夢に見た異世界
僕が目を開けて、最初に見たものは紫がかった黒い髪の女の子だった。歳は5~6歳程度だろうか、僕の年齢は確か、覚えている限りの中では25歳だったから、20近くも離れた幼女に道端で揺すり起こされたことになる。
なぜこんな道端なんかで揺すり起こされているのだろうか。等と不思議に思いながら周囲を見渡して見ると、そこはただひたすらに広いだけの砂漠のようだった。あぐらをかいて座ってみて、真っ黒い砂が辺り一面を覆っていることに気づき、ここは一体どこなのだろうと脳裏に過ぎった。
しかし、他にも様々な疑問が思い浮かぶ。僕は背中についた黒い砂を叩き落としてから、煌々と燃え盛る太陽に手をかざして目の前に座る女の子を見つめ、しばし考察してみた。
よくドラマなんかで酒に酔って道端に倒れるみたいな展開を目にするが、僕の場合それは有り得ない。僕には足が無いからだ。というのも、何らかの理由により元々あった足を文字通り失ったのだ。とはいえ、足が無いことは覚えているのに、何故足を失ったのか、いつ失ったのかについてはどうも思い出せなかった。色々と思い出せない事にもどかしさを覚えたが、それでもはっきり分かることは、少なくとも僕は道端で寝そべるようなことはしない人間だという事だ。第一に酒を飲まない、筈だ。少なくとも酒を飲んだ記憶が無い。そして次に僕は常識人だ。道端で寝るなんてやるはずが無い、と信じたい(というのも記憶がないので断言できないのだ)。というか、足がなくて外に出られないのだから、道端で寝そべるなんてやろうと思っても出来るはずがないのだ。
ところがたった今、どこかの特徴的な民族衣装のような、ドレスと着物を足して二で割った様な見たことも無い衣装を身につけた少女は、確かに道端で寝そべる僕を揺すり起こしたのだ。
「ねぇ、大丈夫?こんな所で倒れちゃって……平気?」
少女……と言うより幼女は、僕の顔を覗き込んでそう訊ねた。その瞳は髪の色と同じで、黒と紫が入り混じった不思議な瞳だった。
「だ、大丈夫。ありがとう」
僕がそう答えると、幼女はニッコリと笑って頷いた。それから小さな瓢箪の様な容器を肩から外し、僕に手渡ししてくる。
「初めまして、私の名前はアリスよ。ねぇ、こんな暑いところで倒れてて、喉乾いてない?これお水だから、飲んで?」
そう言われたので有難く頂戴し、瓢箪の中の水をクイッと喉の奥へ流し込んだ。
「苦っ」
若干苦味……というか臭みのある水だった。恐る恐る手にこぼして見ると、その水はどこか黒っぽく濁っており、墨汁を水で薄めたような臭いがした。
「ごめんね?ブレーメンの奴が、『この辺りの水は腐っているので炭で浄化しましょう』なんて言うもんだから、こんな水しかないの。許して?」
僕の反応に申し訳なく思ったのか、どこか『ブレーメン』という人間に対して憤慨した様子でアリスは謝った。その姿が何故だか可愛らしくて、僕は思わず微笑む。
「あ、笑った!ねぇねぇ、君の名前はなんて言うの?」
僕の笑顔が嬉しかったのか、久方ぶりに他人と話せた登山家のように、彼女は前のめりになって顔を覗き込んでくる。いくら幼い少女だからとはいえ、そんなに顔を近づけられると恥ずかしいものがある。僕は慌てて顔を伏せ、赤らむ頬を隠しながら名乗ろうとした。
「僕の名前は…………」
そこでピタリと言葉が止まる。僕の名前はなんだっけか。思い出せない。僕はどんな名前をしていたんだ。確か日本人だったことは覚えている。僕が25歳だという事は覚えている。走るのが大好きだったのに、足を失ったことは覚えている。5歳の頃父に読み聞かせてもらった『走れメロス』が大好きだったことは覚えている。
でもそれ以上は思い出せない。自分の名前も、両親の顔も、好きな食べ物も、僕がなぜここに居るのかも。
記憶がすっかり削げ落ちていたのだ。これが記憶喪失という奴だろうか?僕がここにいる理由、僕はいったい何者なのか、僕はどこから来たのか、すべて思い出せない。
しかし、僕の気持ちなど知らないといった表情で、アリスはニコニコと僕の瞳を覗き込んでいた。なにか答えなくては、なにか、なにか答えよう。名前、名前、名前。
