第四話 まどろむ浮遊都市
そうして山道を歩くこと数時間。
たどり着いたその場所で、僕は遥か天を仰いでため息をつく。
天を覆い尽くすのではと錯覚するほど巨大な多重結界と、その内側に佇む建物群。浮遊する結界の内部に豊かな水と光を湛え、地上を悠々と見下ろすその姿はため息が出るほど美しい。
――浮遊要塞都市ヴェント。
ベスティア最先端の強固な結界術式に守られた要塞都市。
現在ではその場に固定されてはいるものの、かつては虚空を自在に移動していたらしく、押し寄せる魔族の大群から首都ベルガを守ったと言われている。首都防衛の要となっている要塞だ。そんなヴェントは防衛拠点であると同時にベスティア三都市の一つであり、魔族との戦いにおいて、全くの損害を出さなかった唯一の都市でもある。
「母上。僕、ヴェントに来るのは初めてなんですけど、これどうやって中に入るんですか?見たところ、登れそうにありませんけど」
汚れた上着を着替えながら僕が尋ねると、母上がにこりと微笑む。
「この街は、地上から魔物が登ってこれないようになってるの。でも大丈夫。衛兵が居るから、すぐに足場を出してくれるはず」
「足場を、ですか……」
母上は巨大な球状結界に向かってぱたぱたと手を振るが、しかし何も反応はない。
「……」
数秒の沈黙。吹き抜ける風がさぁと頬を撫でた。
「……出てきませんね。足場」
「おっかしいわねぇ。前はすぐに出してくれたのにぃ」
首をかしげた母上が激しく手を振っても、胸を揺らしながら飛び跳ねても、足場とやらが出てくる気配はない。
母上と僕は顔を見合わせ、再び空を見上げる。山々を見下ろすほどの高さに浮かぶ巨大な結界は幾何学的な紋様を光らせながら静かに回るばかりで、しばらく眺めてもやはり何も起こらない。母上は頬を膨らませて腰に手を当てた。
「んもぅ、ヴェントの衛兵は何してるのよ。チャーリーに言いつけてやらなきゃ」
「見えてないんでしょうか。何か、こっちから分かりやすい合図を送れば……」
「いっそのこと撃ち墜としてやろうかしら」
「ダメですよ母上。何か別の方法を考えましょう」
僕はため息をつき、改めて魔導要塞ヴェントを見上げる。
それにしてもでかい。
流石に街をひとつ覆っているだけあって、近くまで来ると壁にしか見えない。これほど巨大な結界は一枚でもとんでもない量の魔力を必要とするだろうに、ヴェントの結界は多重結界である。
とはいえ、その結界が作動しているということは、要塞としての機能は生きているはずだ。これだけの術式を保つには決して少なくない数の人員が必要なはずだし、結界が生きているということは魔族に攻め込まれたというわけでもあるまい。
「……確かに、何の反応も無いのは変ですね。何かあったんでしょうか」
「大丈夫よソウジロウ。こんなこともあろうかと、便利なものをちゃーんと持ってきたんだから」
母上の胸元から取り出されたそれは、光り輝く手投げ玉。水晶のような玉の中に閉じ込められた眩い光が、今にも炸裂しそうな勢いで火花を散らしている。
「……何ですか、それ」
「ぺトラが作った閃光玉よ。強烈な閃光と爆音で相手の目と耳を同時に潰せるの。使い方はとっても簡単。これをこう、大きく振りかぶってぇ――」
「なんてもの投げようとしてるんですか。ダメですよそんなもの投げたら」
「やーねぇ、冗談よ。冗談。これ威力強すぎて、下手に投げると私たちもタダじゃ済まないんだから」
「じゃあなんで持ってきたんですか……ていうかペトラさんもよく作りましたね」
などと話していると、沈黙を保っていた魔導要塞ヴェントの結界がキリキリと鋭い音を立て始める。その音に顔を上げると、結界の側面に開いたゲートから小さな人影がぽんと吐き出され、光る羽を広げて僕と母上のもとへ降りてきた。
