第八話 花開く蕾
町を歩くこと数十分。
木材と鉄錆の町から一変、気が付けば僕は仄暗い通路を歩いていた。
不気味なほど静かな空間に足音だけが響く。頭上には錆びた鉄板やら何やらが埋め尽くされており、空の様子は見えない。僕は今町の下層にいるのだ。
「少し寒いですね。エヴァ様」
ひやりと頬を撫でる風は冷たく、鉄臭い。
道の先をゆくエヴァ様から返事はないが、この状況にも慣れつつある。どうやらこの通路は歪な町の下に張り巡らされた地下道であるらしく、現在ではあまり使われていないようだ。
点々と切れかけの電灯が点いている以外に明かりも無く、薄暗い通路に人の気配はない。エヴァ様は静かな場所が好きなのだろう。この通路に入るまでほとんど会話らしい会話をしていないが、本人にその気が無いのだから、わざわざ絡もうとするのは野暮であろう。散歩ならもう少し日当たりのいい場所を歩いたほうが心地よいと思うが、僕も個人の好みに口を出すほど愚かではない。
「……」
ふと、エヴァ様は立ち止まり、ガラクタを押し込めて固めたような壁に目を向ける。今まで歩いてきた通路のそれと何ら変わりのない、ただの壁である。数歩遅れた僕が追いつくと同時に、エヴァ様は至極当然と言った調子で壁に打ち付けられた鉄板の角を掴み、ぐいぐいと引っ張り始めた。
「……あの、エヴァ様? 一体何を……」
「……」
ちらりと、物言わぬ瞳が僕を見る。手伝え、と。仕方あるまい。断る理由もないかと並んで共に鉄板を引き剥がす。打ち付けられてはいるが固定されているとは言い難く、刺さっている釘も緩い。さらに鉄板自体が非常に薄く、何度か力強く引くだけで剥がすことが出来た。
鉄臭い風と共に、底知れぬ暗闇が僕を出迎える。
鉄板の裏側には、大人がどうにか通れる程度の狭い通路が伸びていた。
明かりらしい明かりもなく、通路というよりは歪な町に偶然生まれた隙間としか言いようのないものではあったが、エヴァ様は少し満足げに息を吐いて踏み込んでゆく。どうやらここも散歩道らしい。
「ま、待ってくださいエヴァ様!」
僕は薄い鉄板をその場に置き、遠ざかる小さな背中を追う。踏み込んだ通路はやはり狭く、天井の高さや道の幅もバラバラ、さらに足元に裂け目があったり大きな金属片が壁から飛び出していたりとひどい有様だ。本来は通路ではなく、秘密の抜け道のようなものなのだろう。
今の僕に出来るのはあの背中を追うことだけだ。こんな場所でエヴァ様とはぐれたらそれこそ色々とまずい。
何にせよ必要な情報はひとまず手に入れた。後はこのお散歩を無事に終え、エヴァ様やスペクターさんに改めてお礼の挨拶をしてさっさとこの町を出よう。
かの大戦においても全くの被害を出さなかったヴェントが落とされたのだ。小さいとはいえ一つの街があの高さから地上に落ちればどうなるか、そんなことは考えなくても分かる。挨拶を済ませたらすぐに引き返そう。ヴァントまで引き返して母上を探すんだ。入れ違いになる可能性はあるが、じっとしていることなんて出来ない。
「……っと」
思考を巡らせながら歩いていると、唐突に通路が終わりを告げる。狭苦しい通路の果ては、少し開けた空間に繋がっていた。数歩先を往くエヴァ様に続いて、僕も通路から一段下がった広い床へ飛び降りる。
降り立ったその場所は、無数のパイプと鉄くずに埋め尽くされた広い通路のような空間。最奥に見える巨大な水槽の中には黒っぽい物が沈んでおり、根のごとく伸びる無数のパイプは全てその水槽に繋がっている。通路の壁際には、七体もの銅像が等間隔で並んでいた。
「ここは……」
「積み重なった町の隙間よ。ここは、私のお気に入りの場所なの」
最奥に向かって歩いてゆくエヴァ様の後を追いつつ、立ち並ぶ銅像を一つずつ眺めていく。
まず目に入ったのは、無数の屍の上で祈りを捧げる少女の像。巨大な鎌を担いだ死神の像や、液状の体を持つ少女の像。咲き誇る薔薇の中に佇む女性の像。見上げるほどに巨大な騎士の像。細長く鋭い脚で巨体を支える大蜘蛛の像。そしてとぐろを巻く扁平な蟲の像。どれもこれも不気味な像ばかりだ。
「……魔将軍の像よ。よく出来ているでしょう」
エヴァ様が吐き捨てる。
そうか、これは、魔将軍を象った物。三十年前、各地で猛威を振るった規格外の怪物たちの姿か。ということは、この端に建っている物が、アスカの真の姿。魔将軍アスカトレスの像か。鋭く頑強な甲殻と巨大な大顎、そして無数の脚を持ち、その扁平な巨体は街の端から端まで届いたと言われている。蟲が苦手な僕からすれば、想像するだけで身の毛がよだつ。あいつが人型で本当に良かった。
