第十七話 舞い散る花びら
「ぐっ……!」
大きくバランスを崩して揺れる機竜。ガルヴァさんがその場で銃を構え、機竜の下に向かって何度も引き金を引いた。何事かと僕が顔を上げると同時に、母上が僕を抱いて機竜を蹴る。
虚空へ飛び出すその刹那、ガルヴァさんと共に地上へ堕ちゆく機竜の翼には、絡みつく漆黒の茨。その胴体、僕らが座っていたその真下には紅く燃え上がる巨大な剣が深々と突き刺さり、黒く蠢く影がへばりついていた。
「ガルヴァさん!! そんな」
黒煙を吹きながら、機竜は堕ちてゆく。轟音と共に火柱が上がった。
あれは、あの茨は、あの影はまさか。冷ややかなあの笑顔が、クレウルの地下で見たあの光景が、脳裏に蘇る。
「奥様ッ!」
母上と共に地面に降り立つと、リリィを抱いたぺトラさんが上空から舞い降りてくる。
「怪我はなさそうね。良かった」
「母上」
「下がってて」
ただ一言。その言葉に、僕の意識は凍りつく。
母上は炎の方へ顔を向けたまま僕の頬を撫で、ぺトラさんが僕の腕を掴んで抱き寄せる。球状に渦巻く魔力をその手に並べ、母上は炎の方へ向かって歩き始めた。
少しだけ遠ざかる背中は大きく、僕は声を上げることすら出来ない。渦巻く赤紫の魔力は、優しい母上らしからぬ荒々しさに満ちている。先ほどのような、軽く追い払うための魔法ではない。母上は、本気で相手を殺すために魔法を使うつもりなのだと、勘の鈍い僕にもよくわかった。
やがて、空気が張り詰める。
堕ちた機竜を包み込む火柱が大きく揺れ、突き出された漆黒の腕が炎を払う。押し寄せる風は熱く、肉と鉄の焼けた匂いが混ざっている。かき消された炎の中には、巨大な影を背負う人影が佇んでいた。
「――ススが付いたわ。スペクター、拭いて」
「はい。お嬢様」
伸ばした右腕に影を侍らせ、黒い髪を流す義体の少女。その身を包む漆黒のドレスと、不気味なほどに整った愛らしい顔。その姿に、僕は思わず腰を抜かす。轟々と揺れる炎から引き抜いた歪な巨剣を手に、宝石の瞳を光らせるその姿。思い出したくもない、邪悪な薔薇の化身。
魔将軍エヴァローズが、そこに居た。
「久しぶりねぇエヴァ。その剣、あなたには大きすぎやしないかしら」
「ふん。相も変わらず不抜けた顔ね。ディア。余計なお世話よ」
二人は言葉を交わし、互いに歩み寄ってゆく。
「ここにいては邪魔になります。あそこの岩陰に入りなさい」
ぺトラさんに促されるまま、僕は炎から少し離れた所に立ち並ぶ小さな岩山に潜り込む。
機竜が落ちた場所と、母上とを直線で結んだ脇に位置する場所だ。ここからならよく見える。ぺトラさんが岩の一段高い場所に立ち、同じく岩山に押し込まれたリリィが僕の服の裾を掴んだ。
やがて両者は握手が出来る程度の距離で足を止め、静かに視線を交わす。
母上が微笑みながら見下ろし、エヴァローズが睨むように見上げる。
状況が違えば微笑ましくも見えたであろうその身長差とは裏腹に、張り詰めた空気はまるで化物同士の睨み合いであった。
「んもぅ、エヴァってば、ちょっと見ないうちにひねくれちゃって。昔はあんなに優しくて可愛かったのに……それと、私の名前はマリアよ。間違えないで」
「あぁ、はいはい……ごめんなさいねマリア。馬鹿馬鹿しくて私まで馬鹿になりそうだわ」
エヴァリーズが吐き捨て、母上がくすりと微笑む。
「うふふ。あなたのそういうとこ、好きよ。もう、食べちゃいたいくらい」
「あら、そう。私も貴方のこと大好きよ。そりゃもう、殺したいほどにね」
その瞬間、張り詰めた空気が爆ぜる。
両者の姿は煙と消え、漆黒の腕が虚空を這う。大地が裂ける轟音と共に、迸る炎。交わる炎と闇は混ざり合って打ち消し合い、渦を巻いて喰らい合う。
「――ふんっ!」
数瞬の攻防を繰り広げる最中、飛び退いたエヴァローズが手にした巨剣を薙ぎ払う。