突然ズキズキと頭が痛くなってきた。夢を見ている時も似たような痛みを感じたのを覚えている。後頭部辺りが熱を持って、ガンガンと鐘を鳴らすように全身に刺激を打ち鳴らすのだ。
それでも僕は、この痛みを少しでも幼女に悟らせまいと耐え、必死に名前を思い返そうとした。大切な事を沢山忘れている気がして、不安に押しつぶされてしまいそうだった。でも、僕の安否を想い、小さな瓢箪の水を分けてくれた優しい幼女にまでこの不安を押し付けたくはなかった。
しかし、僕の努力も虚しく、僕の表情を見たアリスは段々不安そうな色を顔に浮かべ始めた。どうやら平気さを装ってみても、僕の顔は嘘をつけなかったらしい。こんなに小さい子でも分かるほどに僕は痛がっているのか。なにか安心させなくてはと思うが、頭が痛くて思い出すことはできそうに無かった。そこで僕は、唯一思い出せた名を口にした。
「僕の名前はメロスって言うんだ」
それから精一杯の作り笑いを浮かべてみせる。25歳にもなって、幼女を不安にさせてどうするんだ。そう自分を叱咤しながら、彼女の不安そうな顔をかき消させようと片手を差し出す。
「よろしくね?」
それを見て、安心したのかアリスも手を差し出してきた。握手だ。アリスという名前や衣装から、外国とかに居るのかと思ったが、日本語が通じることや、握手の概念があることから、どうやら彼女の名はただのキラキラネームで、衣装は親の趣味のコスプレか何かだろうと判断することが出来た。
後は、なぜ僕が道端で寝そべっていたのか、ここは何処なのか、そして自分は誰なのか。大事なことは思い出せないのに日本語は喋れるし『走れメロス』なんて大したこと無いものは思い出せる理由は何故か、そういった謎を調べる必要がありそうだ。と言うより、思い出せば済む気がする。今は頭が痛くてどうも思い出すことは出来なかったが、それは熱中症とかでよくある脱水症状の一種だろうと判断できる。つまり今一番知りたいのは、ここはどこかという事だ。それさえ分かれば、きっとそのキーワードが引き金になって思い出せるはずだ。
何かを忘れた時、悶々と思い悩むよりも、ふと聞いたどうでもいい事が引き金になってあれよあれよと思い出せることが多々ある。ほんの小さなド忘れは、そうやってあっさり単純に思い出すのが一番なのだ。等と判断した僕は、アリスの方を向いて細く笑い、「ここはどこだい?君の家族は?」と聞いてみた。
「ここはリブレス村の外れにあるリブレス黒砂漠よ?私の家族は……うーん、家族って言っていいのかわからないけど、今リブレス村の後片付けしてると思うわ。私は休憩してブラブラしてたの」
そう言って彼女は太陽と反対側の方角を指さした。
「あっちがリブレス村。ねぇ、君は旅人さんなの?もしかしてリブレス村を目指して来たとか?私と同じくらいなのに大変ね。とりあえず今あの村は危ないから行かない方がいいわよ?あ!それとも向こうの村から逃げてきたのね?大変だったでしょ?それに……変わった言葉ね。初めて聞いたわ」
アリスは純粋な気持ちで聞いたのだろう。だが、彼女の質問は僕の不安をさらに煽った。
まず第一に、僕には足が無い。それを見た上で旅人かどうかなんて聞くだろうか?足のない人間が一体どうやって旅をして回るのだ。
そう思った僕はふと自分の足を見下ろした。そして気がつく。自分の足が、ひょっこりそこにあるという事に。また、不思議なことに小さくて可愛らしい足が生えているのだ。どうして今の今まで気づかなかったのか不思議に思うが、気にならないほど自然に足があったのだから仕方がない。
それでもこうして座った状態で足を見下ろすと不思議な気分だ。25歳とは思えないほど小さな足、さらに足の上に置かれた僕自身の手も小さく見える。
そして第二の不安、リブレス村とは何だ?リブレス黒砂漠なんてどこだ?聞いたことのない単語が僕を支配していた。