どうしてこんな場所に魔将軍の像が建っているのかは知らないが、巨大な怪物の像が立ち並ぶ様はどこか形容しがたい雰囲気に包まれている。というよりエヴァ様は何故こんな所に……。
「……今日も、元気そうね」
通路のような空間の最奥。エヴァ様と共に視線を向けたその場所に、巨大な刃が光る。
僕の身の丈を優に超えるほど巨大な水槽の中には青みを帯びた液体が満たされ、剣と表現することすら憚れられるような凶刃が沈んでいる。
それを改めて目の当たりにした僕は、そのあまりに歪で凶悪な様相に本能的な恐怖を感じずにはいられなかった。いくつもの武器を無理やりひとつにしたようなその武器の素材は、石でも木材でもなく、はたまた金属でもない。強いて言うなら、肉片である。
青い液体の中に沈むその刃は時折脈打ち、水槽の中に黒ずんだ波紋を広げている。うまく言葉に出来ないが、とても恐ろしい何かだということは分かる。どこまでも歪で、醜悪なその刃に、僕は思わずごくりと唾を呑む。
「……『焔帝の爪』よ」
脈打つ刃をじっと見つめ、エヴァ様はぽつりと言葉を紡ぐ。
「あなたは、かつて焔帝と呼ばれた魔物を知っているかしら」
「いえ、知りません。その魔物が、何か?」
「そう。やっぱり、知らないのね」
そう呟いたエヴァ様は水槽に手を当て、ふっと微笑んで言葉を重ねる。炎に類する魔物は数多くいたが、そんな二つ名付きで呼ばれた魔物なんて聞いたこともない。
「そんな魔物が、居たんですか?」
「居た……そう、居たのよ。燃え盛る憤怒の具現、暴力と破壊の権化、『焔帝ディアベルゼ』……確かに、存在していたわ。だけど今は、誰も知らない。人々の記憶からも、人類の記録からも、抹消された……居なかったことにされたの。何故かしらね?」
「さ、さぁ……?」
「ふふ。やっぱり分からない……知らないのよ。あなたは何も」
くすくすと微笑むその表情に、ごくりと唾を飲む。なんだか、様子がおかしくないか。居城に居た時や、町を歩いていた時とはまるで別人じゃないか。それについ先程から、首の後ろの鳥肌が収まらない。何か、嫌な予感がする。
「さて、それじゃあそろそろお喋りは終わりにしましょうか」
エヴァ様は張り付いたような笑みを浮かべながら、僕に一歩近づく。ハッと気が付くと、その手には錆びた鉄棒が握られていた。
「エヴァ、様……?」
「安心して。殺しはしないから」
そう呟いたエヴァ様は、音もなく鉄棒を振り上げる。
その瞬間には既に笑みは消えており、居城で見たものと同じく冷たくも美しい瞳が光っていた。
「――ッ」
大振りに、力任せに振り下ろされたそれを、右手のひらで受け止める。手のひらから肩に掛けて電気が走ったような痛みが駆け抜けるが、威力はそれほど強くない。僕は受け止めたそれを強く握り、ぐっと奥歯を噛み締める。
「……エヴァ様」
「抵抗しないで頂戴。出来ることなら、傷を付けたくないの」
鉄棒の両端に力が掛かる。
数秒ほど視線を交わした後、エヴァ様の硬い脚が僕の脛を蹴り抜いた。鋭い痛みに思わず鉄棒を手放してしまった僕の額に、鈍い痛みが走る。
「ぐ……ぁ」
振り抜かれた鉄棒をまともに受けてしまった僕は膝を折り、その場に倒れ伏す。
ガンガンと脳裏に響く衝撃は僕の意識すら削り取り、四肢の力が抜けてしまう。ぬるりとした温かい液体が頬を伝う。僕は、追い打ちに何度も振り下ろされる鉄棒から後頭部を守るのが精一杯であった。
恐らくは僕の意識を飛ばすのが目的であろう。だが意識を手放すわけには行かない。
どうしてこんな目に遭っているのか皆目見当もつかないが、幸いにもエヴァ様の腕力は決して強くない。これなら、抵抗できる。
「ッ……ぁぁああああ!!」
額の痛みを堪えながら、視界に捉えた細い脚に勢いよく拳を叩き込む。ベキンという音と共に、何かを砕く手応えを感じた。
「ぁ……」
微かな声が溢れ、小さな体がよろけて転ぶ。
それと入れ替わるように立ち上がった僕はすかさず鉄棒を蹴り飛ばし、小さなその背中を無機質な床に押さえつけた。
やっぱり、エヴァ様は力が弱い。倒れ伏したエヴァ様は声にならない呻きと共に手足をばたつかせるが、うつ伏せに押さえられた状態では何も出来まい。義体とは言え幼い少女を力づくで押さえ込むのは少し心苦しいが、そんなことを考えている場合ではない。