技術もへったくれもない、ただ純粋に強引な一振り。刃を包む闇色の炎が轟と唸り、母上が立っていたその場所を呑み込む。未だ背後で燃え続ける炎がその軌跡を追い、色の違う炎が火柱となって虚空を焦がした。
「母上……!」
思わず岩陰から飛び出しそうになる僕を、ぺトラさんが制止する。
その表情に、緊迫している様子はない。
心配せずとも大丈夫と、そう言われた気がした。
「……っ」
振り抜いた巨剣の重量に負けてか、よろめいたエヴァローズはその勢いを殺せずに地面に刃先を叩きつけ、身を翻して再び構える。気が付けば、その柄を握る両手は黒く焦げ付き始めているように見えた。
「あんまり無理しないほうがいいんじゃない?」
炎がまるで煙のように渦巻いて火の粉となり、指で唇を拭う母上の姿が顕となる。
その体に傷を負った様子はなく、その表情は余裕そのものだ。渦巻く火の粉を手のひらに集め、放たれた炎の槍がスペクターの腕に打ち消される。小さな主を守る守護者は、決して万能ではない。続けざまに虚空を貫く槍の雨を防ぎ切れず、やがて巨大な腕をくぐり抜けた一本の槍がエヴァローズの手首を穿った。
「!」
細い腕は肘まで粉々に砕け散り、よろめく体は巨大な剣を支えきれない。その隙を逃さず大地を蹴った母上は拳を握り、エヴァローズを抱き込むスペクターもろとも殴り付ける。エヴァローズのそれと同じ、技術も何もない力任せの一撃。ズンと空気が震え、大地が歪むほどの衝撃がスペクターを貫いた。
陶器製の脆い体が、その一撃に耐えられるはずもない。
エヴァローズはドレスの切れ端とその体の破片をバラ撒きながら大地を跳ね、消し飛ばされたスペクターもろとも未だ炎に包まれる機竜の残骸へと叩き付けられた。
「うふふ。こんなもの、一体どこから拾ってきたのかしら」
エヴァローズの手を離れ、地面に突き刺さる巨大な剣。母上がその柄に触れると、真っ赤に燃え上がる荒々しい炎がその刀身を紅く染めた。あれは、クレウルの町の地下で見た歪な剣。少し離れたここからでも、歪なその剣を形作る生体組織のようなものが脈打つように輝いているのが分かる。
その反応はまるで、剣が歓喜に打ち震えているかのようだった。
「んしょ」
母上はそれをひょいと拾い上げ、肩口に担いで微笑む。どこか愛らしくもある美しい姿に歪な巨剣はとても不釣り合いに思えたが、悠々と剣を担ぐ母上の姿は何故だかとても様になっていた。
「さて、それじゃまたお別れね。エヴァ。何か言いたいことはあるかしら」
機竜だったものを背に、炎に包まれるエヴァローズの残骸。黒い茨を蠢かせることも無く、動きを止めた眷属と共に項垂れるそれは、もはや動く気配もない。軽く肩を落としてため息をつき、少し寂しげに佇む母上は、初めから返事など期待していないだろう。
やがて母上が静かに剣を振り上げ、物言わぬエヴァローズを消し去ろうとしたその瞬間。
――『それ』は、音もなく現れた。
揺らめく炎と虚空を裂き、穿たれたそれは巨大な槍。
まるで負の感情が刃として形を成したかのような、その歪な沼色の矛先は、母上の美しい顔を的確に貫いた。
「――ッ」
漆黒の衝撃波と共に、鮮血が一面を染め上げる。
大きく仰け反った母上が仰向けに体勢を崩し、血の海に沈んだ。
それは、あまりに唐突な惨劇。
ハッと目を見開いた僕は、目の前で赤黒い水たまりを広げるそれが母上だと、認識することが出来なかった。したくなかった。ひりついた喉は枯れ、血の匂いが風と共に押し寄せる。その瞬間、僕の中で溢れかけていた何かが限界を越え、僕は嗚咽と共に胃の中身を吐き出した。
「は、母上……!母上ッ!! げほ」
「落ち着きなさい。奥様は槍の一突き程度で死ぬような御方ではありません」
そう言ったぺトラさんは銀のガントレットを打ち合わせて火花を放ち、大きく翅を広げる。いつもと同じ冷静な口調。しかし、その肩は、微かに震えていた。