小さな体に銀の甲冑を纏い、身の丈より長い槍を背負った妖精だ。身長はペトラさんより一回りほど小さい程度だろうか。甲冑を着込んだ妖精は僕と母上の眼前に降り立つとその場で敬礼するような仕草を見せる。
「あら、チャーリーのとこの妖精じゃない。久しぶりね」
「知ってるんですか」
「この子はチャーリーの屋敷で働く用心棒よ。名前は確か、カトラだったかしら。この子が出てきたってことは、少なくとも衛兵は動ける状態じゃないみたいね」
身振り手振りで何かを訴える甲冑妖精カトラを眺めつつ、母上はそっとため息をつく。妖精族は元々、思念のようなもので意思疎通をするため、多くの妖精は人の言葉を喋れない。ぺトラさんのように人の言葉を喋る妖精は非常に稀有な存在なのだ。
「やっぱり何かあったんですよ。魔物に攻撃を受けてるんじゃ」
「ん~……この様子だと攻撃を受けたわけじゃなさそうだけど、異常事態であることは間違いないわ。どうやらチャーリーも手を焼いてるみたい。うふふ、馬車の用意はしてもらえそうにないわねぇ」
甲冑妖精に手を引かれるようにして、母上は困ったように微笑みながら歩いてゆく。
何やら厄介なときにきてしまったようだ。
僕が肩を落としながらその後を追ってゆくと、足を止めた甲冑妖精が背負っていた槍をひと振りして地面に突き刺した。
キンと音を立てて魔法陣が広がり、僕が立っていた場所まで広がった魔法陣はやがてふわりと浮き上がる。魔法陣は透き通っているため、遠ざかってゆく地面がよく見える。僕はなるべく足元を見ないようにしながら、巨大なゲートを開く魔導要塞を見上げた。
ゲートが閉じる音を背に、僕は改めてため息を零す。
幾何学的な紋様と共に張り巡らされた透明な通路。魔力で組み上げられた特徴的な家々。結界の遥か天井には人工太陽のような輝きが常に光を満たし、透明な通路の下には透き通る水が溢れている。なんとも美しい街だ。
これが魔導要塞の内部都市か。かつては空中を移動していたということもあり、街はそれほど大規模ではないようだが、この様子を見る限りこの結界の中だけで生活が成り立っているのだろう。考えれば考えるほどに、この街の魔法技術の高さには驚かされるばかりだ。
「ソウジロウ。ほら、あれ見て見て」
そう言って母上が指差した先。
本来であれば衛兵が業務をこなしているはずの屯所に目を向けると、四肢を投げ出して倒れ伏す男が数名。
着込んでいる服を見る限り、この街の衛兵であろう。毒に悶え苦しんだ末に命を落としたというわけではなく、むしろその表情は安らかである。その緩みきった表情はまるで、幸せな夢を見ているかのような。
「あの人たちは……寝てる、んですか……?」
「そうね。ぐっすり寝てるわ。ううん、眠らされてるのかも」
眠る魔術師たちを尻目に、魔法陣は進んでゆく。
甲冑妖精が操る魔法陣に乗ったまま半透明な通路を進んでゆくと、道端や露店、路地裏など、街のいたるところに住民が倒れているではないか。その表情はやはり安らかであり、争った形跡などもない。皆が皆、愛しのベッドで惰眠を貪るように、そこらの地べたに身を転がしているのだ。
「眠らされてるって、そんな馬鹿な……」
「ん~……これも魔法、なのかしら。だとしたらすごいわねぇ。うふふ」
「またそんな呑気なことを……」
魔法であるはずがない。
相手を眠らせる魔法は確かにあるが、相手の肉体や精神に干渉する類の魔法は術式が複雑だ。
それこそ、炎を具現化させて飛ばすような魔法とは比べ物にならないほど繊細な魔力操作が必要であり、その魔力の消費量も多い。ゆえに催眠などの魔法は総じて単体魔法である。複数人どころか、街ごと住民を眠らせるなんて、そんなことは不可能だ。人のなし得る技ではない。
何人の術師を集めたって、そんなこと出来るわけがないと考えを巡らせると同時に、僕はハッとした。導き出される結論に、僕は思わず息を呑む。
もし、人間じゃなかったら?