「どういうつもりです。エヴァ様」
「……」
しばらく抵抗していたエヴァ様はやがて大人しくなり、嫌気を孕んだため息を零す。
僕もそれほど大柄ではないが、体重を掛ければ抵抗を封じることくらいは出来る。こちらとしても片腕を潰す覚悟だったのだが、予想以上に弱々しい。
まさかこうもあっさりと組み伏せることが出来るとは。わざと力を抑えているのか、あるいは偶然弱っているだけか。あれほどの魔物を従えることが出来るならば、それ相応の実力者であることは間違いないだろうと思っていたが、違うのだろうか。
「どうして抵抗するの。大人しく眠ってくれればそれで済むのに」
「いきなり鉄棒で殴られちゃ、抵抗したくもなりますよ」
「……そう。やっぱり、背後から狙うべきだったわ」
悪びれる様子もなく、エヴァ様は言葉を紡ぐ。なんだか調子が狂ってしまう。鉄棒で殴られた憤りはあるが、大声で怒鳴りつける気にもならない。どうやら本当に僕の意識を飛ばすことだけが目的だったらしく、この人はこの人なりに手加減したつもりだったのだろうか。
「それにしてもあなた、中々力が強いのね。私の脚を砕くなんて」
「は、そりゃどうも――」
そう言葉を紡ごうとした僕の視界に、黒い薔薇の花びらが舞う。
押さえ付けていたはずの体はふっと消え、気が付けば僕も宙を舞っていた。
「――え」
ぐるんと、視界が回る。
天井と床が交互に移り変わり、全身を押し潰されるような衝撃と共に叩きつけられる。吹き飛ばされたのだと気づいたのは、床を二転三転した後であった。
硬い床に四肢を放り出し、揺れる意識の中で押し寄せる痛みを噛み殺す。体が動くことに微かな安堵の息を溢し、立ち上がろうとした僕の体が、再び打ち上げられる。視界に映ったそれは、黒く巨大な悪魔の指先。腹を貫くような衝撃に、僕は抵抗すら許されずに宙を舞う。
「がは……ッ」
浮き上がった僕の体が、鋭い追撃に床へと叩き付けられる。全身の骨が悲鳴を上げると同時に、僕は胃の中身をぶち撒けた。無様にも投げ出された手足が、ぴくりとも動かない。津波のごとく全身を揉み砕く激痛に、僕はかろうじて意識を保つのがやっとであった。
「何をしていたの。スペクター」
「申し訳ございません。脚の調達に少々手間取りまして」
亜空間から突き出した巨大な黒い右手。付け替えられたばかりの真新しい陶器のつま先が、ぐっと僕の顔を踏みつけた。
「これなら抵抗できるかもしれない、なんて……思った?」
「……エヴァ、様……あなたは、一体」
「いいわ。改めて自己紹介してあげる。私の名前はエヴァローズ・グロリア・ローゼンブルク。あなたにも分かるように言うなら、そうね。魔将軍エヴァローズとでも言えばいいのかしら」
「……!」
――魔将軍エヴァローズ。その名前は確かに聞いた覚えがある。
巨大な影の眷属を従えた古城の守護者、『ローゼンブルクの大薔薇』だ。
アスカことアスカトレスと同じ、かつて人々に恐れられた魔将軍の一角である。どうしてもっと早く気付かなかった。スペクターは従魔なんかじゃない。それよりもっと近しい存在、眷属だったんだ。
「よろしいのですか。わざわざ正体を明かすような真似など」
「どうせすぐに忘れることになるわ」
倒れ伏す僕の顔を踏み、エヴァローズはため息をつく。
「そんなことより、この体。もう少し頑丈にならないの?人間の子供に砕かれたわ」
「脆い陶器製に拘るのが原因かと。そろそろ鉄製に変えてみては」
「嫌よ。臭くて重いんだもの」
そんな言葉を交わしながら脚を付け替えたエヴァローズは床に降り立ち、付け替えたばかりの硬い脚で再び僕の顔を踏み付ける。痛くは無い程度の力加減で僕の頬を捏ねる爪先も、その時ばかりは嬉しくも何ともなかった。
「うっ……ぐぐ」
「あら、呻く程度の元気はあるのね。生身の人間にしてはしぶといじゃない」
僕を踏みつけて微笑むその姿はこれ以上ないほどにハマっていたが、そんなことに意識を向けることすら苦しい。だが、少しづつではあるが意識も落ち着いてきた。ぺトラさんとの地獄のような稽古に比べればこのくらい、どうという事はない。
「まだ殴りかかってくる元気があるなら、受けてあげてもいいわよ」
巨大な影の指先に腰掛け、僕の顔を踏みながら嘲るように笑うエヴァローズ。僕はぐっと奥歯を噛み締めながら、上着のポケットをまさぐった。
(何か、無いのか……何か……!)
