第二話 旅立ちの朝
「……どうして、もっと早く教えてくれなかったのですか」
あれから一夜明けた早朝。
寝起きの悪い母上を何とか寝室から引っぱり出し、食卓へと座らせた僕はテーブルを挟んだ向かい側に腰掛けてため息をつく。朝の仕事を終えた妖精族のメイドたちが砂糖壺から角砂糖を持ち出してゆく様を眺めながら、母上はその表情を緩めた。
「びっくりさせちゃったかしら。ふふ」
「いや、まぁ驚きましたけど……それなら魔道具はどうしたんです」
母上の笑顔が凍る。
「え~っと……」
「まさか、処分したとか」
「そういうわけじゃ、ないんだけど~……」
魔術師にとって魔道具は商売道具に等しいものだ。
大きな帽子や杖、水晶や魔道書、魔術師によってそれぞれ魔道具は異なるが、魔法の行使にはいずれかの魔道具が必要不可欠であるはず。
しかし僕はこの屋敷の中でそれらしいものを見たことがない。
だから僕は母上が魔術師であるなんて思いもしなかったし、その思考すら浮かぶことはなかった。
魔道具というものは代々受け継いでゆくものである。魔女の家系には古くより、祖母から母へ、母から子へと代を重ねてきた大切な魔道具を受け継ぐ風習がある。魔女を引退したとしても、よほどのことがない限り処分したりはしないはずなのだ。恐らくはこの屋敷のどこかにはあるのだろう。僕としても英雄が使っていた魔道具には興味がある。
「一体どこに仕舞ったんですか。魔道具は何よりも大切な荷物でしょう」
「……えぇと、どこに仕舞ったかしら~……やーねぇ、最近物忘れがひどくって」
「ありませんよ。そんなもの」
その声に振り返ると、厨房からティーセットを運んできたペトラさんがため息をつく。
僕と母上の手元には甘めの紅茶が置かれ、机には砂糖をまぶして焼き上げたパンと切り分けられたケーキが並べられてゆく。小皿に分けられた一切れのケーキに群がる妖精メイドたちの様子を眺めながら、ペトラさんは彼女専用の小さな椅子に座った。
「魔道具がないって、それはどういう……」
「元々必要なかったのです。魔道具は本来暴走しがちな魔力を制御し、より正確な魔法の行使を補助するための道具ですが、奥様はそんな道具に頼らずとも、指一本で魔力を制御し操ることが出来るのです。いわば、その体そのものが一つの魔道具。故に奥様は魔道具を必要としません。奥様が英雄たる理由の一つですよ」
「あぁ~ん、バラしちゃらめぇ」
持ち上げられるのが恥ずかしいのか、顔を赤くして身をよじる母上を横目に、僕はただ吐息を零すことしかできない。英雄という存在の力は僕の計り知れるものではないと、改めてその事実を突きつけられる。
「む、もうこんな時間ですか……そろそろセバスチャンの馬車が来てしまいます」
「ねぇぺトラ、本当に行かなきゃダメなの~? リーズベルクには強い人いっぱいいるじゃない」
「確かに、彼の地には現皇帝シャルロッテ陛下を始めとした名だたる強者が名を連ねていますが、それでは足りぬと先方は仰っているのです。得体の知れぬ存在を恐れているのでしょう」
「はぁ~……めんどくさいわねぇ。あ、これおいし」
まるで慌てる様子もなくケーキを口に運ぶ母上。世界滅亡の危機が再び訪れるかもという時に、この落ち着きようは何なんだ。ただマイペースなだけかもしれないが、せめてもう少し緊張感を持って欲しいものだ。
それとも母上の言うように、わざわざ応じるほどのことでもないというのだろうか。
母上はかつて魔王を倒した英雄だというが、それでも魔王は幾度となく人類を滅ぼした化物だ。
いくら母上が伝説の魔女といえど、油断していては命に関わる。僕はそんなことを考えながら甘いパンを喉に押し込み、さらに甘い紅茶で流し込む。
「ソウジロウ。これを持って行きなさい」
そういって差し出されたのは、鞘に包帯のような布を巻いた細身の剣。
土埃に汚れたままの布には赤く濁った汚れが滲む古い剣だ。この刃は、何人もの命を奪ってきたものだろうか。
「これは……」
「今は亡き旦那様が遺した剣です。その一振りは牙の如く、貫き裂けぬものなしと謳われたこの刃、あなたに託しましょう。くれぐれも、使い方を誤らぬよう。この刃を抜くならば、対した相手を殺す覚悟を持ちなさい。いいですね」
「……はい」
