25・4明日死ぬのかもしれない
窓の外はかなり暗い。灯っている燭台だけでは足りないので明かりを増やしたら、ムスタファは私の顔を見て、うげっという顔をした。
「腫れがバケモノレベル」
「本当? どうしよう、ロッテンブルクさんの仕事部屋まで瞬間移動ができないかな」
そんな顔で廊下を歩いていたら、あっという間に噂の的だ。
ムスタファが立ち上がった、と思ったら、突然お姫様抱っこをされた。
「何するの!」
「軽すぎ。もうちょっと肉つけろ」
「セクハラ!」
「シュヴァルツみたいなむっつりは、絶対豊満ボディ好きだぞ」
「ストイック! じゃなくて!」
ムスタファはスタスタと扉に向かう。
「顔を俺側に向けとけ。体調悪いふりして隠せばいいだろ」
「いやいやいや」
つい先日バルナバスにこうやって運ばれたばかりだ。一週間も経っていない。どう考えても、顔を晒して廊下を歩くほうが百万倍マシだ。
「下ろしてよ」
だけどムスタファはそのまま扉を開け――動きを止めた。視線を辿ると、はす向かいに立ち話をしているヨナスさんとカールハインツがいた。
「どうしました」
とヨナスさんがやって来る。続いてカールハインツ。急いで酷い顔を隠す。
こんなところをまた見られてしまうとは、なんてタイミングが悪いのだ。
「……シュヴァルツ。彼女を部屋に運べ」
心持ち前に出される私。
え? 何で? どうして? カールハインツ!?
待って、心の準備が!
ワタワタしている私をよそに、受け渡しが終わる。
どうしよう、死ぬ。絶対に死ぬ。だってもう苦しい。息ができない。
「殿下のお部屋ですね」
うわあ、カールハインツの声が近い。
「は? 彼女の部屋だ」
どうしよう、こんな夢のようないい体験をするなんて、明日死ぬのかもしれない。
カールハインツの手が、腕が、胸がっ!
騎士の逞しさがよく分かる。分かってしまう!
「ヨナス、付き添いを。それが終わったらロッテンブルクに体調不良と報告」
バカ木崎。予告なくこんなことをしないでよ。私の心臓が持たない……
それから、はっとした。
私の部屋?
慌てて首の向きを変える。去りかけのムスタファが視界に入る。その袖をすかさず掴んだ。
振り返るムスタファ。私は首を振った。
「何だ?」
『ダメ』と口パクする。
「は?」
『ダ・メ!』
ムスタファが耳を寄せてきた。
「私の部屋はダメ! あんな殺風景な部屋、見られたくない」
カールハインツに聞かれないよう、小さな小さな声で伝える。返事は同じく聞き取れるギリギリの、
「バカじゃねえの」
というものだった。
私から離れた王子は、
「侍女頭の仕事部屋だそうだ」
と一言告げて踵を返した。
バカとはなんだ。乙女心の分からないアホウめが。
とはいえこの奇跡的な状況は木崎のおかげだ。感謝してやるからね。
憧れの騎士に顔を見られないよう祈りながら、首の向きを変える。美麗なのに黒いために禁欲的にすら見える近衛の制服が目の前で。その布越しに感じられるカールハインツの筋肉! 体温!