そして最後の不安。彼女は僕を見て「私と同じくらいなのに大変ね」と言った。僕は25歳で、目の前にいる幼女はあからさまに5~6歳程度だ。そんな小さな娘が、25のおっさんを見て「同じくらい」なんて表現をするだろうか。そもそも幼女の身なりはしっかりしている。コスプレ風ではあるがいい暮らしをさせてもらっている事は想像つく。そんな彼女が歳上に対して突然タメ口で話しかけるだろうか。育ての悪い親なら恐らく失礼な娘が生まれるのだろうが、少なくとも彼女は道端に倒れた僕の身を心配するほどには優しい子だ。それが敬語というものを知らないのだろうか?もちろん、まだ幼いから会話言葉しか分からないという可能性だってある。しかしそれで納得できるほど僕の不安は浅くなかった。
僕は慌てて彼女の頬を両手で押さえつけ、その瞳に映りこんだ僕の像を見た。
そこに映し出されていたのは、5~6歳位の、幼き自分の姿であった。短髪でどこか弱々しい瞳を持った、ガキの頃の自分が、アリスの瞳に映っていたのだ。
「嘘だろ…………なぁアリス、変わった言葉を使うって……いったいどういう意味だ?」
「そのままの意味よ?私はあなたが使っている言葉を初めて聞いたの」
動揺を隠せない僕に、アリスはニッコリと笑って口を開き、今度は「これが私たちの普段使う言葉よ」と前置きして声を発した。しかしその言葉は言葉として聞き取るにはあまりにも無理があった。まるで声が文字化けしたみたいに、めちゃくちゃな、予測不能の文字列が彼女の口から溢れ出したのだ。英語でもない、中国語でもない。少なくとも僕が聞いたことのない発音、音程。人の言語とは思えない異様な言葉に、僕は恐怖を強く感じた。
さっきまで日本語で話していた幼女が、突然言葉を逆再生したような、早送りしたものを音程だけ元に戻したような、聞き取ることすら困難な言語で話し始めたのだ。
その異常性、この場所がどこか分からない恐怖、自分の肉体が若返っている異様さ。それらが僕の中枢を乗っ取り、僕は慌てて立ち上がると彼女の元から逃げ出していた。
理由は単純かつ明快だ。怖いのだ。ただ単純に、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い!
その感情だけが僕を支配していた。
背後から「待って!」と日本語で声が聞こえたが、少女のその声が偽物だと思うと、振り向く気にもなれなかった。
僕はただひたすらに走り続けた。失ったと思っていた足を力いっぱい動かして、まだ子供の頃と大差ない身体にムチを打って、とても久しぶりに地面を蹴った感覚だけが、どこか懐かしく、3分ほど駆け抜けてようやく僕の恐怖は腰を下ろしてくれたらしかった。
僕は息を切らしたままそこに立ち止まり、周囲を見渡す。先程起きた場所と、別段景色に違いは無かった。ただ広いだけの灰色の砂が、どこまでもずっと広がっているだけだ。そして運がいいのか、僕の進行方向には小さな村が見えた。と言うよりそれを見つけたから僕は走るのを辞めたのかもしれない。僕は呼吸を整えてその村を目指して歩きはじめた。
ジリジリと太陽が背中と地面を焼いていて、ただ暑いばかりだ。この周囲に川などがあって水が流れている等といった気配すらない。ただ暑いばかりで生き物が居そうな様子すらない。そんな中、汗を勿体ない程にこぼしながら僕は歩いていた。
ただ純粋に、ここはどこだろうと考えながら、時々振り返りアリスが追いかけてこないか不安になりながら、僕はその村を目指していたのだ。
その村は思っていたよりも近かったらしく、案外呆気なく付くことが出来た。そこで安心しきった僕は、村人が誰もいない事を不審に思うわけでもなく、一番近くにあった井戸の水を汲んで喉の乾きを潤した。
バケツいっぱいの水を飲み干してから、大きく息をつく。頭を使うのをやめたからか、水を補給したからか、もう頭痛は鳴り止んでいた。そこで安心しきったのだろう。僕の瞼の裏側から、不意に眠気がやって来て、僕は疲れと眠気に身を任せて横になった。
そのままぼんやり空を眺めると、黄色い雲の間を羽の生えた魚のような生き物が泳いでいるのが見えた。それを見て僕は「あぁ、ここは僕が知っている世界じゃないんだな」なんて呑気に考え、そのまま眠りについた。
先程の少女、博物館でも見たことのない砂壁で作られた家屋、見たことのない作物、聞いたことのない風景、動物。それらが僕に現実離れした結論を与えてくれた。
どうやら僕は、異世界に居るらしいということを。