その金の瞳が睨む先。
炎の中から一歩を踏み出したそれは、裂けた口から巨大な槍を突き出した男。機竜と共に地に落ち、炎に呑まれたガルヴァさんの遺体であった。
「ひっ」
思わず、声を飲む。
焼け焦げたガルヴァさんの体が内側から引き裂かれ、沼色の液が溢れ出した。
「…………」
肉の皮を脱ぎ捨て、這い出したそれが、人のような形へと変わる。
濁りきった沼が形を成したようなその体には下半身がなく、腰から下はどろどろと不安定な体の一部を尾のように引きずっている。長い髪と、若干の丸みを帯びたその体はまるで、少女のような。そいつは赤く濁る右腕を一振りして雫を散らし、大きな黒い目を瞬かせる。
あの液状の体は、スライム系の魔物。ということは、まさか。その姿を見た僕の脳裏に、かの魔将軍の名が浮かぶ。
人に寄生し、世に紛れ、大戦をも生き延びた魔将軍、グララ・ベララ。
静かに振り向き、僕を見つめる濁った瞳は、どこか、見覚えがあるような気がした。
「!」
爆発と共に、轟く轟雷。
眩い金と銀の輝きは渦巻き唸り、迸る閃光となりて、沼色の首から上を消し飛ばす。
虚空を駆け巡る閃光は折れるような軌道を描いて何度も何度も跳ね返り、沼色の肩を、腹を、胸を、その小さな体の全てを貫く。
やがて沼色の体が削れ、黒い球体が露出する。スライム特有のコアだ。明らかな殺意を宿した黄金の瞳光が尾を引き、振り下ろされたその一撃はまさに落雷の如く。同時に降り注ぐ稲妻はあまりに激しく、目も眩む閃光と鼓膜を貫くような轟音に僕は耳をふさいで顔を伏せる。
音が止むと同時に顔を上げた僕の視界に映ったのは、音もなく虚空を貫く針のような槍と、その切っ先を掠めるぺトラさんの姿。振り抜かれた槍をひらりと躱し、身を翻したぺトラさんが血の滲む頬を拭った。
「……馬鹿な」
黄金色に輝く瞳が睨む先には、伸ばした槍を戻しながら蠢く澱んだ水たまり。その傍には、確かに割れた球体の破片が散らばっている。しかしそれらはどろりと溶けて色を変え、沼色の濁った雫となって水たまりに溶け込んだ。
「……」
周囲に飛び散った雫が集まり、蠢き、形を成してゆく。
やがて元通りの姿を取り戻したそいつは黙ったまま大きな瞳を瞬かせ、口をくぱと開いて見せる。その奥には、漆黒のコアが宝石のように艶やかな輝きを放っていた。
「……なるほど。とっさに偽物を……小癪な……他者の体を借りねば何も出来ない臆病者と思っていましたが、どうやら自分の体の使い方もきちんと心得ているようですね。まぁ、臆病であるのは間違いないようですが」
「……」
グララ・ベララは『臆病』という単語にぴくりと反応し、鞭状に伸ばした腕を振るう。その動きを目で捉えきれぬ程に素早い攻撃であったが、ぺトラさんはそれを的確に捉えて弾き、逆に鋭い雷撃を撃ち返してみせた。
「!」
雷撃に仰け反り、身を起こしたその体は、バチバチと這い回る電流に痙攣する。
スライム系は総じて液状の体を持つ種族である。水属性の魔力で液状の体を形作っているスライム系の魔物は、雷を帯びた魔力にめっぽう弱い。あの反応を見る限り、変異個体でもその特性は同じのようだ。腐ってもスライム。いや、色的には腐ったスライムか。
「――ッ」
雷光と共に大地を蹴ったぺトラさんが虚空を舞い、身を翻して蠢く体に踵を落とす。その一撃に大地が悲鳴を上げ、轟音と共に岩盤が花開く。黄金の稲妻が龍となりて大地と蒼穹を駆け巡り、飛び散る雫を喰らい尽くしてゆく。
グララ・ベララは飛び散った体を尖らせるが、黄金の龍を貫くことなど出来やしない。
幾重にも重なり合う稲妻が描く円環は息を呑むほどに美しく、光り輝くその様はまるで、完成された絵画の如く鮮烈であった。
「ぺトラさん!!」
衝撃に弾き飛ばされ、勢いよく大地を跳ねる漆黒のコア。