受け取ったそれを腰のベルトに差すと、ほんの一瞬ではあるが懐かしい香りがふわりと僕を包み込む。幼少期に迷い込んだ地下室、先代当主たる父上が使っていた部屋の匂いだ。
フローレンベルク家の先代当主リュウザ・フローレンベルク。
今から十五年ほど前、僕が生まれたのと同じ頃に命を落としたという彼は、形式上は僕の義理の父ということになっているが、当然ながら僕はその顔を知らない。僕がこの屋敷に来たのは十年前、つまり僕が母上と出会う前に命を落とした人物である。
どんな人だったのか、聞こうとしたことはあるが、詳しくは教えてもらえなかった。
ただ優しく、勇敢な剣士だったという話しか、僕は知らない。それが不満なわけではないが。
ペトラさんは妖精メイドたちと共に荷物の整理をしつつ、大きな瞳で僕を見上げてくる。
「良いですかソウジロウ。奥様はあなたのことを何よりも愛しておいでです。あなたは奥様の護衛として、その刃を抜くことがあるかもしれません。ですが、奥様をお守りするということ以前に、自らの身を守ってください。決して、奥様に心配を掛けるようなことのないよう。くれぐれも気をつけるように」
「……はい」
「とにかく無茶だけはしないように。いいですか、絶対ですからね」
「わ、わかりました」
ぺトラさんはじっと僕を見つめてため息をつく。
こうして見ると可愛らしい女の子のようだ。とは言ってもぺトラさんは妖精族の成人。つまるところ実年齢は余裕で三桁であろう。しかしそんな事はどうでもいい。そもそも母上に護衛は必要なのかという疑問が脳裏に浮かぶも、奔放な母上を見張る必要があるかとすぐに納得してため息をつく。
そうだ。僕は母上を見張り、制し、わがままを律しなければならない。ペトラさんならまだしも、僕にその役が務まるのだろうか。
「奥様、これをお持ちください」
気だるげにケーキを頬張る母上の方へ振り向いたペトラさんは、あらかじめ用意していた荷物から杖と帽子を取り出す。素朴な革の魔女帽子と、木製の長杖だ。
「近くの市場で買ってきた杖と帽子です。安物ですが、身なりだけでも普通の魔女を装っておいてください。かの英雄、紅蓮の女王は魔道具を使わない魔女であると記された資料も確かに存在します。ダミーでも杖を持っていれば、大衆の目を少しは誤魔化せるはずです」
「誤魔化す必要あるの~?」
「慣れ親しんだこの街ならともかく、他所へ行くなら身分は隠しておくべきです。かつての英雄がそこらを歩いているとなれば、良からぬ輩も必ず寄ってきますから。くれぐれも気をつけてください。それとソウジロウ」
ペトラさんはくりっと僕の方を振り返り、今度は二つの革袋と首から下げていた笛をびっと差し出してくる。くるくると忙しない人だ。
「これは旅費とお小遣いです。こっちには金貨と銀貨を十枚、こっちには銅貨を三十枚入れてあります。食費と宿泊費、その他雑費を含めても余裕のある額を用意しましたが、決して無駄遣いはせずに規則正しい生活を心がけるように。もし、万が一に、どうしようもなくなったらその笛を吹いてください。私が助けに行きます」
「あ、ありがとうございます。何から何まで……」
世話焼きでよく気の回るペトラさんらしく、至れり尽くせりもいいとこだ。この笛なんかは毎日のように使う大切なものだろうに。
「さ、のんびりしている暇はありませんよ。一刻を争う事態です。東門の外にセバスチャンの馬車を待たせてありますので、すぐに向かってください。何事もなければ、明日の夜にはグレル山脈に入れるはずです」
「はぁ~……行きたくなーい」
「行きますよ母上」
僕は着替えや道具類なんかの荷物を詰め込んだ背負い鞄を抱え、母上の手を引いて玄関ホールへと向かう。
食堂から伸びる廊下を歩き、大きな階段を下りればすぐ玄関ホールだ。そのまま玄関のドアを開けた僕は見送りに来てくれたペトラさんと妖精メイドたちに振り返り、改めて頭を下げる。往復でもせいぜい一週間程度だろうが、しばしのお別れだ。
「じゃあ、行ってきます。家のことはよろしくお願いします」
「どうか無事に帰ってきてください。くれぐれも怪我のないよう気をつけて――」
「ペトラってば心配しすぎ。大丈夫よ、私が付いてるんだから」
ずらりと並んだ妖精メイドたちと共に不安げな視線を向けてくるぺトラさんにもう一度会釈をし、僕は母上の手を引いて街へと一歩を踏み出した。