痺れた指先に触れる財布。これは、二つあった財布の片方。その下に埋もれていた小さく硬いものを指で掴み取った僕は、心の中で歓喜の声を上げる。あった。これだ。これさえあれば、きっと何とかなる。
「なぁに?それ――」
エヴァローズが笛に気付くと同時に笛を咥えた僕は、全力で息を吐いた。
金属板を針で掻いたような鋭い音が響き渡り、広々とした空間に跳ね返っては重なり合う。耳鳴りを極限まで大きくしたようなその音に、僕は思わず腕の痛みも忘れて耳を塞ぐ。
「……ッ」
山彦のように響き合う轟音はその後しばらく反響し続け、壁や床を埋め尽くす鉄パイプがビリビリと震えて擦れ合い、無機質な音色を奏で続ける。なんて音だ。全力で吹いたのは僕だが、まさかここまで喧しいことになるとは。
響く音に傷口が震える痛みと頭が割れるような痛みを同時に味わいながらも耳を塞いで目を伏せ、ただ鋭い音が止むのを待つ。いや、耐えるというべきか。
やがて少しづつ反響する不協和音が収まり、僕が顔を上げると、何かを握り締めるように佇んでいた巨大な手がどろりとその形を崩し、その中から再びエヴァローズが姿を現す。先程までの余裕に満ちた雰囲気は微塵も感じられず、確かな怒気を孕んだ、それでいて落ち着いた表情を浮かべていた。
「……随分と、耳障りな音ね。今、何をしたの」
「僕にも、よくわからない、です……」
肺の空気を出し切った僕は深く息を吸い、ゆっくりと吐く。
悠長に深呼吸している場合ではないのだが、どうせ体はロクに動かない。どうやら骨は無事だが、重なったダメージが案外大きい。
「スペクターが反応したということは、何かの魔道兵器……? でも、魔力は無い……よくわからないけれど、とりあえずこれは没収しておくわ。私、五月蝿い物は嫌いなの」
エヴァローズは力の抜けた僕の口から零れ落ちた笛を拾い上げ、ぐっと握り締める。黒い薔薇の花びらがひらりと舞った。
「ぁ……」
エヴァローズは握ったその手を開き、取り出したハンカチで拭う。
その手の中に笛は無い。止める間もなかった。ペトラさんの大事な笛が、僕の目の前で失われてしまった。あぁ、また怒られる。きちんと謝らなければと考え始めた辺りで、ハッと我に返る。
そんなこと考えている場合ではない。問題はここからだ。手足を動かす程度の体力は辛うじて戻ってきたが、すぐさま起き上がれるかと言うと無理がある。
幸いにもエヴァローズは立ち上がることさえ出来ない僕を見張る気も無いらしく、ドロドロのスライム状になったスペクターを踏んだり引っ張ったりして反応を見ている。やがて何の反応もないことを確認すると、ため息をついて僕を睨みつけた。
「……よくも……よくもスペクターを潰したわね。出来ることなら、傷は付けたくなかったけれど……」
「ま、待ってください! 僕は今、とってもとってもすごい人を呼びました。僕を拘束するのは、その人を追い返してからでも遅くないと思いませんか」
我ながら苦しい時間稼ぎ。だが、効果はてきめんだ。
冷ややかだったエヴァローズの表情が憤怒に歪み、黒い薔薇の花びらが渦を巻く。不気味なほどに愛らしく整った姿は消え失せ、人の形をした何かがゆらりとその場に立ち上がる。無機質な無数の腕が伸ばされ、僕の体を掴み上げた。
「……あまり、調子に乗らないことね」
ひび割れた美しい顔に、紫の瞳が光る。魔将軍という肩書きは伊達ではない。ほんの少しの間共に過ごしたとは言え、相手は幾千幾万もの人間を蹴散らしてきた魔族の幹部だ。恐ろしくないといえば嘘になる。
「――ッ」
固く冷たく、細く鋭いその指が、僕の首にキリリと食い込む。煽らなければ良かったと、心の隅で後悔したその瞬間。
――空気が、震えた。