幼稚園時代
私は小学校6年間、話さなかった。
幼稚園の時は、声は小さいながらもかすかに喋っていた記憶があるのだが、いつからか話さなくなった。
もともと、うちの母は厳しい人だった。
やれ声が小さいだの、やれうるさいだの、やれ泣き虫か、お漏らしかと、とにかく家の中でも外でも恐い人だった。
対照的に父は大変優しい人だった。
いつも無口で不器用ながらも、怒られた日には察して遊んでくれたし、テレビをつけて横になってる大きな背中によじ登るのが好きだった。
母は浮き沈みの激しい人で、年に何度か「大不況」が訪れた。
「大不況」に陥ると自分の部屋に閉じこもって出てこなくなり、出てきたと思ったら、晩ごはんのこびり付いた皿や茶碗やコップを、無言でバリバリ叩き割った。
それがいつも怖くて怖くて、隣で黙って見つめている兄を尻目に毎回泣いていた。
「大不況」に陥る前には、必ず前兆がある。
急に落ちるのではなく徐々に悪くなっていくので、できるだけそれを下げないようにと必死になっていた。
ご機嫌をとったり、機嫌が悪くなる事は極力避けるように行動した。
幼稚園時のある時、母に連れられ近所の「くもん」という塾に行った。
古い建物で、靴を脱いで上がり、ちゃぶ台ほどの低い机で座って受けてる子が多いようなところだった。
私もそこの一番後ろに座らされ、「こくご」の教材を渡され、音読するよう言われた。
私は何も言えなかった。
プリントの字をまっすぐに見つめながら、まるで母に「ただいまは?」とか「おかえりなさいは?」とか「ありがとうは?」とか「ごめんなさいは?」とか言われて何も言えないように、喉に詰まって何も出てこなかった。
しまいには先生が自ら読んで促してくれたが、それでも読めなかった。
背中越しに母のイライラは感じ取れた。
痺れを切らした母が 読みなさいよ!と怒鳴っても、何も言えなかった。
その日はそれで帰った。
道中どんなだったかは全く覚えてないが、家に着いて上がった時、内職のダンボールが積まれた壁の向こうで、これまで聞いたこともない大声で、「なんで読まないのよ!!!」と叫んだ姿は覚えている。
それから何度か行って試みただろうが、おそらく読まなかったので、その後はずっと「音読なし」の授業を受けることになった。
くもんにも一人で行きなさいと言われ、一度しか通ったことのない、うろ覚えの道を探り探り歩いた。
幼稚園は幼稚園で苦労していた。
朝バスで送迎されて連れられるが、教室に入ることができなかった。
私の母の部屋は平屋の一番奥を右に曲がったところにあるのだが、母や兄に「謝れ」と言われ、かといって怖くて戻る事もできずにぐずぐずと母の視界のギリギリ外を何十分も息を潜めて立っていることが多かった。
そんな習慣なせいか、既に人がいる部屋に入るのは、視線を向けられるのも含め、怖くてできなかった。
怒った母の部屋が「負の空間」であったように、私にとって人のいる部屋はそれだけで「負の空間」でしかなかったのだ。
そんなわけで教室の入口で入るとも出るともしない、ただ勇気がなくて突っ立ってばかりいると、世話焼きな女の子が数人寄ってきて教室に連れ出し、カバンを取って制服を取って、部屋着を持ってきて着替えさせてくれた。
後々の母の証言では、参観日に行くと教室の入口で数人が寄ってきてパパパッと着替えさせ、自分はほぼ突っ立っていただけだというから、毎日それをやってもらっていたのかもしれない。