召集とはいえ、母上と二人きりでの外出は数年ぶりだ。
そんな久しぶりの高揚感にちょっぴり胸を躍らせながら、僕は石畳の上を歩いてゆく。
◆
魔導国家ベスティア共和国。それが、この国の名前だ。
巨大な山脈に囲まれた広い領土を持ち、古くから魔力の源たる魔素が豊富で、魔法の研究が盛んであったため、今でも大陸中の魔術師が集う国として有名な地である。生活に必要な技術のほとんどを魔術に頼って生活しているこの国では、大量の商品を触れることなく操る商人や、悠々と空を飛ぶ魔女の姿を頻繁に見ることができる。
住民のほとんどが魔術師であるため、商店や市場に並ぶ品も魔法関連の道具が多く、その種類や用途も多岐に渡る。魔術を学ぶならベスティアに行けと言われるほどだ。
山向こうの機械大国リーズベルクとは同盟関係にあり、魔導技術と機械技術は競い合うようにして発展を続けている。文化こそ違えど、かつては共通の敵を相手取った仲間同士。山脈を境に国土を持つ両国は三十年前の大戦を機に同盟を結び、再び魔族が大地を荒らした際には力を貸し合うことを約束している。
魔族という人類共通の敵が存在している以上、人間同士で争いごとを起こしている場合ではないのだ。ベスティアの三大都市を治める領主と、かの英雄グリフォード様がそれぞれ若き日の友人同士だったということもあり、民の意見は食い違えど、戦争に発展する気配はない。
三つの主要都市といくつかの町村から成るベスティアは、リーズベルクほどではないが広い領土と強い国力を持つため治安もそれなりに良く、各地に点在する街はどこも活気に溢れている。中でもこの街、首都ベルガは僕が生まれ育った街でもあり、流石に十数年暮らしているだけあって顔なじみも多い。居心地もよく住みやすい街だ。
道を行き交う子供たちに手を振りながら微笑む母上の様子を眺めつつ、僕は軽くため息をつく。
母上はあれでいて子供好きで面倒見がいいため、街の子供たちにもよく懐かれている。その緩い性格と優しい笑顔で誰とでもすぐに仲良くなってしまうのだ。
特に男性からの人気は凄まじい。理由はもはや言うまでもあるまい。
たわわなそれを揺らしながら歩くその様は、妻子持ちや老人でさえも鼻の下を伸ばすほどだ。逆に女性からは羨望の目を向けられることも多いようだが、争いごとに発展したことは一度もない。むしろ秘訣をと縋られるほどである。
「おうソウジロウ、マリアさんと一緒にお出掛けたぁ珍しいな」
露店でポーションなんかを売っている道具屋のオヤジが声をかけてくる。ガタイのいい身体と屈託のない笑顔は街でも評判だ。
「ちょっと野暮用があってさ。僕は荷物持ちだよ」
「うふ、マナカクテルひとつもらえるかしら~」
「ダメですよ母上。馬車を待たせてるんですから」
マナカクテルは酒を混ぜて作られたポーションの一種だ。
ポーションとしての効果は控えめで安価であり、この国では主に嗜好品の一種として親しまれている。母上曰く、店ごとに味付けが違っていて飲み比べをするのが楽しいのだとか。ちなみにこの店のマナカクテルは果実由来のものだそうだ。
「相変わらずだなソウジロウ。一段落したらうちのポーション飲みに来てくれよ」
道具屋のオヤジはワハハと笑いながら僕の頭を掻き撫でてくれる。太くて無骨な手だけど、その手つきは温かい。
「気をつけてな」
むず痒い気持ちに口元を緩めながらも手を振ってその場を後にする。
母上と出会う前、物心着く前は街中を転々として過ごし、街の大人たちの手伝いをして生きていた僕は、道具屋のオヤジを始めとしたこの街の人たちに随分と助けられたものだ。
肉屋から切れっ端を分けて貰ったり、八百屋から売れない野菜を分けて貰ったり、怪我して転んだ時にはよくここのポーションを飲ませてもらった。酒場の新作料理を試しに食べさせてもらったり、ダンジョン帰りの宴会に巻き込まれたことだってある。この街の皆には返しきれぬ程の恩があるのだ。
魔力という人知を超えた力を扱う関係上、魔術師は若くして命を落とすことも多い。故にこの街では、早々に親を亡くした子供もそう珍しいものではない。
僕の両親は、僕が赤ん坊の頃に死んだという話を誰かから聞いたような覚えがある。身寄りのない孤児としてどこかへ連れ行かれる途中で、僕はその連れ人とはぐれたのだろう。街の大人たちは、そんな僕を他の子供と同じように可愛がってくれた。
