、いつでも路線変更できる。有能な侍女頭も手助けしてくれると言ってくれてるしね」
「ロッテンブルクに憧れるのはいいが、宮本が侍女頭ってお局感しかねえよ」
「失礼だな。私は後輩にも親切丁寧を心掛けていたよ。誰かさんと違って」
「……」
反論にすぐ応じられるよう身構えたものの、返ってくる言葉はない。まさか急に寝てしまったのだろうか。
「木崎?」小さな声で呼び掛ける。
「宮本って、本当に鈍感だよ」
「え。まさか私、後輩に嫌われていた?」
「んなことねえだろ。しょっちゅう相談を受けていたじゃねえか」
「だよね。良かった。髪を乾かすよ」
片手で風魔法を当てながら、もう片手で銀の絹糸のような髪をすいて風が満遍なく当たるようにする。
昼間の指導を思い出す。
いつも笑顔で人当たりの良いオイゲンさん。だけど案外食わせ者だった。
つむじ風の魔法は、呪文の単純さと魔法の難度の解離が大きいものらしい。その差に騙されて習得は難しいそうだ。
そんなものを初回にもってきたのは、ひとえに私への試金石。ろくに魔法を習ったことのない私はその難しさを理解していないとオイゲンさんは考えて、わざと出来ない課題をやらせてショックを与えるつもりだったそうだ。
自らそう告白した。
魔法の困難さを理解してくれれば良し、初日に挫折してもまた良し。そう考えていたと良い笑顔で言ったのだった。
それというのも、
「カールは実直すぎるところがあるからな。その辺りは私が補助するのさ」
だそうだ。黒騎士は友に恵まれている。推しが素晴らしいひとだとの証だと思う。嬉しい。
とにかくも私はオイゲンさんのテストを合格したし予想外な魔力持ちだったので、明日からはシールド魔法の基礎になるものを教えてくれるという。一日も早く、使えるようになりたいのだと訴えておいた。
「……で、指導はどうだったんだ」
ムスタファの声に目を向ける。といっても顔は見えない。見えるのは頭頂部だけ。
指導内容についてはとっくに話した。ならばこの質問は……。
「シュヴァルツを攻略してきたのか」
やっぱり。またネタにする気だ。
「教えてもらう時間だもん。いち生徒として真面目にやってる」
ふうんと木崎は言って、また黙った。
そのまま沈黙は続き、手入れは終わった。もしかしたらムスタファは眠いのかもしれない。
「もう寝る?」と訊くと
「飲む」との返事。
手をきれいにしてから寝酒セットを卓に運び、私は片付けをしに寝室に向かった。
一日の仕事の締めは王子が床に入るのを見届けることとヨナスさんに言われている。それを確認したら灯りを全て落とす。
『尤も近頃はそのあとに起き出して出歩いていたこともありましたけどね』とヨナスさんは笑っていた。
キャビネット前で櫛の手入れをしていると、自然と朝のことを思い出した。
恥ずかしさによる怒りが湧いてくる。何度も言うけど、中身が誰であろうともムスタファはイケメンで私は久しく恋愛ごとから遠ざかっているのだ。木崎にはたいしたことでなくても、こっちは心臓に悪すぎる。
今だってやたら良い香りがするし。
ぶんぶんと頭を左右に振って雑念を追い払う。私までムスタファルートの影響を受けてしまいそうだ。
◇◇
普段どおりにお酒を飲み、一日にあったことを話してお開きとなった。朝のようなことは何も起きず、平和なひとときでほっとしたような、肩透かしのような。
しかも王子の就寝を見届けるつもりだったのに、結局今夜も見送られることになった。そうなるだろうとは思っていたけど。
廊下に続く扉の取っ手に手を伸ばす。と、その手を背後から伸びてきた手に握られた。
お酒が入っているせいで、余計に心臓の働きがいい。でも大丈夫。今回は多少の心構えをしておいた。
「またゲームの影響を受けているよ」
「……だな」
あっさりと離れていく手。
振り返るとムスタファは真顔で私を見下ろしていた。朝とそっくりの状況だ。
「やべえな。『おやすみのキス』と言いそうだった」
「気をしっかりね」
「イケメン王子にモテているんだぞ。嬉しくねえの」
「ゲームの強制力ではね」
今度こそ取っ手を掴み、扉を開いた。
「おやすみ、木崎」
「ああ。おやすみ」
歩いて数秒の自室に帰る。部屋に入る前に王子を見て会釈をし、中に入った。鍵を掛ける。
どっと力が抜け顔が熱くなる。
背後からなんて、卑怯だ。あんなの好きシチュエーションすぎる。
「カ、カールハインツで補正しておこう」
よし、今夜はその夢が見られるよう妄想に励むのだ。




