〜愛犬レック〜
ひーおばあちゃんの家ではシベリアンハスキーを飼っていた。名前はレックス。恐竜にちなんで名付けられたらしい。愛嬌のあるこのレックスは、みんなにレックと呼ばれとても可愛がられていた。レックが、自分が狼のような、いかつい外見をしていることをまるでわかっていない様子なのが、私には微笑ましかった。大きな身体をしているのに、マルチーズに怯えるなど、小型犬でさえ怖がってクンクン鳴いてしまう。気が小さく、近所の野良猫に自分のエサを食べられていても、舌を出してハァハァ言いながら眺めているだけ…。
とはいえ、レックのそんな性格が初対面の人にわかるはずはなく、例えば、宅配の荷物を届けてくれる人が怯えてしまい、「あのー、大変言いづらいんやけど、犬が怖くてはいられんのやわー」と言ってくることもあった。見た目は怖いけど、臆病で凄く優しいレック。
私はレックと遊ぶことが大好きだったし、幼い頃一人でトイレに行くのが怖かった時はいつも「レック〜」と呼んでいた。するといつも近くにいてくれたレックが、重りを引きづりながらも、私がトイレにいる間見守っていてくれた。
用を足し終えると、私は「ありがとうレック〜」と頭や体中を撫で、今度は私が重りをもち、ヨイショショイショと精一杯の力で元に戻す。そんな思い出を振り返ると、微笑ましくもあり、切なくもある。
オモチャの車のハンドルを外し、ピーピー鳴らせばレックは遠吠えをして歌ってくれた。私がオモチャのピアノを弾けばレックもまたそれに合わせて歌ってくれているように思えた。
そんなレックにも、仲のいいワンちゃんがいた。ゴールデンレトリバーの老犬。互いにお尻の匂いを嗅いでは静かに近くに座り寄り添っていた。何を伝えているのか?…と気になっていたが、犬どうしにしか通じないこともあるのだろう。お互いにすごく心を開きあっていることは、レックの安心しきった表情からも読み取ることができた。
意外なことに、レックも昔はやんちゃな子だったらしい。ひーおじいちゃんと雪の日に散歩をしていたときのこと、シベリアンハスキーの本能がそうさせるのか、大はしゃぎで駆け回り、どうにも手に負えなくなり、ついにはレックがリードを引く力に負けて、ひーおじいちゃんは転んで怪我をしてしまったらしい。
しかし、レックも老犬だ。突然、寝たきりになり、獣医からはもう長くはないと宣告された。入院中のレックに、私は毎日会いにいった。弱り切ったレックに、天国について語ったこともある。私の気持ちはどれだけレックに届いていただろうか。
「天国は何の苦しみもない、楽しいだけの場所だよ。レックの好きなものがいっぱいあって、何もこわくないよ。だから大丈夫」
私はレックに、行ったこともないはずの天国について教えていた。幼心にもレックがもうすぐ死を迎えるだろうということには気づいてしまっていたし、レックもまたそれを怖がっていたのか、みんなと離れるのが怖かったのか…レックとの残り少ない時間、私はレックの気持ちを一生懸命読みとろうとし、私なりの言葉で語り続けた。
レックは私の目をじっと見つめてくれた。私は今にも泣きだしそうな気持ちをこらえながら、ずっと話しかけたり、撫でたり、肉球を握りしめたりを繰り返していた。
「何も怖くないよ。大丈夫だよ」
そんなことがあった次の朝、私の言葉に安心したように、レックは息を引き取った。母親やひーおばあちゃん、ひーおじいちゃん、親戚や近所の人たち、友だち、そして誰よりも私自身が、レックの死を嘆き悲しんだ。もう目を開けてくれることはない。もうあの優しい目を見ることはできない。もう、あの遠吠えを聞くこともできない。
レックは今、亡くなった動物たちを弔う共同墓地の中で永遠の眠りについている。レックには色んなことを教えてもらった。分かちあったやさしい気持ちや、一緒に奏でた音楽のことは生涯忘れることはないだろう。そして、どんなに強くても弱い者にはやさしく接するものだ、ということをレックから教わった。
私の家は一気に寂しくなった。ひーおばあちゃんがレックのご飯を作ってしまっていたこともあった。「ばあちゃん、間違えて作ってしもうたわ!」と明るく笑っていたが、台所に目をやるとひーおばあちゃんは身体を震えさせ、目に涙をためていた。
近所の人から、新しい犬を買うようにと勧められたが、「新しい犬はいらん。わたしらの犬はレックだけや。他の子はいらんのよ」と母たちがムキになって反論していた。私は母たちがあんなに感情をむき出しにしたのを見たことがなかったので、驚いたが、私も同じ気持ちだった。当時の私は7歳。今でもレックの写真は大切に保管している。
今年22歳になったばかりの私。
子役として芸能活動をスタートさせ,周囲の注目を浴びていた華やかな時期もあったものの,そこからの転落はあっという間のことだった。
中学への不登校に始まり,14歳でアルコールに依存するようになり,17歳の頃には違法薬物にまで手を出してしまった。
待っていたのは,精神疾患との長い闘いの日々だった。その闘いは今も続いている。それでも自分にしかできない〝何か〟を見つけたかった。
自分を表現して人に伝えたいという気持ちは人一倍強い私は,ドキュメンタリーを書くことを思いついた。
そのためには,自分では消してしまいたい記憶を,順序立てて整理していかざるをえなくなった。フラッシュバックを起こしたり,記憶が断片化して思い出せない自分に落ち込んだりで,たったの一文字も入力できない日もあった。集中力が続く時間も限られていた。
それでも,今自分と向きあうことができなければ,私は一生このまま浮上するきっかけを失ってしまう。そんな気がして,自分の体調と相談しながら,過去の自分に正面から向きあい続けてきた。自己分析をしていくうちに,今なら人生の再スタートラインに立てるような感覚が生まれ,同時にそれを支える勇気が自分の中から自然にわいてきたことにも気がついた。
自分の反省。そして,自分と同じような境遇の人が立ち直ってくれるきっかけになってくれればという思いで,嘘偽りのないノンフィクションをここに綴っていく。書いていく内容は,ふつうは起きないようなこと,信じられないようなことの連続かもしれないが,事実は事実として包み隠さず伝えていこう。もう他の誰にも,私のような苦しみを味わってほしくないのだから。
〜母親と私の壮絶な過去〜