第十五話 地底の覇者
いつも通りの優しい声色。
しかしその声は、とても冷たくその場を支配した。
優しく囁かれたその言葉の意味に、リリィは気づいてしまったのだろう。微かに開かれたその口元から、声にならない吐息が漏れる。
「……っ」
「ぺトラ。手を貸して頂戴」
母上は震えるリリィの肩を抱き、指を振るう。地中から吹き出した紫色の炎が十字架を包み、まるで貪るようにその光を奪ってゆく。輝く十字架の根元が黒く濁り、力なく俯いていたビフロンズが嗚咽と共に血を吐いた。
「……ッ!!」
大きく見開かれたその目が、正面に立つ僕を睨む。黒い髪の隙間に光る、血走った瞳。今の今まで死にかけていたとは思えないほどに力強い憤怒に燃える紅い色。しかしその目は、ひどく怯えているようにも見えた。十字架の根元から徐々に這い上がる紫の炎はまるで、身動きの取れない餌を喰らう蛇のように、その体を少しづつ飲み込んでゆく。僕は思わず言葉を詰まらせ、数歩後ずさる。
「よろしいのですか。奥様」
リリィの頭上から飛び立ったぺトラさんは、翅を大きく広げながらため息をつく。
「えぇ、もちろん。どちらにせよ、このままじゃ手が出せないわ」
「ちょっとちょっと、何してんのさ。貴重なサンプルが――」
「ルシルは下がってて頂戴。ソウジロウ、あなたもよ」
蜘蛛の子を散らすように離れてゆくノームたちに服の裾を引かれ、僕とルシル様は半ば引きずられるように十字架から離されてゆく。
「あなたも知ってるでしょう? リリィちゃん。一度封印に縛られたら、自分の意志ではどうすることもできない……誰かが楽にしてあげないと、永遠に苦しむことになるの。この子を楽にしてあげられるのは、あなただけ。大丈夫、誰もあなたを責めたりなんかしないわ」
リリィの肩を優しく抱き、その耳元で囁く母上。ぺトラさんの手から放たれた光が十字架を砕き、解き放たれた死神が吼える。その手に顕現した大鎌が全てを刈り取らんとするその瞬間、部屋の扉が勢いよく閉じられた。
「……っ」
部屋の外へと放り出された僕が尻餅を付くと同時に、ズンと音を立てて空気が震えた。閉じられた扉の内側からドス黒い瘴気と共に土埃が吹き出し、女性の甲高い絶叫が廃坑に響き渡る。燃え盛る炎と稲妻が幾度となく扉の隙間から溢れ出し、やがて静かになった。
「いてて。乱暴だなぁ、もう」
僕と同じく部屋から弾き出されたルシル様が身を起こし、退避したノームたちがわらわらと集まり始める。数度の衝撃に歪んだ扉が通路に倒れ、押し寄せる土埃に咳き込む。
これは、ビフロンズが吐き出したであろう瘴気混じりの煙だ。まともに吸っては肺がやられる。僕は咄嗟に口を塞ぎ、後ずさるようにして距離を取る。濛々と立ち上る土埃の先に見えたその景色に、僕は目を見開いた。
床に突き刺さる、巨大な三日月の刃。
猛毒を含んだ瘴気と土埃が舞う部屋の中央、十字架が立っていたその場所には、朽ち果てゆく黒衣と血だまり。ふらりと倒れこむリリィを抱きとめた母上が静かに微笑み、咄嗟に駆け寄ろうとした僕を制止した。
「怪我はありませんか。ソウジロウ」
「ペトラさ――」
「もっとしっかり口を塞ぎなさい。二度と喋れなくなりますよ」
光の尾を引いて飛んできたぺトラさんが、いい匂いのするハンカチを勢いよく押し付けてくる。特殊な繊維を編み込んだぺトラさんお手製のハンカチだ。破れず、くたびれず、汚れにくい。マスクの代わりには最適な布である。
「ボクのことは心配してくれないんだね……ぺトラちゃん。もう百年来の付き合いだってのに」
「あなたの何を心配しろというのです」
「心かな」
ルシル様はそう言うと怪しげな液体入りの小瓶を取り出し、腰に手を当ててぐっと飲み干す。小気味よいため息が溢れた。
「少し移動しましょう。立てますか? ソウジロウ」
「は、はい……あれ?」
小さなぺトラさんに手を引かれ、立ち上がろうとするも足に力が入らない。腰でも抜けたかと思ったが、違う。手足の感覚が無い。意識と体が切り離されたような、不思議な感覚だ。半ば無意識のうちに、乾いた吐息が口から溢れる。
「――ビフロンズの瘴気に含まれる毒は、即効性の強い神経毒だからね。すぐに死ぬような毒じゃないんだけど、とにかく回るのが早い。特に人間にはよく効くんだ。この毒のせいでどれほど苦労したか……くふふ、ボクが居合わせた運命に感謝したまえよ」
ルシル様が肩を落としながらボロ布の内側をまさぐったかと思うと、取り出したポーション用の小瓶を僕の口に押し込み、傾ける。
人肌の温もりに触れていたぬるい喉越しと、苦味と酸味が絶妙に混ざり合う味わいに思わず顔をしかめた。しかし吐き出すわけにはいかない。どうにか堪えて飲み下すと、手足の先が痺れてくる。