術師が人間じゃなければ、出来るのではなかろうか。
この状況を、生み出せるのではないだろうか。
途端に冷や汗が吹き出し、予測しうる最悪の事態が脳裏に浮かぶ。まさか。まさかそんな、と首を振るも、その可能性を否定してはこの状況を説明できない。
「どうしたの? ソウジロウ」
「ぇ、あ、いえ。何でもないです」
何でもなくはないのに、ちゃんと伝えるべきなのに、つい反射的に答えてしまう。そんな僕の頭を優しく撫でながら、母上は微笑んでくれた。
「そう。それよりほら、もう着くわよ」
その声にハッと顔を上げる。
やがて、光り輝く石で組まれた立派な建物の前で魔法陣がその動きを止めた。先に降りた甲冑妖精に手招きされるままに、僕は半透明な通路に降り立つ。どうやらここが目的地のようだ。
広い通路脇に佇むそれは、立派な作りの三階建て。
弧を描く屋根が特徴的な建物だ。見上げると、その美しさに思わずため息が漏れる。
「この建物は……」
「ヴェントの領主館よ。チャーリーとこの子が普段お仕事してるところね」
輝く外観を見上げる僕を横目に、母上と甲冑妖精は館の玄関から中へ入ってしまう。僕はハッと我に返り、その後を追った。
◆
「やぁいらっしゃい。久しぶりだね。マリア」
書斎と思わしき部屋の中。浮遊する椅子に腰かけ、本棚に手を伸ばしていた初老の男性がふっと微笑む。高位の魔術師であることを意味する紫のローブに身を包み、知的な眼鏡をかけた優しそうな男性だ。要塞都市ヴェント領主、チャーリー・ハドレッドその人である。
「元気そうね、チャーリー。あなたまた白髪が増えたんじゃない?」
「君は昔から何も変わらないな。よく来てくれた」
母上と軽い挨拶を交わした領主、チャーリーさんはふっと僕の方を見て微笑む。母上のそれと似た柔らかな微笑みだ。僕は思わずぎくりと身を強張らせてしまう。
「そして君が、ソウジロウ君だね。話は聞いているよ」
「お、お初にお目にかかります。ソウジロウです。えっと、いつも母がお世話に……」
「はは、そう固くならなくていいよ。確かに僕はこの街の領主だけど、領主なんてのは肩書きの一つに過ぎない。実際はただの雑用係みたいなものなんだ」
チャーリーさんはそういうと、僕の頭をぽんと撫でて静かに笑う。歴代最高と揶揄されるほどの実力があり、とても偉い人だというのに、柔らかな雰囲気を持つ人だ。人当たりが良く人望も厚いという噂にも頷ける。
「言うまでもないと思うが、少し面倒なことになっていてね。手を貸してもらえないか」
再び椅子に腰かけたチャーリーさんはやれやれと頬杖をつく。
「今度は一体何をやらかしたのかしら。とびきりの睡眠薬でも撒いたの?」
「睡眠薬なら、この事態もすぐに片付くんだがね……しかしまぁ、どう説明したものかな」
机に向かって何かの書類にペンを走らせるチャーリーさんは神妙な表情を浮かべたまま、静かにため息をつく。
「とりあえず座って。今、お茶を用意させる」
チャーリーさんの合図に甲冑妖精は頷き、部屋の外へ飛び出してゆく。
僕は机を挟んだソファに腰掛け、母上は隣に座って机の上のお菓子をつまむ。そんな僕らを横目に、チャーリーさんはぽつぽつと話し始めた。
「事の始まりは、そう、三日前の晩だ。僕がベルガでの酒飲みに呼ばれた時の話なんだけど。あの日は良く晴れていてね。一通り終わった後、僕は軽くそこらを散歩していたんだ。その時は酒も入っていたから、酔い覚ましも兼ねてね」
「お散歩好きだものねぇ、あなた」
「それで、えぇと、どこまで歩いたかな。確か、マガの森の辺りだったか。いい具合に酔いも覚めてきたから、そろそろ街に帰ろうかと思い始めた頃だ。ちょうど通りかかった川辺にね、女の子が倒れていたんだ。一冊の本を胸に抱いて、ボロボロの服を着た可愛らしい女の子がね」
「女の子、ですか」
「そう。女の子だ。年齢は十を数えるかどうかといった程度だろう。どうやら行き倒れらしくてね、旅の疲れからか深く眠っていたんだ。声を掛けたり、軽く体を揺すったりもしたが目覚める気配も無くてね。その場に置いて帰るわけにも行かないから、おぶってヴェントまで連れて帰ったんだ」
それを聞いた母上が、何かを察したようにくすくすと笑い始める。
「あなたらしくもない失態ね。チャーリー」
「あぁ。僕も随分と年を取ったものだ」
「ど、どういうことですか?」
「僕が連れ帰った少女がね、今朝、目を覚ましたんだ。すぐに僕は温かい食事を用意して、仕立てた洋服を着せてあげたんだが……僕の問いかけには何も答えてくれなくてね。代わりに一言、ありがとうとだけ呟いて……その瞬間、僕の視界は光に包まれたんだ」
チャーリーさんは額に指を添えてため息をつく。
「凄まじい魔法だった……僕は自分の身を守るのが精一杯で、気が付けば街があんな有様になっていた。彼女の魔法はヴェントの結界の内側、つまるところこの街の全域に及んだとみて間違いないだろう。この街の外で彼女が魔法を唱えていたら、一体どれほどの規模になったか……」