この街は大きく活気のある街であるにも関わらず、身寄りのない子供に優しい。
いかに子供といえど、柔軟で素直な労働力の需要は絶えないからだ。
住民のほとんどが魔術師としての才能を生まれ持つこの国では、ある程度の年齢になれば魔物の討伐などの依頼をこなすことで稼ぎ、生きていくことが出来る。わざわざ誰かの店で労働をしようという若者は少なく、それ故に若い働き手がいないのである。だからこそ、身寄りのない子供が貴重な働き手として重宝されているのだ。
そうして育った子供たちがやがて大人になると、かつての恩返しにと自ら進んで身寄りのない子供の世話をするようになる。
体が弱く働けない子供を引き取って面倒を見たり、自らの店で積極的に子供を雇用したり、売れなくなった商品を路地裏で配ったりする。それを繰り返すことで住民たちの絆はより深く、硬く結ばれてゆく。僕もそんな優しい輪の中にいるのだ。
「ねぇ、ソウジロウ」
ふと、一歩先をゆく母上がぽつりと呟く。
「なんですか、母上。お酒はダメですよ。ぺトラさんにきつく言われてるんですから」
「ううん、そうじゃなくて。あのね、私のこと、怖くないのかなって」
いつもと同じ、けれどどこか落ち着いた声でそんなことを言う母上の斜め後ろを歩きつつ、僕はやれやれと肩をすくめる。
「ほら、私ってば昔はやんちゃだったから。怖がられちゃったかなー……なぁんて……」
「怖いなんて思ってませんよ。そりゃまぁ、びっくりはしましたけど」
僕がそう言うと、母上は振り返って柔らかな笑みを向けてくる。今まで見たこともないほどに、緩みきった笑顔だった。
「んふふ」
「なんですかその顔は。溶けそうになってますよ」
「何でもないの。大好きよ。ソウジロウ」
その場でくるりと身を翻して再び歩き出す母上の後を追い、人々が行き交う大通りを歩いてゆく。何だったんだろうかとぼんやり考えるも、いつも通りのんびりと歩いてゆく母上の後ろ姿を見ていると、それもどうでもよくなってしまう。
「あぁ、美味しいお酒が私を呼んでる気がする~……」
「気のせいです」
ふらふらと酒場の方へ行こうとする母上を引き止めつつ、大通りを歩き続けること数十分。木枠と石造りの家々が並ぶ街並みの果てに、大きな門が見えてくる。首都ベルガの東西南北に佇む出入り口の一つ、東門だ。
首都ベルガはベスティアの東、グレル山脈の近くに位置しており、周囲の村や町々をつなぐ街道の終着点のうち一つである。隣国リーズベルクへ向かうためには大陸を二分するグレル山脈をどうにかして越える必要があるのだが、ニ百年前ほど前まではそれも不可能であった。
リーズベルクとベスティアは山を跨いだ隣国同士。
にも関わらず、別々の文化を育んできた理由というのが、この山脈にある。
かつては誰もこの壁を越えようとはしなかった。
あの山脈は遥か昔から魔族の領域とされ、ベスティアでは古くから踏み入ってはならぬ禁忌の地として恐れられていたからだ。似たような伝承がリーズベルクにもあり、両国は山の向こうの世界など知る由も無かったという。
ゆえに、魔力の源たる魔素が豊富であった西大陸のベスティアでは魔術が発展し、鉄鋼などの資源に恵まれていた東大陸のリーズベルクでは機械が発展したのである。これらの技術は、グランベルゼの驚異に脅かされながらも積み重ねてきた先人たちの努力の賜物と言えるだろう。
ニ百年ほど前に酔狂なリーズベルクの探検家が、幾度となく生死の境を彷徨いながらもついに禁忌とされていた山を越え、隣国の文化を双方に伝えた出来事をきっかけに、ベスティアとリーズベルクは山脈の開拓を始め、やがて文化の違いに戸惑いながらも物資のやり取りをするようになった。
リーズベルクには魔法の道具を、ベスティアには鋼鉄の機械を、互いに交換しあったそれらの道具は、双方の技術の更なる発展に大きく貢献したという。
そして三十年前、目覚めた魔王グランベルゼによって一度世界は闇に沈みかけたものの、後の三英雄と呼ばれる三人の勇士によって魔王は打ち破られ、大地の奥底へ封じられた。
その後、三英雄のうち一人はリーズベルクを統べる王となり、
一人は姿を消し、そしてもう一人は僕の隣で名残惜しげに酒場を目で追っている。
「ねぇソウジロウ。一杯だけ~……」
「ダメです」
本当にすごい人なのだろうか。この人は。