「大丈夫、すぐ楽になるよ。不味いのはご愛嬌さ」
「ルシル様。うちの者に何を――」
そう言いかけたぺトラさんがハッと顔を上げ、右手を付いて跪く。
何事かと周囲を見れば、ノームたちは通路の壁際に座り込み、皆一同に通路の奥へと視線を向けている。
やがて、金属が擦れるような音と共に、それは姿を現した。
平べったい巨体を覆う銀白色の甲殻が、光を反射して濡れたように輝く。短くも鋭い大顎が打ち鳴らされ、僕は思わず情けない声を上げてしまう。銀鉱石を貪る『煌蟲』センチュリオンの亜成体。僕が顔を上げると、センチュリオンの背に設けられた椅子に腰掛ける女性が静かに僕を見ていた。
暗褐色の肌と金色の瞳。輝く宝石に彩られた煌びやかな服の装飾。余裕のある表情と溢れ出す威厳に満ちたその姿。それが何者かなど、疑問を抱くまでもなかった。
「……女王、様……」
地精ノームを統べる王。それは即ち、地底の覇者。
脚を畳んで屈むセンチュリオンの頭を踏んで通路に降り立った女王は、無数の指輪に飾られた指先で僕の顎をくっと持ち上げ、黄金色に煌く瞳でじっと僕を見つめる。美しい顔立ちと溢れんばかりの存在感に飲み込まれた僕は声を上げることもできず、震える目線を抑えるのが精一杯であった。その瞳はまるで、何かを尋ねているかのような――
「怪我は無いか、と。陛下は尋ねておいでです。答えなさい」
「は、はい! 無事です。無傷です!」
女王は「そうか」とでも言うように頷くと静かに目を伏せ、僕の額にそっと唇を寄せる。半ば凍りついた意識の中でその行為の意味を探ると同時に、女王が僕の背後に目を向けた。
「ごきげんよう。陛下。お会いできて光栄ですわ」
眠りに就いたリリィを抱く母上が恭しく腰を折り、にこりと微笑んでみせる。女王は少し面白くないような顔をして身を翻し、もう一度僕の方へ振り返って頬を撫でる。何か聞きたいことはあるかと、そう言われているような気がした。
「質問はないかと、陛下は尋ね――」
「いえ。お心遣いに感謝します」
ぺトラさんは目を見開き、驚いたような表情のまま硬直する。女王は満足げに頷くと最後に僕の頭を撫でてからセンチュリオンの背に上がり、指で天井を指し示す仕草を見せた。
『上へ向かえ』と。そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
女王の口は動いておらず、声らしい声も聞こえなかったが、確かにそう言われたと、僕は確信することが出来た。女王が、僕にそう言ってくれたのか。
「ぁ……」
驚きと混乱に脳裏を乱され、上手く言葉が出てこない。女王はそんな僕を見てふっと微笑むと、艶やかな銀色の甲殻をトンと叩く。それを合図にセンチュリオンが大顎を打ち鳴らし、その場で振り返って歩き去る。その後を追うように、数体のノームがビフロンズの大鎌を運んで行った。
その姿が見えなくなると同時に、どっと疲労感が押し寄せてくる。
ぺトラさんの手を借りて立ち上がった僕は、未だ整理のついていない意識の中で深く息を吐いた。
「どうして……女王様が……」
「様子を見に来てくれたのよ。ここはノームの領域だもの。ビフロンズの力は、ノームたちの生活を脅かす可能性があると判断したんでしょうね」
うふふと微笑みを溢しながら、母上は通路の奥を見据えた。
よじ登ってくるノームたちに首筋や顔などを噛まれながら、僕はその場に立ち尽くす。
「それにしてもソウジロウ、すごいじゃない。女王様から寵愛のキスを貰うなんて。田舎の小さな村なんかじゃ、村をあげてお祝いするくらいおめでたいことなのよ。ノームたちも祝福してくれてるわ。うふふ、良いことあるといいわねぇ」
「祝福、ですか……噛まれてるんですけど」
「ソウジロウ。あなたは…………いえ」
何かを言いかけたぺトラさんは目を伏せてため息をつき、肩を落とす。
「……新しい礼服を仕立てなくてはなりませんね。発注が間に合うといいのですが」
「えっ」
「ルシル、あなたいつまで隠れているつもり? 女王様ならもう帰ったわよ」
そういえば、ルシル様の姿がない。ハッとして背後に目を向けると、部屋の中に隠れていたらしいルシル様が扉の枠から顔を覗かせた。僕の傍に居たのに、いつの間に部屋の中まで移動したんだ。というより何故隠れたのか。
「……何してるんですか」
「うん? あぁ、ちょっとね。昔、女王を怒らせちゃったことがあってさ」
「……何したんですか」