「その子、将来有望ねぇ。うふふ」
「街の全域って……そんな馬鹿な」
「あり得ないと思うだろう。もちろん僕もそうだった。だから僕はその時丁度遠出させていたカトラを呼び戻して、街の隅々まで調べたのさ。その結果、街の住民は皆、同じ魔力を浴びて眠っているのが分かった。そしてその魔力は、彼女がその身に宿す魔力と同じものだったんだ」
まとめた書類らしきものを広げながら言葉を紡ぐチャーリーさんを前に、僕はただ呆然と事態を飲み込むのがやっとだった。
「あの子は人間じゃあない。人とよく似たバケモノさ」
チャーリーさんは静かにため息をつき、書類をめくる。
「バケモノ……」
「魔族には時折、とんでもない量の魔力を持って生まれてくる個体がいるんだ。そのほとんどは生まれ持った魔力に耐え切れず、すぐに死んでしまうようだが……まれに適応する奴がいてね。そういった突然変異種が成長したものが、魔将軍ではないかと言われている。魔力の反応を照らし合わせてみたところ、僕が連れ帰った彼女がそのうちの一体であることが分かった」
「魔将軍……て、ことですか?」
「あぁ、この反応は間違いない。あの有名な『眠り姫』だよ」
その呼び名を聞いた僕の脳裏に、ぺトラさんに習った知識が蘇る。
眠り姫と呼ばれたその魔物は、戦いにおいてただの一度も戦場に姿を現さず、英傑たちが魔王グランベルゼの寝床に辿り着くその瞬間まで、グランベルゼの足元で眠っていたとされる不思議な存在である。
魔王の住処に攻め込んだ英傑たちは、その愛らしい姿から彼女のことを『魔王にさらわれ、寵愛を受けた人間』と勘違いし、どうにか無事に保護しようとしたらしい。それほどまでに、彼女は人に近い姿をしていたという。
しかし英傑たちはすぐに、その判断が間違いであったことを知る。
即座に、持ちうる力の全てを以て攻撃しなかったことを、後悔することとなる。
眠り姫が魔将軍と呼ばれる所以は、ただ一つ。
その『怪物』の魔法は、それまでに確認されていた全てを凌駕した。二ヶ月もの戦いの最中、眠り姫が魔法を放ったのはたったの一度。グランベルゼを追い詰めたその瞬間、寝ぼけ眼を擦りながら放たれたその魔法は、その場の全てを消し去った。
人類はその一瞬に全軍の三割を失い、ほぼ全ての前線拠点が塵と化した。その際に生じた衝撃波は、大陸全土を揺るがしたという。山ほどの巨体に強靭な鱗を備えた魔王グランベルゼさえも、その一撃には防御の姿勢を取ったというほどだ。休眠と同時に大地の魔力を無尽蔵に吸い上げ、たった一発の魔法にその全てを吐き出すという特異な性質の成せる技。それが、眠り姫の持つ力の全てであった。
持ちうる魔力を全て吐き出す性質により力を使い果たし、再び眠りに就いた眠り姫は、三英雄の指揮に体勢を立て直した人類によって、そのまま目を覚ますことなく封印されたという。グランベルゼ討伐の報せが人々を沸かせたのは、それからすぐの事であった。
「そ、それで、その子は今、どこに……?」
ティーセットを抱えて部屋に戻ってきた甲冑妖精が淹れてくれた紅茶を受け取りつつ、僕はおずおずと尋ねてみる。チャーリーさんは一口紅茶を啜り、ふっとその口元を歪めた。
「隣の部屋で寝てるよ」
「そう、ですか……隣、えぇっ!? 熱ッ!!」
熱々の紅茶が僕の膝を濡らす。驚きのあまりカップを取り落しそうになってしまった。
「な、なんで隣に……!」
「伝承にもあるように、眠り姫は全ての魔力を一発の魔法に注ぎ込む性質がある。恐らく彼女は、魔力を制御出来ないんだろう。今朝、この街に魔法を放った彼女はその場でぱたりと眠ってしまってね。手を焼いているところなんだ」
「その様子だと……手出しは出来ないみたいね?」
「あぁ。床に転がしておくわけにもいかないから、軽い封印を掛けて僕のベッドに寝かせたんだけど。一度外に出て、様子を見ようと戻ったら部屋に結界が張られていたんだ。締め出されてしまったのさ。それっきり、扉に触れることすら出来なくて困ってるんだよ」
チャーリーさんは机に頬杖をつき、やれやれとため息をこぼす。
「防衛魔術師でしょ。あなた。結界なんてまさに得意分野じゃない」
「そう。そうなんだよ。結界に関する魔法は僕ら防衛魔術師の十八番だ。だからこそ困ってる。賢い子だよ。あの子は」
「えぇと、つまり……?」
「説明ばかりで申し訳ない。年のせいか、話が長くなってしまってね……あれこれと話して聞かせるより、実際に見てもらった方がいいか。すぐ案内しよう。とはいっても隣の部屋だがね」
チャーリーさんは頬を掻きながら立ち上がり、部屋を後にする。
その後に続いて廊下に出た僕は、ごくりと唾を呑む。書斎の扉のすぐ隣。その扉には、流れるような文字でチャーリーさんの名前が刻み込まれていた。