僕の声にハッと顔を上げたぺトラさんは大地を蹴り、地に落ちようとするそれに手を伸ばす。しかし、その刹那、寸前のところで指が届かず、コアは真っ赤な水たまりに飛び込んだ。
「しまっ……!」
ぺトラさんは奥歯を噛み、跳ね返るように飛び退いて距離を取る。
漆黒のコアは音もなく溶けて消え、赤く濁った水たまりに波紋を広げた。大地に赤く広がるそれは、鮮血。未だ倒れ伏したまま起き上がる気配のない、母上の血だ。
「……まさか」
うわ言のように、呟く。
今、この状況で考えうる最悪の事態。
真っ赤な血溜まりに生まれた波紋が消えたその瞬間、倒れ伏した母上の体が痙攣する。
血に濡れた腕が大地を掴み、少しづつ、その体を起こし始めた。
「逃げなさい、ソウジロウ」
僕に背を向けたまま、紡がれたその言葉に、僕は耳を疑った。
ぺトラさんは今、何と言った? 僕に『逃げろ』と、そう言ったのか? あのぺトラさんが、守りきれないかもしれないと、勝ち目はないと判断したというのか。もし、そうだとしたら、ぺトラさんは……。
「ぺトラさ……」
「聞こえなかったのですかッ!?」
ギッと、鋭く力強い瞳が僕を睨む。その刺し貫くような視線に、僕は思わず震え上がる。いつものような、どこか余裕のある落ち着いた眼ではない。瞳孔の開いたその瞳に宿る感情は、焦り。この状況がどれほどのことなのか、その瞳が全てを物語っていた。ぺトラさんは再び僕に背を向けると、静かに拳を構えて深く息を吐く。
「…………リリィ様」
「ふぇっ、あ、は、はいっ」
「貴方様は、転移魔法を習得してらっしゃるはずです。その者を、ソウジロウを連れて、どこか遠くへお逃げください。ベスティア領内が望ましいですが、この際どこでも構いません。とにかく、一刻も早くこの場を離れてください。早く!」
「あわ、はわわ」
僕の隣で腰を抜かして震えていたリリィが慌てて両手を広げ、その身に宿した魔力を元に複雑な術式を紡いでゆく。
「対抗できるとは到底思えませんが、私が時間を稼ぎま――」
その瞬間、僕の視界が静止する。
全ての色が消え、あらゆる音が消え、僕の意識さえ凍りつく。それは、ほんの一瞬の出来事。振り抜かれた刃の軌跡が、虚空に刻まれる。音もなく尾を引く真紅の瞳光だけが、僕の視界の中で鮮やかに色づいていた。
「ぺトラさんッ!!」
斬撃と共に吹き荒れる風と炎が闇を絡めて渦を巻き、立ち尽くすぺトラさんの体が宙を舞う。そのまま地面に叩きつけられ、動かなくなるぺトラさんを背に、母上の姿をした『そいつ』が巨剣を片手にゆらりと振り返る。
血に濡れて赤く染まる服と、血に汚れた長い髪。全身を紅く染めたその姿は、伝説に名を残す紅の魔女そのもの。美しかったその顔の右側は大きく抉られて血を流し、剥がれた皮膚の下には焔が脈打つ黒い肌が見える。その様は、焼け焦げた左手とよく似ている。潰された右の眼孔に燃え盛る炎のような瞳光は静かに尾を引き、僕を見つめて爛々と輝いた。
「!」
すっと、そいつが左手の指を払う。放たれた炎が僕の頬を掠めた。
「あっ……」
弱々しい声が上がり、集められた魔力が小さな爆発と共に霧散する。狙いは僕ではなく、僕の背後で必死に術を組み立てようとしていたリリィの方であった。どうやら、僕らを見逃してくれる気はないようだ。
「……ソウジロウ」
そいつはゆっくりと歩み寄りながら、僕の名を囁く。
脳裏に染み込むような、甘く優しい声色。紛れもない、母上の声である。
「やめろ……その声で……僕の名を呼ぶなッ!!」
「怯えているのね。可哀想に」
剣を地面に突き立て、優しく呟いたそいつは、僕の顔を包み込むように頬を撫でる。熱い。頬を這うその指はまるで、内側が燃えているかのようだ。その人ならざる右目に宿る炎が揺れ、そいつは、その口元を緩やかに歪めた。
「大丈夫よ。何があろうと、私はあなたを愛しているわ」
ふう、と吹きかけられる甘い吐息。優しく、それでいて強引に、僕の意識は攫われた。