「別に、大したことじゃないよ。ノームたちに新しい薬を試そうとしただけさ。ちょっと実験したかっただけなんだ。別に危ない薬じゃなかったんだよ? でも女王はそれが毒か何かだと思ったらしくて……いやぁ、怖かったね。死ぬかと思ったよ。っていうか三回くらい死んだ気がする」
本当に、何をしてるんだこの人は。
「そんなことよりルシル。私たち、リーズベルクにお呼ばれしてるんだけど~……」
「リーズベルクに? それなら、近くに山の外まで行ける移動用の機械があるよ。案内しようか」
「えぇ、助かるわ」
「リーズベルクについてちょっと話したいこともあったからね。丁度いいや。歩きながら話そう」
◆
「――それで、話したいことって?」
それぞれの荷物をまとめ、あの部屋を後にしてから十数分。僕らは他愛のない会話に盛り上がりつつ、ノームの群れと共に先の見えない廃坑を歩いていた。どうやらこの道の果てに、ルシル様の言う移動用の機械があるらしい。
「あぁ、そうそう。リーズベルクについてなんだけど、何だか妙なんだ。様子が変なんだよ」
「……というと?」
「あの国は元々閉鎖的な国ではあったけど、ベスティアとの交流も少しづつ増えてきてるでしょ? リーズベルクからの旅行者も、昔と比べてかなり多くなってるし」
「そうね。少なくとも、物資のやりとりは毎日のように行われているはずよ」
「ボクん家は峠にあるから、山道を往復する旅行者とか荷馬車なんかもよく見てたんだけどさ。最近、ひと月くらい前からかなぁ。リーズベルクからベスティアに来る人の姿をめっきり見なくなったんだ」
その言葉に、僕らは顔を見合わせる。
「一ヶ月ともなると、流石に偶然ってわけでは無さそうですね……」
「向こうの友達に送った手紙も帰ってこないし、様子を見に行かせたうちのペットたちも帰ってこない。何度も往復してるはずの行商人すら居ない。なんか嫌な予感がするんだよねぇ」
ルシル様は嫌気に満ちたため息を付き、言葉を連ねる。
「山の上から目を凝らしても、この山の向こうは赤黒い霧に覆われて何も見えない。魔力の反応が多すぎて、探知魔法も役に立たない。何より妙なのが、この現状に気づいてるはずの領主たちが動こうとしないってとこなんだけど」
「そう言われてみれば、確かに変ねぇ」
「ルシル様。私たちはここに来る途中、数体の魔将軍と接触しています。奴らの動きについての情報はありませんか」
「……魔将軍?」
ぴたりと、ルシル様の歩みが止まる。くり、とこちらを向いた表情に笑みはない。
「あっちゃー……もう動いてるのか。封印が破られたってのは聞いたけど……こりゃー、手遅れかも……」
軽く俯き、何かを呟いたルシル様はやがて再び歩き出すと共に顔を上げ、きょとんとする母上の方へ振り返る。
「マリア。三十年前のあの日、封印し損ねた奴がいたよね。どんなのだったか覚えてる?」
「えぇっと、そうねぇ。確か、どろどろーっとしてて掴みどころのない子だったわ。スライム系だと思うけど、捕まえ方が分からなかったのよねぇ。名前は、えっと……くらーら、べらー……くらら?とか、なんとか」
「……グララ・ベララ」
その名前に、僕はごくりと唾を飲む。
グララ・ベララは他の生物に寄生する力を持ったスライムの変異種であり、単独行動をしていた兵士の体に潜り込んで支配し、体から体へと乗り移りながら暗躍し続けたとされる魔将軍だ。
奴が寄生した『木偶』によって暗殺された将軍は数多く、水面下での暗躍が齎した機密情報の漏洩によって人類は何度も窮地に立たされたという。
肉体に寄生するだけでも厄介だというのに、グララ・ベララはさらに奪った肉体の記憶や知識を探ることが出来たと言われており、かつての大戦時には生き延びた者たちに紛れて息を潜め、あたかも人類の一員であるかのように振舞ってその場を凌いだと考えられる。このことから、魔族の中でも極めて高い知能を持つとされた。
大戦から三十年が経った今でも、魔将軍グララ・ベララの所在は掴めていない。
「あいつはこの三十年、ずっと人間に紛れて仲間を探してたんだ。そして見つけた。大陸のあちこちに封印された魔将軍たちの『躰』と『魂』……探して、見つけて、かき集めて……そして今、最後の仕上げに入ろうとしてる……のかもしれない」
「……魔王の復活、ですか」
僕の言葉に、ルシル様は頷く。
「マリア。どんな用事か知らないけど、本当に行くの? 向こうの様子が分からない以上、召集そのものが罠だって可能性もある。流石のキミも怪我じゃ済まないかも」
「うふふ。もとより危険は承知の上よ」
「……何年経っても変わらないよね。キミも。それじゃお客様方、こちらへどーぞ」
たどり着いた道の果てで、ボロ布を翻す。
黄色と黒の縞模様に彩られた鉄の扉が、静かに僕らを出迎えた。