ああ、天国だ……。
◇◇
侍女頭の仕事部屋に着き、私を椅子に座らせるとカールハインツはさっさと仕事に戻って行った。
扉が閉まる音を確認したら全身から力が抜けて、ずるずると床に落ちる。
「マリエット!」ロッテンブルクさんの声がする。「どうしました!」
「……私、もう死にます……」
「っ! 何をされました! ムスタファ殿下を信用したのに!」
「いや、まさか。マリエット?」ヨナスさんの声もする。
「夢にまでみたお姫様抱っこ……。もうマリエットは満足です。幸せ過ぎて、きっと明日死ぬのです」
「何ですって?」
はあぁっとため息が出る。
「すみません、ロッテンブルクさん。私、嬉しすぎて腰が抜けているようです」
「……具合が悪いというのは?」
「泣きすぎて私の顔が凄まじいことになってしまって。ムスタファ殿下が顔を隠せ、と」
はっとして侍女頭を見る。
「断りましたよ! なのに聞いてくれなくて」
何故か怖い頭をしていたロッテンブルクさんは、大きく息を吐き出した。
「あなたはシュヴァルツ隊長が絡むと、本当にポンコツです」
「すみません」
「てっきりムスタファ殿下に手を出されて、死にたくなったのかと思いました」
「え?」
ヨナスさんもうんうん頷いている。
「いや、ありませんから!」
「また、ずっと手を握っていたのに?」とヨナスさん。
「また?」とロッテンブルクさん。
ヨナスさんがわざとらしくそっぽを向いている。
「まあいいです。ただ腑抜けているだけなら。確かに酷い顔ですね。冷やしましょう」
ロッテンブルクさんが水差しのあるサイドボードへ向かう。
ヨナスさんが私に合わせて床に座った。
「そんなにシュヴァルツ隊長が好きなんだ」
うなずく。
「ムスタファ様から何か指示はあるか」
「いいえ」
「彼は最初はあなたの部屋へ運ぶように言ったね」
「シュヴァルツ隊長に私の部屋を見られたくなくて。元々私はこちらに戻るつもりでしたし」
戻ってきたロッテンブルクさんが濡れたハンカチを渡してくれた。礼を言って目に当てる。ひやりとして気持ちいい。
「そうだ、ロッテンブルクさん。エルノー公爵の見送りに行けず、申し訳ありませんでした」
「いいえ。公爵も、自分はあなたの気持ちをまるで理解できていないのだなと反省されていました。
これは私の推測ですが、あの方はあなたを陰から見守っていたからこそ、あのように取り乱すことはないと思っていたのではないでしょうか。あなたはシュヴァルツ隊長のこと以外ならば、年齢不相応に落ち着いていますからね。
それと、気分が静まるまで自室で刺繍の練習をしていなさい。明日、お母様の肖像画の元へ案内しますからね」
「……見られるのですか?」
「ええ。こちらの棟にありますから、いつでも」
枯れたと思っていた涙がにじむ。だけど幸い、目にはハンカチが当ててある。
「ありがとうございます」
「体調不良ですが、マリエットは昨日のレポート書きで寝不足だったというのはどうでしょう」ヨナスさんが提案する。
「いいですね」とロッテンブルクさん。「マリエット、話を合わせられますか」
実際の仕上がりの時間はロッテンブルクさんと木崎にしか話していない。
「大丈夫です」と答える。
「さすがに隊長も不審に思っているから、ボロが出ないように」ヨナスさんが言う。
彼の話では、ムスタファの指示でサロンから出たとき、ちょうどカールハインツが通ったらしい。メンバーが気になったのか、いぶかしげな表情で通りすぎたそうだ。
一度部屋に戻ったヨナスさんだったが、ムスタファの帰りがあまりに遅いのでサロン前で様子を伺っていたら再びカールハインツが通り、何事かあったのかと詰問されたという。
その説明を聞いている間、となりに座ったロッテンブルクさんが背中をさすっていてくれた。
もしかしたら私がまた泣いていることに気がついているのかもしれない。
と、扉がノックされ開く音がした。
「失礼。マリエットはワインは飲めるのか」
尋ねてきた声に飛び上がる。カールハインツだ!
思わず目に当てていたハンカチを外す。
「飲めますっ」
「ではハーブワインを頼んでやろう。シュヴァルツ家では体調がすぐれないときは、それが定番だ」
「ありがとうございますっ」
やっぱり私の命は明日までなのだ。
カールハインツが私を案じてくれるなんて。
待っていろとの言葉と共に閉まる扉。
「現金ですね」と苦笑混じりのロッテンブルクさん。「ハーブワインよりも余程彼のほうが回復に役立ちます」
「最推しですから」
そう答え、ハンカチを再び目に当てて。
何故か私の裡によみがえったのは、私の頭を撫でるムスタファの優しい手つきと体温だった。
◇バレンタイン・イベント④◇
時刻は晩餐前。開け放たれた扉から中を伺う。と、折よくこちらを向いたヨナスさんと目があった。
「どうぞ。入って下さい。丁度良かった。私は所用があるので、ムスタファ様の話し相手をお願いします」
白々しい。自分が呼んだくせに。テオに『ムスタファ様がチョコをもらえないと苛立っています』なんて伝言をさせたのは、ヨナス、お前だろう!
