23・〔幕間〕従者は腹を立てられている
ムスタファの従者、ヨナスのお話です。
今まさに部屋を出ようというタイミングで、開け放したままだった扉からフェリクス殿下が顔を覗かせた。
「おや、珍しい。こんな時間から外出か」そう声をかけられる。
外は日の落ちかけで薄暗い。先日ムスタファ様が知り合った魔石商会の社長に誘われて、各種の商会に関わる人々が集まる晩餐会に行くところだ。
「その通り。退いてくれ」
ムスタファ様はにべもない。フェリクス殿下の軽薄さに、真面目に取り合うだけ無駄だと思っているようだ。
「退くが、私の話は聞くべきだ」
「お前の話には益がない」
「そうかな」フェリクス殿下は人を食ったような顔をした。「近衛のレオン・トイファーがマリエットとデートするそうだ。気になるのではないかな?」
「馬鹿馬鹿しい」
ムスタファ様はそう言って、フェリクス殿下の脇を通り抜けて部屋を出た。私も続く。そこには殿下だけでなく、従者ツェルナーもいた。
「事実だぞ。カルラ姫への贈り物を共に買いに行くらしい」
フェリクス殿下はムスタファ様に並んで歩き、会話を続ける。
「それはカールハインツを誘う予定だった。レオンだけでなく、四人で行くはずだ」とムスタファ様。
私はツェルナーにこそっと
「相変わらず情報通ですね」と話しかけた。
「そちらも。彼女のことに関しては」
返ってきた言葉に苦笑が浮かぶ。本当にその通りだ。しかもムスタファ様は黙っていても問題ないことを、わざわざフェリクス殿下に伝えている。どうしても優位に立ちたいのだろう。
「つまらん。知っていたのか」
「当然」
「『当然』ね」笑いを含んだ声。「まさか今朝、彼女が泣きそうになっていたのは、このことが原因ではないだろうな」
ムスタファ様の後ろを歩く私には、その表情は見えない。だがきっと、苛立ちを顔に出しただろう。マリエットと喧嘩をしたらしい彼はずっと機嫌が悪い。私ともろくに口をきかない。余計なことを彼女に伝えたからのようだ。
更には従者伝てにふたりの錚いを知ったバルナバス殿下に、昼食の席でその件を持ち出されたらしく、ムスタファ様の不機嫌は時間と共に増している。
ムスタファ様は問いかけに答えず無言で歩く。
「理由がどうであれ」とフェリクス殿下。「私にとっては有利な状況だ」
やはりムスタファ様は答えない。
「今夜、相談に乗りに行くとしよう」
「……私たちのことに口を挟むな」
おや。
「珍しくストレートだな」とフェリクス殿下が言う。
私も同意見だ。いつも回りくどい牽制ばかりしていたのが、どういう心境の変化なのだろう。
「だがな、ムスタファ。それは君の意見だ。マリエットは王子との問題を相談できる相手がいなくて、ひとり泣いているかもしれない」
「言っておくが」とムスタファ様は足を止めてフェリクス殿下に向き直った。「彼女は怒っているだけで、泣いていない」
だから?と思う。違いはあるかもしれないが、うまくいってないことには変わりない。フェリクス殿下もそう思ったのだろう、横顔に愚かな弟を見守る兄のような表情が浮かんでいる。
「口論なんていつものことだ。放っておいてくれ」
いつものこと? それは前世の話ではないのだろうか。今日一日の彼の様子を見る限り、『ムスタファ様』のいつものこととは思えない。
「そんなに苛立っているなら、すぐにでも謝罪しろ。このまま嫌われてしまうかもしれないぞ」とフェリクス殿下。
「あいつは狭量じゃない」
月の王らしくない口調でそう言うとムスタファ様はふいと顔を逸らして歩き始めた。フェリクス殿下が私を見る。
「まるで子供だな」
黙って頷く。
「マリエットが髪係りを辞めたなら教えてくれ。私が頼む」
「あいつは公私混同しない」
先を行くムスタファ様が振り返りもせずに言う。
「狭量でなくて公私混同もしない、そんな彼女を泣かせるのは最低なことだと思うが?」
「泣かせてないと言っている」
フェリクス殿下は肩をすくめると、私に
「彼に失礼すると伝えておいてくれ。何を言っても無駄なようだ」
と声をかけて、踵を返した。
本当に今日のムスタファ様は子供のようだと思いながら追い付こうとすると、彼は再びピタリと足を止めた。それからくるりとこちらを向いて早足で戻ってくる。
「フェリクス」
「なんだ?」殿下は足を止めてくれる。
「誰かが見たのか」
問われた彼は吐息した。
「気になるなら、早く本人と話したらどうだ。四人での外出とはいえレオン・トイファーはデートだと張り切っているし、マリエットは憧れのカールハインツと一緒で舞い上がっている。狭量で意地っ張りな男なぞ、すぐに仕事でしか相手にされなくなるぞ。それに彼女のたったひとりの友人ルーチェはレオンに協力している。
君は私を信用できないようだがな。これは友としてのアドバイスだ」
軽薄さが一切ない口調でそう言って、フェリクス殿下は歩み去る。なぜかその背を見送っていたツェルナーは、主がある程度離れると我が王子を見て言った。
「本当にあなたのためを思って言っているのですよ。ああ見えて、友人になりたいのです。――本物の。彼も孤独ですから」
彼は一礼をし、主のあとを追った。
◇◇
機嫌の悪いムスタファ様は馬車に乗っても私と目を合わさずに、暗い窓外を見ている。
考えているのは、マリエットのことかフェリクス殿下のことか。
――ツェルナーの最後の一言は何だったのだろう。彼が主についてあのように言及するのは初めてだ。フェリクス殿下は孤独とは縁がないように見えるし、友人も多い。とはいえ目に見えるものが全て真実とは限らないものだ。特にあの方には疑問に感じることが多々ある。
だけど彼の『早く謝罪を』という案には賛成だ。どうせムスタファ様に非があるのだろう。マリエットが結った可愛らしい髪形を崩すことなくそのままにしているし、彼女に非があるならば私に愚痴をこぼすはずだ。
本当はカルラ様への贈り物も、自分が共に用意したいのではないだろうか。
午前中のことだ。シュヴァルツ隊長からムスタファ様に拝謁伺いが出された。彼クラスの近衛隊長で、正式な手順を踏んで面会を申し込む者はいない。ほとんどが口頭の申し込みで済ませてしまっている。
堅苦しい彼らしいとは言えるが、なにぶん初めてのことだ。
一体何の用件かと思ったら、マリエットの私的外出に警護として同行するという報告だった。日時、目的、行く先に同行者まで、直立不動できっちり伝えてきた彼にムスタファ様は首を傾げて、
「何故それを私に?」と表情を変えずに尋ねたのだった。
「ご心配なさるかと」と隊長は真顔で答えた。「一昨日のあの剣幕ですと」
一昨日といえばベルジュロン公爵邸を訪問した日だったが、『剣幕』に心当たりはなかった。あの晩はきっとマリエットに会ったはずだから、その時に何かあったのだろう。
「マリエットは悪人からもトイファーからも守りますので、ご心配ありません」
隊長の言葉に、
「何故、トイファー」とムスタファ様。「いや、いい。そうだな、守っておけ。彼女は困っている」
はっ、とかしこまる隊長。
その様子からはどう考えてもマリエットの恋は成就しそうにない。
「詳細な行動計画を立て、書面で提出致しましょう」
どこまでも真面目なシュヴァルツ隊長。
「必要ない。休日の外出だろう。みなで楽しんで来い。その方がカルラへの土産話にもなる」
「有り難き、お言葉。警護を第一にして、楽しませていただきます」
シュヴァルツ隊長にしては柔軟な返答に私は驚いたが、ムスタファ様がどう思ったのかは分からない。ただ、隊長が帰ったあとのムスタファ様は更に不機嫌になったように見受けられたのだった。
恐らく自分が一緒に買いに行きたいのだろうと推測するが、ムスタファ様は何も話してくれないので、本当にそれが原因なのかは分からない。
いつまでも拗ねられているのも面倒だから、早いところマリエットと仲直りをしてもらいたいのだが。
ずっと窓外の夕闇を見つめているムスタファ様を見る。
「帰ったら、お出かけお夜食セットを用意しましょう」
「いらん」
ぶすっとした声。私を一瞥もしない。
ファディーラ様のことでダメージを受けているくせに強がって、マリエットと喧嘩までして。確かにフェリクス殿下の言うとおり、呆れるほど意地っ張りだ。
昨日、レオン・トイファーに『背水の陣』との発言の意図を尋ねた。だけど彼は
「木崎先輩には教えたくありませんから、あなたにも話しません」
と言って教えてくれなかった。挙げ句に
「僕が猛攻をかけても彼は困らないでしょう?」なんて言ったのだった。
昨日のムスタファ様は平静な状態ではなかったから伝えなかった。今日も私と話したくなさそうだから機会を逸している。だけど。
ムスタファ様が足踏みをしている間にレオンが先んじてしまうのではないだろうか。
マリエットがキザキのことを相談するならアヤセが最適ではないか。
それともムスタファ様はそんな心配はしないのか。
あれこれと突破口を考えて、
「では明日の髪係りは他の侍女にしましょうか」と意地悪く尋ねてみる。
するとムスタファ様は視線だけ私に向けた。
「必要ない」
鋭く断じて、また外を見る主。
「こんな不機嫌なあなたの世話をしなければならない彼女が気の毒だと思うのです。歩み寄るつもりがないのならば、しばらく距離を置いたらいかがでしょう」
「……誰もそんなことは言っていない」
ぼそりとした声音に、私はわざとらしくため息をつく。
「みな、うるさい」ムスタファ様が面白くなさそうに言う。「何故口を出す。前世なら、あいつと私が口論していても放っておいてくれた」
「誰にも邪魔されたくないということですか」
「そうじゃない。余計な奴らがいるから、ややこしくなると言いたいだけだ!」
「あなたが彼女を怒らせなければ、そもそもややこしくならなかったでしょうね。マリエットが心配していることぐらい、分かりますよね、子供ではないのですから」
こちらを向いたムスタファ様の顔が険しい。
「宮本とはライバルだった! 親のことで悩むなんて情けない姿は見せたくない!」
「子供としか言い様がないですね。本当に前世の享年は三十ですか?」
彼はまたふいと顔を逸らす。
「八年、そうだったんだ。今更……」
そこで途切れた言葉は、いつまで待っても続くことはなかった。