まあ? 私も休みなのに王子の私室に来ちゃったけど。
肝心のムスタファは能面みたいな顔をしていて、何を考えているのか分からない。いそいそと出て行くヨナスさん。ご丁寧に扉を閉めていった。なんでだ。
とりあえず、ムスタファの傍らに立つ。
「今日は休みだったの」
「知ってる」
それはそうだ。朝の髪の手入れをしていないもの。
「ゲームのバレンタイン・イベントが発動しててね」それがどんなものか、簡単に説明する。「だから日頃のお礼もかねて、色々な人にチョコを贈ったの」
「六月だぞ?」
「向こうの世界がそうなのかも」
「お前は手ぶらに見えるが」
すっとムスタファの目が細くなった。まさか不機嫌なのだろうか。チョコがないから? バカな!
「多めに買っておいたんだけど、予想外に欲しがられてしまって。ごめん。ムスタファ王子の分はなくなってしまったの」
端正な月の王の口が幼児みたいにへの字になる。
「侍従の分があって、攻略対象の俺がなし? おかしくね?」
「だから、ごめんて。それに木崎は私からのバレンタインチョコなんていらないでしょ」
するとムスタファの口はますますへの字になった。
あれ?
「フェリクスにチョコの数で負けるなんてありえねえ」
「数って。1か0かのレベルじゃない」
「俺は幼稚園のときから、常に山ほどもらってきた男なの」
「はあ、そうですか」
「……宮本はくれたことねえよな」
「前世の木崎が私に飴玉ひとつでもくれたことある?」
「……ねえな」
王子は目を反らした。
しばらく黙っていたけど、やおら立ち上がりキャビネットに向かうと、そこから何かを取り出して戻って来た。
ほら、と手を出す王子。つられて私も手を出すとその上にコロンとチョコが一粒転がった。
「ハッピーバレンタイン。本命じゃねえぞ。超義理だ」
「……何よ、『超義理』って」
軽口を叩きながらも、心臓がうるさい。なんだかよく分からないけど、私は嬉しいらしい。
ありがとと礼を言ってからチョコを口に入れる。ビターな甘味。
「美味しい。さすが王室御用達」
「当然。お前って、ほんと、旨そうに食うよな。唯一の美点だ」
「唯一ってことはないでしょ」
すっと、ムスタファの表情が変わった。また能面になっている。
「シュヴァルツには本命と言ったのか?」
なんだ、この質問は。
「日頃のお礼としか」
「へえ」
王子は安堵の顔になった。木崎って、こんなに芝居が上手だったっけ。
――再び心臓の音がうるさい。
「やっぱイベントの強制力が働いてんのかな」と王子。
「あ。もしかして何か変?」
それなら安堵の顔も納得だ。
「ああ」
小さくうなずいた木崎は、そのまま顔を寄せてきた。
頬に唇が触れる。
「今はここまで」王子らしい美しく艶のある声。「次は頬ではないぞ」伸びてきた手が頬、耳と撫でていく。「他の男には触れさせないでくれ」
ドドドドと脈が異常な速さになっている。ドンと王子を突き飛ばす。
「きっ、木崎! 正気に戻って!」
ムスタファが頭を振る。
「大丈夫っ!?」
「……まあ、うん。平気そうだ」
「良かった」
いいや、全然良くない。
「すげえな、ゲームの力」
ムスタファは私から離れ背を向けキャビネットに向かった。
「俺も食べとこ。頭をしゃっきりさせねえと」
そうだねと答えながら、気がついた。
他の攻略対象たちはご褒美的なセリフ前後に、電子音と共に好感度親密度のメーターが出た。
ムスタファには一向に出る気配がない。
この差はなんだろう……。
《終わり》




